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2006年12月28日

『ソドムの百二十日』 サド侯爵 (青土社)

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 サドの未完の大作で、四人の道楽者リベルタンがそれぞれの妻と、選りすぐりの美少女8人、美少年8人、海千山千の娼婦あがりの語り女4人、巨根が売りの馬蔵4人をともなって山奥の城に閉じこもり、11月1日から2月28日までの4ヶ月間、ありとあらゆる変態行為に明け暮れるという話である。四人の道楽者は表の社会では裕福な名士だが、裏では実の娘と近親相姦していて、その娘を互いの妻とすることで結束を固めている。

 外界から遮断された館の中で語り女がエロチックな体験談を披露するという趣向は『デカメロン』に通ずるが、この作品では体験談に触発されて道楽者が美少女、美少年、他の道楽者の実の娘でもある妻をあの手この手で嬲りものにしていく。48手どころか480手、いや4800手くらい出てくるかもしれない。

 四人の道楽者のうち、精力絶倫で巨根なのはブランジ公爵だけで、あとの三人は精力が衰えており、逸物も小さい。その代わり想像力は極限まで肥大していて、腋臭フェチ、汗フェチ、おならフェチ、尿フェチ……と、考えられるありとあらゆる変態行為が登場する。

 サドはバスティーユ監獄でこの作品を書いたが、フランス革命の発端となったバスティーユ襲撃時に他の原稿と一緒に行方がわからなくなってしまった。この作品は長さ12mの巻紙に書かれていたので、サドの死後、奇跡的に発見され、20世紀になって刊行されるという数奇な運命をたどっている(詳しくは澁澤龍彥『サド侯爵の生涯』参照)。

 作品は準備段階を描いた序文と、11月から2月までの各月を描いた1~4部にわかれるが、きちんと書きこまれているのは序文と最初の1ヶ月をあつかった第1部だけで、2~4部は粗筋の間にメモがはさまっているといった体裁である。本訳書でいえば序文65頁、第1部252頁に対して、第2部26頁、第3部27頁、第4部52頁にすぎないし、辻褄のあわない記述も散見する。バスティーユ襲撃で原稿を失わなかったら、サドは首尾ととのった作品に仕上げていた可能性が高い。

 いわば建設途中の大聖堂だが、序文と第1部だけでも倒錯の百科全書というべき威容を誇っている。

 この作品は1962年に澁澤龍彦彥が桃源社の『マルキ・ド・サド選集』でいちはやく紹介しているが、序文だけの翻訳だった。澁澤訳はさまざまな形で版を重ねており、現在でも文庫で入手できるが、序文だけの翻訳であることは変わらない。完訳は今回紹介する佐藤晴夫訳だけである。

 澁澤はサドを翻訳するにあたり身も蓋もない訳語は避け、「玉門」、「裏門」、「気を遣る」など、春本の語彙を使って雅文体を作りあげた。佐藤訳は基本的に雅文体を踏襲しているが、「強蔵」を「馬蔵」、「腎水」を「精水」のように変え、現代語に若干近づいている。

 同じくだりを比較してみよう。まず、澁澤訳。

 ジュリイの妹で、実は司教の娘であるアリイヌは、習慣においても、性格においても、欠点においても、その姉とはまるきり違っていた。

 四人のなかではいちばん若く、まだやっと十八歳だった。すねた子供のような、みずみずしい色気をそそる小さな顔の娘で、天上を向いた可愛らしい鼻と、表情に富んだ生き生きとした栗色の眼と、愛敬のある口と、あまり大きくはないが、肉づきのよい均整のとれた体と、小麦色の、ふっくらした美しい肌と、やや大きいけれども、格好のよい臀部と、道楽者の目にこの上ない肉感をそそる左右の尻と、栗色の毛におおわれた小丘と、やや下つきの、いわゆるイギリス型と称する玉門の持主だった。けれどもその陰谷は実に狭くて、集会の際に検分してみたところ、まぎれもなく処女であった。作者が現在この章を書いている当時、処女であったというので、やがてその初物がいかにして破毀されたかは後刻に述べる。

 佐藤訳ではこうなる。

 公爵の妹娘で、実は司教の娘であったアリーヌは習慣も性格も欠点も全く姉とは違っていました。四人の娘の中で一番若く、一八歳になったばかりでした。刺激的で新鮮で、腕白っ子のような小さな顔立ち、上を向いた可愛い鼻、生き生きとして表情に富んだ栗色の目、魅力的な口、やや肉付きがよいけれども均整の取れた身体、やや麦色で、手触りのよい美しい皮膚、放蕩者の目をそそるこの上もない官能的なお尻、大きめですが形のよく整った裏門、そして、栗色の毛に覆われた小丘、世間ではイギリス型と呼んでいる、少し下付きの、極めて狭い玉門の持ち主でした。今私がこの物語を書きかけているとき、すなわち、道楽者達の集会に身を曝すようになるときまでは、彼女の玉門は完全に生娘の状態でした。この初物がどのようにして破られたかは後ほどおわかりになるでしょう。

 「ですます」調なので、童話的な味わいがくわわる。澁澤の名調子のファンには物足りないかもしれないが、若い読者には佐藤訳の方が読みやすいだろう。

 澁澤訳はこれからというところで終わっていた。佐藤訳の存在は出た直後から知っていたが、サドの完全版は退屈と聞いていたので、今日まで読まずにきてしまった。今回読んでみて、退屈どころか、おもしろかった。ある意味でワンパターンの繰りかえしなのだが、消えかけた欲望の火をなんとか燃えたたせようとする必死さが緊張感を持続させているのだ。序文だけではサドの涙ぐましいばかりの格闘が見えない。人生の下り坂を自覚した哀しくも滑稽なサドを知るには完訳を読む必要がある。

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