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2006年06月29日

『グノーシスの神話 』大貫隆 (岩波書店)

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 グノーシス主義を原典に語らせたアンソロジーである。

 グノーシス主義を紹介した本はたくさんあるが、原典にはなかなかふれることができない。『ナグ・ハマディ文書』は岩波書店から学問的な翻訳が全四巻で出ていたが、現在は品切で入手できない。『トマスによる福音書』は文庫で手に入るが、この文書は比較的早い時期に書かれたものなのでグノーシス主義の複雑怪奇な神話はうかがいしれない。今回邦訳された『原典 ユダの福音書』は完成されたグノーシスの神話体系を背景にしていることがうかがえるが、神話そのものは語っていない。そうした中でグノーシス文書を抜粋し、テーマごとにならべた本書は貴重である。

 本書は五章に分かれる。最初の章はグノーシス入門だが、ありきたりの入門ではない。天地万物を讃美した旧約詩篇とストア派の『ゼウス賛歌』を引用した後、グノーシス主義の生き残りというべきマンダ教の葬儀で用いられる歌と対比して、グノーシスのグノーシスたるゆえんを原典によってあきらかにしているのだ。マンダ教の葬儀の歌はこんな感じである。

幸いなるかな、幸いなるかな、魂よ、
  汝は今この世を立ち去れり。
汝は立ち去れり、滅びと
  汝が住みし悪臭のからだ、
悪しき者たちの住まい、
  もろもろの罪に溢れたこの場所を、
闇の世界、
  憎しみと妬みと不和の世界を……

 グノーシス主義がどのようなものかはいろいろ読んでいたが、どんなよく書けた解説もオリジナルの迫力にはかなわない。

 第二章はナグ・ハマディ文書から、第三章はマンダ教の経典から、第四章はマニ教文書からの抜粋が集められている。各章は半ページから数ページの長さの断章をテーマごとに編集し適宜解説をくわえており、とてもわかりやすい。

 グノーシス文献では悪しき造物主の作った汚れたこの世界に、真実の世界から魂が落ちてきて、身体に閉じこめられるという創世神話がさまざまに語られるが、その一端を『ヨハネのアポクリュフォン』から引用する。

 その時、ヤルダバオートはアダムの傍らに若い女が立っているのを見た。彼は愚かな思いでいっぱいになり、彼女から自分の子孫を生じさせようと欲した。彼は彼女を辱しめ、一番目の息子を、続いて同じように二番目の息子をもうけた。すなわち、熊の顔をしたヤハウェと猫の顔付きをしたエローイムである。その一方は義なる者であるが、他方は不義なる者である。エローイムが義なる者、ヤハウェが不義なる者である。

 イヴを凌辱するヤルダバオートとはこの悪しき世を創造した造物主である。『ヨハネのアポクリュフォン』では旧約聖書の神、ヤハウェは悪しき造物主ですらなく、不良造物主がレイプして生まれた出来そこないの息子とおとしめられている。

 『魂の証明』では、肉体をまとってこの世に生まれるとは無垢なる魂が凌辱されるようなものだと語られている。

 彼女(魂)が一人で父のもとにいた間、処女であり、同時に男女おめの姿をしていた。しかし彼女が身体の中に落ち込み、この命の中に来たとき、そのときに彼女は多数の盗賊の手中に陥った。そして無法者どもは交互に彼女を襲い、彼女を辱しめた。ある者は暴力で彼女に障害を与え、ある者は偽りの贈物で彼女を説得した。要するに彼らは彼女を凌辱したのである。こうして彼女は処女を失った。

グノーシス文献は思想も過激だが、表現も過激である。

 『フィリポによる福音書』では、創世神話は洗礼の儀礼の意味づけに使われている。

 活ける水とは身体である。われわれが活ける人間を着ることは適切なことである。それを着ようと、彼が水へと降りて行くときに裸になるのはそのためである。

美しい表現だが、この身体は服のように魂を覆うものにすぎず、魂の本来のすがたをとりもどすためには、身体を脱ぎ捨てなければならないという含意がある。グノーシスの徒にとっては身体もこの世も邪魔物なのだ。

 魂がもともと属していた真実の世界はプレローマーとかバルベーローと呼ばれる。『ユダの福音書』でも、ユダはイエスに「あなたは不死の王国バルベーローからやって来ました」と呼びかけるが、『ヨハネのアポクリュフォン』からバルベーローに言及している箇所を引用する。

 霊の泉が光の活ける水から流れ出て、すべてのアイオーンとあらゆる形の世界の支度をした。彼は自分を取り巻く純粋な光の水の中に自分自身の像を見たとき、それを認識した。すると、彼の「思考」が活発になって現れ出た。それは光の輝きの中から彼の前へ歩み出た。

 この今や現れ出たものが万物に先立つ力であり、万物の完全なる「プロノイア」、光、光の似像、見えざる者の影像である。それは完全なる力、バルベーロー、栄光の完全なるアイオーンである。

 イエスがバルベーローからこの世に来てまたバルベーローに返っていく存在であるなら、受難の意味はまったく変わってしまう。『ペトロの黙示録』ではこう書かれている。

 救い主は私に言った、「あなたが見ている十字架の傍らで笑っている人物は、活けるイエスである。しかし両手と両足を釘で打たれているのは、彼の肉的な部分、すなわち彼の『代価』である。活けるイエスの模倣物として成ったものを彼らは辱めているのである。しかし、あなたはその模倣物と私を区別しなさい」。

 十字架にかけられたイエスの肉体はイエスそのものではない。真のイエスは磔刑ごときで傷付けられはしないのだ。イエスが笑うことも含めて、『ユダの福音書』の発想とよく似ている。

 ナグ・ハマディ文書からの抜粋が一番多く、第二章は本書の半分近くを占める。マンダ教の経典の抜粋を集めた第三章はそれほど長くないが、内容は実に興味深い。

 いや、マンダ教そのものが興味深いと言いなおそう。マンダ教はもともと洗礼者ヨハネの教団の流れをくむ宗教共同体がグノーシス化したもので、ヨルダン川流域を本拠としていたらしいが、ユダヤ人がローマ帝国に対して反乱を起こした前後、ユダヤ教団の迫害を逃れてチグリス・ユーフラテス河下流の湿地帯に移ったようである。当初はゾロアスター教徒に、イスラム教が広まってからはイスラム教徒に迫害されたが、二千年にわたって独自の信仰を守りつづけたというから、気が遠くなってくる。不幸なことに、マンダ教徒の居住地はイラクとイランの国境地帯にあたるために、イラン・イラク戦争と湾岸戦争でかなりの被害を受けたと見られている。

 本書にはマンダ教の根本経典『ギンザー』の抜粋がおさめられているが、これがまた面白いのである。

 マニ教から抜粋した第四章はほとんどファンタジーの世界で、この宗教が生きのびてくれていたらよかったのにと思った。

 最後の「結び」では一時流行したチャネリングや宮台真司氏の女子高生論を引きあいにだして、グノーシス主義の現代性についてふれているが、この章はあまりおもしろくなかった。現代の若者がグノーシス主義と同質のメンタリティをもっているのは確かだろうが、このくらいのスペースで論じられる問題ではないと思う。中途半端に現代性に触れるより、もっと抜粋を載せてほしかった。

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