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2006年12月30日

『霊操』 イグナティウス・デ・ロヨラ (岩波文庫)

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 イエズス会の創始者、イグナティウス・デ・ロヨラが後進の指導のためにまとめた瞑想の指導書である。カトリックにはこれだけ具体的・組織的に書かれた本が他にないので、イエズス会以外の修道会や一般信徒も本書を使って瞑想しているそうである。

 ロヨラはカルドネル河畔で神秘体験を経験し、それによって人間が変わったとされているが、本書はロヨラと同じ体験に導くために書かれた。ロヨラは以前にも神秘的な体験をしているが、カルドネル河畔の体験はイメージを伴わない純粋に知的な直観だった。それゆえ、『霊操』はイメージを通じた神との一体化ではなく、神の意志を探し見いだすことに主眼がある。

 訳者の門脇佳吉氏はこの点に注目し、『霊操』と禅が似ていると指摘している。門脇氏はイエズス会の会士だが、高校時代から参禅していて、『霊操』の修行を実践して禅との共通点をいよいよ感じたという。具体的には次のような点である。

  1. 万物は道/神の活動で活かされているという自覚
  2. 「無」/「不偏」の相似性
  3. 自愛心からの脱却
  4. 世俗の生活から離れて集中的に黙想

 門脇氏は西田哲学の用語を援用し、デカルト的自己が「意識的自己」なのに対し、『霊操』の自己と「行為的自己」だとして、次のように書いている。

 『霊操』における観想は、キリストが御父の御意志をどのように実行され、このキリストの模範に促されて、われわれがどのようにキリストに従って「父なる神」の御意志を実行して行かなければならないかを観る。その場合、キリストも父なる神も人類救済のために「働く方」であり、行為的主体として観られ、それと同じように霊操者も「働く者」である。霊操者はキリストにならって、どのように神と人類に奉仕して行けばよいかを探求する。観想修道会のように、静寂の中に神を観想し、讃美し、祈ることが中心課題ではない。

 門外漢としてはなるほどと思うしかないが、実際に読んでみると、イメージを多用していて、禅より密教や浄土教の観想に似ていると感じた。たとえば、こんな具合である。

四、私のこの生身が朽ち果て、醜い骸になることをじっくりと視る。

五、私のこの身が潰瘍や膿腫におかされ、そこからおびただしい罪と悪事とが吹き出し、汚らわしい膿が流れでるのを観察する。

 こういう観想は密教や浄土教以外の宗派でもやっているようだが、次に引くようなシナリオにしたがった瞑想は密教や浄土教の観想によく似ている。禅ではこういう瞑想はやらないのではないか。

第一前備 歴史的出来事である。ここでは、「われわれの貴婦人」が御懐妊九ヶ月の身でありながら、ナザレをどのような様子で出発されたかを想う。雌ろばに乗られ、牛を連れたヨセフと婢に伴われてベトレヘムに旅立たれた。それはローマ皇帝がすべての国に課している貢物を納めるためであった。

第二前備 想像力を使って場所を見ながら、現場に身を置く。想像の目でナザレからベトレヘムへの道を見、その道の長さと幅、また、平坦であるか、谷や丘を超えて行くか、を見る。同様に御降誕の場所(洞窟)がどれほど大きいか、小さいか、どれほど低いか、高いか、どのように調度品が置かれているかをよく見る。

 あるいはイメージは単なる道具であって、イメージの先にある経験が重要ということなのかもしれない。『霊操』には夥しい注釈書が書かれているというが、多分、口伝の類もあるだろう。これはもう実地に指導を受けて、やってみないことにはわからない。

 瞑想のやり方だけではなく、修行生活全般の注意点も具体的に書かれている。瞑想修行を深めていくには体力が必要だと喝破し、体力を維持するためにパンは減らさない方がよく、減らすなら副食の方だとアドバイスしている。禅病や魔境にあたるような症状についても記述がある。

 禅なのか密教なのか浄土教なのかはおくとしても、東洋で育まれてきた身体知に通ずるものがあるのは間違いない。井筒俊彦は『意識と本質』で仏教、道教、ヒンズー教、イスラム教の身体知の共通の基盤に注目したが、多分、カトリックも例外ではなく人類共通なのだろう。

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