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2006年09月30日

『ぼくがカンガルーに出会ったころ』 浅倉久志 (国書刊行会)

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 SFの翻訳で著名な浅倉久志氏の初のエッセイ集である。40年以上のキャリアでこれまで自著がなかったのは意外な感じがするが、それだけにどの文章もよりすぐりである。

 1/3くらいは読んだことのある文章だった。大昔のことなのですぐにはわからなかったが、浅倉氏のエッセイには大概印象的なオチがついているので、読んでいる途中でオチを思いだし読んだことがあるとわかるのだ。

 最初の「翻訳とSF」という章には英語の本を読むようになった頃の思い出と翻訳をめぐる失敗談が集められている。

 浅倉氏はもともとはミステリ・ファンで、最初に買った原書はカンガルーのマークでおなじみの Pocket Books社のミステリだったという(表題にいう「カンガルー」とはこのマークのこと)。SFに興味を持つようになったきっかけが、ウィンダムの『トリフィド時代』だったというのはなるほどと思ったが、若い人にはピンと来ないかもしれない。ウィンダムも『トリフィド時代』も今では忘れられているが、SFの歴史の中では抜かすことのできない作家であり作品である。

 「ぼくが好きなSF作家たち」はハリイ・ハリスンら、8人の作家について書いた文章を集めている。ラファティ、ジェイムズ・ティップトリーJr.、コードウェイナー・スミスの3人はSF史に残る作家だが、ハリイ・ハリスンは微妙、ジャック・ヴァンス以下の4人は脚注どまりだろう。このちょっとはずした選び方が浅倉氏らしい。

 好きな作家の中でもディックとヴォネガットは別格ということで、「ディックとヴォネガット」という独立した章が立てられている。今では二人ともSFの枠を越えアメリカ文学史に名前を残す作家になっているが、日本でまったく知られていない時代から浅倉氏がこつこつ紹介してきたことは記憶されてよい。

 「ユーモアSFに魅せられて」は特に力のこもった章である。ディックとヴォネガットは遅かれ早かれ翻訳されただろうが、ユーモアSFは浅倉氏がいなかったとしたら存在すら知られずに終わっていたかもしれない。ユーモアSFが紹介されたことで日本のSFは、というか日本の翻訳文学は間口が広くなった。翻訳家浅倉久志の最大の貢献はユーモアSFの紹介にあったといえるかもしれない。

 「SFスキャナー」の章は「SFマガジン」の人気コラム「SFスキャナー」の原稿を集めていて、一番なつかしかった。

 「SFスキャナー」は英米のSFの最新の動向を紹介するコラムで、もともとは伊藤典夫氏が担当していた。ニューウェーブSFの震源地も「SFスキャナー」で、ディレイニーの『アインシュタイン交点』や『ノヴァ』を最初に紹介したのもここだった。

 ニューウェーブ最高潮の1970年に伊藤氏は「SFエンサイクロペディア」という別のコラムを連載するようになり、「SFスキャナー」は浅倉氏と荒俣宏氏、鏡明氏のもちまわりになった。すごい顔ぶれだが、当時は筒井康隆と小松左京の作品もよく載った。今にして思えば、あれが「SFマガジン」の全盛期だった。

 浅倉氏は11回担当したということだが、残念なことに紹介作品が翻訳されている回は省くということで5回分しか収録されていない。これはもう歴史なのだから全部載せてほしかった。

 最後の「アンケートとアンソロジー、映画、思い出のひとびと」はその名のとおりの雑集だが名編が多い。末尾の矢野徹氏追悼の文章には矢野氏のお声がかりではじまった翻訳勉強会の話が出てくる。わたしも何回か末席に連なり、矢野氏の奇想天外な漫談を聞かせてもらったことがあるので、感慨がひとしおだった。

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2006年09月29日

『ABOUT WRiTiNG』 Delany, Samuel R .(Wesleyan Univ Pr)

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 昨年出版されたディレイニーの創作論集である。

 ディレイニーは1977年に『The Jewel-Hinged Jaw』という評論集を出しているが、フランス構造主義かぶれの文章に辟易した。今回の本は資料のつもりで買ったが、ちょっと読んでみると拍子抜けするくらい平明な語り口で抵抗なく読めた。内容も小説を書きたい人向けの指南書といった趣きで、率直かつ丁寧である。

 第一部は「七つのエッセイ」と題され、1960年代末から1980年代はじめまでに発表された序文、エッセイ、講演、講義が含まれている。ロラン・バルトが言及されたりはするが、どれも創作のコツについて率直に語っていて、作家とは思えないくらい「いい人」という感想をもった。

 第二部は1990年代後半に作家仲間にあてて書かれた4編の書簡が集められている。やけに文学的な描写が多いし小説論や創作論を用意周到に語っているので、後で本にすることを念頭に書いたものだろう。

 第三部には5本の長いインタビューがおさめられている。まだ一本目の「パラ*ドクサ」誌の1998年のインタビューしか読んでいないが、『Atlantis:Model 1924』 という近作の話が主である。

 この小説は17歳でノースカロライナからニューヨークに出てきたディレイニーの父親の体験を書いたものだそうで、父親より3歳年長の夭折した詩人、ハート・クレインの詩を下敷きにしているという。

 ディレイニー自身はブルックリン生まれなのに、彼の作品の主人公は田舎から都会に出てきてカルチャーショックを受けるうぶな若者が多いのが不思議だったが、父親のことを書いていたと考えれば説明がつく。

 相当な自信作だったらしいが、他の作品は15万部から25万部刷ったのに、『Atlantis: Model 1924』は8万5千部しか刷ってもらえなかったとぼやいている(アメリカの作家は桁がちがう)。

 最後に「付録」として作家志望者向けのヒント集が載っている。あまりにも懇切丁寧なので、レッスン・プロになってしまったのかと寂しくもあった。

 なおSF作家としては異例のことだが、ディレイニーの作品は現在でもほとんどの作品が入手可能である。1975年の『Dhalgren』と1976年の『Trouble on Triton』はもとより、1979年から書きはじめられたNeveryon四部作(『Tales of Neveryon』、『Neveryona』、『Flight from Neveryon』、『Return to Neveryon』)はウェズリアン大学出版局から再刊されている。

 他に注目作品としては『Non-stop』と『Riddley Walker』がある。

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2006年09月28日

『ベータ2のバラッド』 ディレイニー (国書刊行会)

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 若島正氏の編纂したニューウェーブSFのアンソロジーで、6編中4編が本邦初訳である。既訳2編はニューウェーブ紹介に尽力した伊藤典夫氏と浅倉久志氏の手になるもので、先達に仁義を切ったというところか。

 6編中5編はおもしろく充実したアンソロジーだと思うが、書評の対象とするとなると困ってしまう。表題作の「ベータ2のバラッド」が駄作なのである。

 「ベータ2のバラッド」は『千の太陽の都』三部作の後に書かれたディレイニー23歳の時の中編で、俗謡の謎解きという趣向が翌年書かれた傑作『バベル17』につながるといえないことはないが、どうにも褒めようのない凡作である。

 学生時代英語で読みさっぱりおもしろくなかったので英語力が足りないのかと不安に思ったが、今回日本語で読んでやはりゴミだと確認できたのは収穫だった。

(ついでながら『千の太陽の都』三部作がいまだに未訳であることを知った。某S社が版権をとり、伊藤氏が担当されていると聞いたのは30年前だったか。)

 キース・ロバーツの「降誕祭前夜」はロバーツ得意の歴史改変もので、こちらの英国ではチャーチル政権が労働者の暴動で倒れて親ナチ政権が成立し、ドイツと連合帝国を形成している。世紀の恋で退位したエドワード八世の統治(再即位?)がつづいているなど、にやりとさせる記述が随所にある。主人公は英国とナチス・ドイツの連絡担当大臣の秘書官だが、自由戦線というレジスタンス運動にはめられ、どんでん返しにつぐどんでん返しで結末になだれこんでいく。

 ハーラン・エリスンの「プリティ・マギー・マネーアイズ」はスロットマシンをやっている最中に突然死した娼婦の霊がスロットマシンにとりつき、ホームレスの男に大当たりさせるという人情噺をニューウェーブ調というかアメコミ風の文体で書いた佳作。

 ニューウェーブは前衛文学の影響を受けているといわれていたが、アメリカの作品に関する限りテーマ的にもスタイル的にもアメコミの影響を濃厚に感じる。そもそもディレイニー以外のアメリカのニューウェーブ系の作家は前衛文学なんか読んでいなかったのではないか。

 リチャード・カウパーの「ハートフォード手稿」は正統的英国SFの傑作だが、ブッキッシュな趣向がニューウェーブ的といえないことはない。主人公は古書商をいとなんでいた大伯母から17世紀の古文書を相続するが、その一部に時間旅行者が書いたとおぼしい手稿が綴じこまれていたという設定である。それだけだったらどうということはないが、手稿の筆者がウェルズの『タイムマシン』の主人公のモデルとなった人物だったという仕掛けが卓抜だ。

 モーロック族のもとから逃れる際、時間旅行の駆動装置となる水晶が破損したために17世紀に不時着する。タイムマシンを修理するためにロンドンに出るが、大火災前のペストが猖獗を極めている時期にぶつかってしまう。

 『タイムマシン』の主人公にモデルがいたというのはおそらくカウパーの創作だが、『タイムマシン』の初稿である「時の探検者たち」を持ちだしたことで俄然リアリティが生まれている。

 本書の最後におさめられているのはその「時の探検者たち」である。『タイムマシン』は1895年刊行だが、「時の探検者たち」はその7年前の1888年に当時ウェルズが勤めていた学校の学内誌「サイエンス・スクール・ジャーナル」に発表されている。

 意外なことに「時の探検者たち」は『タイムマシン』とは似ても似つかぬホラー小説だった。こういう作品を読むと、SFのルーツは『フランケンシュタイン』だというオールディスの説が説得力をもってくる。

 ウェルズは『タイムマシン』の定稿を得るまでに七回書き直したというが、SFはこの七回の改稿のどこかに誕生したのだ。改稿の過程を研究した本があったら読んでみたい。

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2006年09月27日

『ノヴァ』 ディレイニー (早川SF文庫)

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 ハヤカワ名作セレクションの一冊としてディレイニーの『ノヴァ』が再刊された。『ノヴァ』は40年近く前の作品だが、依然として現代SFの最高峰といってよく、古典として長く読みつがれることになるだろう。

 『ノヴァ』は『白鯨』を下敷きにしたスペース・オペラである。石油の採掘技術が確立するまで鯨油は重要なエネルギー源であり、捕鯨産業は現在の石油産業のような位置をしめていたが、『ノヴァ』の舞台となる32世紀の未来社会では超新星の中で生まれるイリュリオンという物質がエネルギー源となっており、主人公のローク・フォン・レイは鯨ならぬ超新星を追って宇宙を飛びまわっている。

 エイハブ船長の敵は悪の化身というべき巨大な白い鯨だったが、ロークの敵はプリンスとルビーという邪悪な兄妹だ。プリンスとルビーは地球を中心とする古い星域を支配するレッド一族の継承者で、新しく植民した星域を支配するロークの一族と対立していた。超新星から大量のイリュリオンを採取できれば両者の力関係は逆転することになる。超新星を探す航海は銀河の覇権をめぐる戦いでもあったのである。

 『ノヴァ』が刊行されたのは1968年だが、確かその年の内に「SFマガジン」の連載コラム「SFスキャナー」で伊藤氏がニューウェーブの代表作と熱っぽく紹介した。なかなか邦訳が出ないので、ペーパーバックを見つけて読み、夜の闇の陶酔に夢中になったものだった。

 邦訳が出たのは原著刊行の20年後、1988年のことである。完璧主義者の伊藤氏が手がけた以上、これくらいかかるのは仕方のないことで、ディレイニーのもう一つの代表作『アインシュタイン交点』の翻訳が出たのは原著出版の29年後の1996年である(この時、伊藤氏にお願いしたインタビューが拙サイトにあるので、興味のある方は読んでいただきたい)。

 この小説は他愛のない表面の物語の裏に大変な意味を隠した難解な小説という評判が邦訳前から広まっているが、一つのことに気がつけば実にシンプルな作品だということがわかる。

 それは折り返し構造だ。真ん中に出てくるタロット占いによる絵解きの場面を境にシンメトリックに前半と後半にわかれ、前半では外側から想像するしかなかった出来事を後半でみずから経験するという対称構造になっているのである。

 たとえば冒頭でダンという盲目の狂人があらわれ、『白鯨』の老水夫よろしく航海の不吉な前途を予言するが、これは最後のロークとクルーたちの場面に対応する。ロークは盲目となり、ぼうっと光のたゆたう薄明の中に閉じこめられているが、これがダンの真珠色の目の内側の世界なのである。

 二番目のヘルという地殻の割れ目にダンが飛びこむ場面はロークのノヴァ突入に対応する。イリュリオンとは財貨=糞便であり、ノヴァ突入はアナル・セックスの隠喩である。

 三番目の場面で幼いロークはプリンス兄妹にせっつかれて大人が暴力に夢中になる姿を見てショックを受けるが(何が起こっているかは子供たちの目からは隠されており、原光景といえる)、これはクライマックスのロークとプリンス兄妹の対決の場面に対応する。まあ、このくらいにしておこう(注)。

 表面の物語の裏に別の物語を隠すという手法は『西遊記』や『紅楼夢』に似ている。『西遊記』は表面的には天竺にお経をとりにいく冒険譚だし、『紅楼夢』は清朝の大貴族の家庭を舞台にした華麗な恋愛絵巻だが、背後には霊の遍歴の物語が隠され、パノラマ効果を生みだしている。『ノヴァ』も同じ書き方をしている。

 急いでお断りしておくが、わたしはディレイニーが『西遊記』や『紅楼夢』の影響を受けていると主張しているわけではない。ディレイニー自身は『ユリシーズ』や『荒地』のように読んでくれという意味のことを匂わせている。

 しかし、わたしは『ユリシーズ』や『荒地』と比較するのは意味がないと思う。『ユリシーズ』や『荒地』は万人に向けて書かれた作品だが、『西遊記』や『紅楼夢』は志を同じくする happy few に向けて書かれた作品であり、『ノヴァ』もその傾向が顕著だからだ。

 ディレイニーの場合、黒人とゲイという条件が、日本で考える以上に重い条件となっていたのではないか。『ノヴァ』が書かれた頃はSFはまだ健全な白人男性の占有物だった。黒人とゲイというポジションは主流文学の世界では売りになったが、SFの世界ではそうではなかった。

 『ダルグレン』以降の作品は最後まで読みきったことがないので当てずっぽうになるが、黒人でゲイであることが知れわたって以降の作品と、知れわたる以前の作品では緊張感が違うような気がする。『ダルグレン』は近々邦訳が出るようなので、出てからもう一度考えてみたい。

 折り返し構造はハーネスの『リタネルの輪』の影響だとずっと思いこんでいた。軽元素だけの世界の裏がえしのイリュリオン、ロークの末路とオメアの末路と、『リタネル』を意図的に逆転させた設定が多いように思えたのだ。しかし、この文章を書くために発表年を調べたところ『ノヴァ』と『リタネル』は同じ年に出版されていたことがわかった。『リタネル』が1月、『ノヴァ』が12月だとしても、影響関係は苦しい)。

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2006年09月26日

『日本沈没 第二部』 小松左京&谷甲州 (小学館)

日本沈没 第二部 文庫上巻 文庫下巻


 『日本沈没 第二部』が谷甲州氏との共著という形で上梓された。映画のリメイクに合わせたのだろうが、1973年版の映画TV版もDVD化されている。


 第一部は1970年代末に起こった日本列島の沈没で終わったが、第二部はそれから25年後の日本人の運命を描いている。幻の作品で終わるのかと半ば諦めていただけに、まずは完結をよろこびたい。


 沈没までの二年に日本政府は8千万人の国民を海外に脱出させたが、8千万人という巨大な難民の出現は世界各地で軋轢を生んでいた。日本政府は世界各地に機能を分散させて活動をつづけていたが、熱帯雨林の開発事業には重点的に投資しているものの、他の国々に引きとられた国民にまでは手がまわらない状態らしい。多くの国では入植地の過酷な条件に見切りをつけ、大都市のスラムに流入する日系人が増え、治安上の問題になっているのに有効な手を打てないでいる。旧ソ連圏に入植した日系難民は、ソ連崩壊で退去したロシア人の後釜にすわり、一時は社会の支配層にのぼったが、それが妬みをかい集団虐殺まで起こっている。第一部の主人公だった小野寺が日系ゲリラ(!)の隊長になっているという趣向もある。


 日本が沈没した後の空白地帯は火山活動がおさまらないことを理由に制限海域とされ、調査や航行までが国際的に禁止されていたが、日本政府は国民の統合の象徴とするためにわずかに顔をのぞかせていた岩礁を中心に人工島を建設しようとする。しかし中国は北朝鮮に侵攻して日本海への出口を確保しており、日本の復活を阻止するために制限海域の国際共同管理を主張する。


 唯一うまくいっていた熱帯雨林開発も成功したがために現地の妬みをかい、欧米の環境団体からは地球温暖化の元凶と指弾されるようになって、それ以上の開発を進めるのが難しくなっている。


 国土を失った日本人は四面楚歌の状態だが、日本沈没が起こらなかったこちら側の世界の状況と微妙に重なっており前半はおもしろく読んだ。


 日本政府は再難民化した日本人の行き場を確保するために熱帯雨林開発をさらに大規模に進める決定をくだす。そして環境負荷のかからない開発であることを国際的にアピールするために、こちら側の世界でも実現している地球シミュレータを開発し気象のシミュレーションをはじめる。


 ところがここで思いがけない答えが出る。地球は温暖化するどころか寒冷化に向かい、間もなく氷河期が再来するというのだ。


 原因は日本沈没の際の火山活動で成層圏に吹きあがった噴煙である。大規模な噴火が寒冷化を引きおこすことは知られており、最後の氷河期は7万4千年前に起きたスマトラのトバ火山の巨大噴火が引き金になったという説もある。


 このストーリーは小松左京の最初の構想に沿ったものらしい。『日本沈没』の刊行後、小松は異常気象の取材を進め、『異常気象 地球が冷える』というノンフィクションを1974年に刊行している。インタビューによればこのプランで原稿用紙140枚くらいまで書き進めという。だが、寒冷化という設定は放棄され、沈没後の日本人の物語が小松自身によって書かれることはなかった。


 理由は1970年代以降、地球温暖化説が有力になってきたためらしい。


 もちろん地球温暖化はまだ仮説であって、最近マイクル・クライトンの『恐怖の存在』が話題になったように、疑問視する人はすくなくない。しかし生活実感として暖かくなっているのは事実だし、日本で熱帯の動物が自然繁殖するようなことが起こっているという現実の前では寒冷化説ははなはだ分が悪い。日本沈没を読者に納得させたように地球寒冷化のロジックを組み立てようとしたものの、小松の剛腕をもってしても難しかったのかもしれない。


 『日本沈没 第二部』の後半は地球寒冷化が軸となるが、残念ながら読者を説得できるだけのリアリティが生まれているとはいえない。長さ不足が大きかったと思うが、肝腎のロジック構築をデータ不足で逃げたのは致命的だった。SFなのだからなにか途方もない理論をでっち上げてほしかった。


 不満はもう一つある。第一部では日本人が沈没に対処する道を考えるために、三人の学者と宗教者が山にこもり、未来の日本人に向けた文書を起稿していた。その文書に何が書かれているか、30年間、ずっと気になっていたが、第二部ではその文書がまったく出てこないのだ。


 中田首相と鳥飼外相のコスモポリタニズムをめぐる議論が文書の名残なのかもしれないが、あれではあまりにもちゃちである。鳥飼外相のコスモポリタニズムは非武装中立論の変形にすぎず、人類総難民化というようなパニック状況が生まれない限り絵空事でしかない。


 小松左京は戦後民主主義とナショナリズムの共存という大いなる矛盾をかかえた作家だった。その矛盾の最高度の表現が『日本沈没』だった。中田首相に最後の台詞を言わせたことからすると、第二部を書いた谷氏は戦後民主主義もナショナリズムも信じてはいないだろう。作品が薄っぺらになってしまった根本の原因はそこにあると思う。


 第一部をリアルタイムで読んだ人間としては不満だらけだし、かつて書いた小松左京論に加筆する必要も感じないが、リメイク版の映画よりはましだったことは申しそえておく。

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