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2006年06月30日

『グノーシス考 』大貫隆 (岩波書店)

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 『グノーシスの神話』の編訳者であり、日本のグノーシス研究をリードしてきた大貫隆氏によるグノーシス論集である。さまざまな機会に書かれた論文を集めているが、もっとも完成されたグノーシス文書とされている『ヨハネのアポクリュフォン』をめぐる論考群が柱となっている。

 六部にわかれるが、第五部までは文献学的研究で、話が微にいり細をうがっている。専門的すぎて素人にはついていけない部分もあるが、イメージの使い方を手がかりにした考察が多いので、半分くらいはおもしろく読めた。

 第一部ではグノーシス派の禁欲を正統的なキリスト教の禁欲と比較しているが、グノーシス文献に頻出する性的比喩、特に世界を子宮に見立てる比喩の解明から話をはじめているのでとっつきやすい。

 グノーシス文献では至高神を子宮に見立てる例はないことはないが、圧倒的多数の用例では悪しき世界のメタファーとしているという。魂が肉体をとって誕生するということは悪しき子宮に墜落することであり、死はそこからの解放を意味する。子宮が呪わしい現実世界の比喩であるなら、そこから性欲嫌悪はただの一歩である。

 グノーシス主義は表舞台から姿を消した後も歴史の闇の部分を伏流水のように流れつづけ、カタリ派など、過激な禁欲をともなう異端を生んできたが、子宮としての世界というイメージが根柢にあったと考えればわかりやすい。

 第二部では「ヨハネの第一の手紙」に、それより後に書かれたはずの『トマスの福音書』の一節を想定した反論が書きこまれている点に着目し、『トマスの福音書』の素材となった伝承を推定しているらしい。文献学の顕微鏡的議論であり、素人には読みとおせなかった。

 第三部は『ヨハネのアポクリュフォン』の現存する四つの写本の先後関係を推定するといういかにも文献学らしい論考で、きわめて微細な議論がつづくが、意外におもしろかった。

 『ヨハネのアポクリュフォン』はもともとはユダヤ教の一派の文書だったらしいが、キリスト教グノーシス的に改変されていき、それがさらにコプト語に翻訳された形で残った。ある写本で「母」となっている箇所が別の写本では「母父」、それも「光のプロノイアの母父」になっている。こうした語句の異動から、グノーシス運動の歴史を読みとっていこうというわけである。

 第四部は第三部の補遺にあたる論考である。第三部はグノーシス運動の深化の目安として、ストア派批判の度合を使っていたが、クイスペルという研究者から『ヨハネのアポクリュフォン』が直接批判の対象としているのはストア派ではなく、中期プラトン主義ではないかという指摘を受けて書かれたもので、これも素人にはついていけなかった。

 第五部は『ヨハネのアポクリュフォン』が中期プラトン主義から受けた影響を否定神学という視点から検証したもので、素人にも十分おもしろかった。

 第六部は文献学からはなれ、『ヨハネのアポクリュフォン』を実存主義とユング心理学という現代思想の見地から読み直そうというもので、クールダウンにちょうどいい。

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2006年06月29日

『グノーシスの神話 』大貫隆 (岩波書店)

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 グノーシス主義を原典に語らせたアンソロジーである。

 グノーシス主義を紹介した本はたくさんあるが、原典にはなかなかふれることができない。『ナグ・ハマディ文書』は岩波書店から学問的な翻訳が全四巻で出ていたが、現在は品切で入手できない。『トマスによる福音書』は文庫で手に入るが、この文書は比較的早い時期に書かれたものなのでグノーシス主義の複雑怪奇な神話はうかがいしれない。今回邦訳された『原典 ユダの福音書』は完成されたグノーシスの神話体系を背景にしていることがうかがえるが、神話そのものは語っていない。そうした中でグノーシス文書を抜粋し、テーマごとにならべた本書は貴重である。

 本書は五章に分かれる。最初の章はグノーシス入門だが、ありきたりの入門ではない。天地万物を讃美した旧約詩篇とストア派の『ゼウス賛歌』を引用した後、グノーシス主義の生き残りというべきマンダ教の葬儀で用いられる歌と対比して、グノーシスのグノーシスたるゆえんを原典によってあきらかにしているのだ。マンダ教の葬儀の歌はこんな感じである。

幸いなるかな、幸いなるかな、魂よ、
  汝は今この世を立ち去れり。
汝は立ち去れり、滅びと
  汝が住みし悪臭のからだ、
悪しき者たちの住まい、
  もろもろの罪に溢れたこの場所を、
闇の世界、
  憎しみと妬みと不和の世界を……

 グノーシス主義がどのようなものかはいろいろ読んでいたが、どんなよく書けた解説もオリジナルの迫力にはかなわない。

 第二章はナグ・ハマディ文書から、第三章はマンダ教の経典から、第四章はマニ教文書からの抜粋が集められている。各章は半ページから数ページの長さの断章をテーマごとに編集し適宜解説をくわえており、とてもわかりやすい。

 グノーシス文献では悪しき造物主の作った汚れたこの世界に、真実の世界から魂が落ちてきて、身体に閉じこめられるという創世神話がさまざまに語られるが、その一端を『ヨハネのアポクリュフォン』から引用する。

 その時、ヤルダバオートはアダムの傍らに若い女が立っているのを見た。彼は愚かな思いでいっぱいになり、彼女から自分の子孫を生じさせようと欲した。彼は彼女を辱しめ、一番目の息子を、続いて同じように二番目の息子をもうけた。すなわち、熊の顔をしたヤハウェと猫の顔付きをしたエローイムである。その一方は義なる者であるが、他方は不義なる者である。エローイムが義なる者、ヤハウェが不義なる者である。

 イヴを凌辱するヤルダバオートとはこの悪しき世を創造した造物主である。『ヨハネのアポクリュフォン』では旧約聖書の神、ヤハウェは悪しき造物主ですらなく、不良造物主がレイプして生まれた出来そこないの息子とおとしめられている。

 『魂の証明』では、肉体をまとってこの世に生まれるとは無垢なる魂が凌辱されるようなものだと語られている。

 彼女(魂)が一人で父のもとにいた間、処女であり、同時に男女おめの姿をしていた。しかし彼女が身体の中に落ち込み、この命の中に来たとき、そのときに彼女は多数の盗賊の手中に陥った。そして無法者どもは交互に彼女を襲い、彼女を辱しめた。ある者は暴力で彼女に障害を与え、ある者は偽りの贈物で彼女を説得した。要するに彼らは彼女を凌辱したのである。こうして彼女は処女を失った。

グノーシス文献は思想も過激だが、表現も過激である。

 『フィリポによる福音書』では、創世神話は洗礼の儀礼の意味づけに使われている。

 活ける水とは身体である。われわれが活ける人間を着ることは適切なことである。それを着ようと、彼が水へと降りて行くときに裸になるのはそのためである。

美しい表現だが、この身体は服のように魂を覆うものにすぎず、魂の本来のすがたをとりもどすためには、身体を脱ぎ捨てなければならないという含意がある。グノーシスの徒にとっては身体もこの世も邪魔物なのだ。

 魂がもともと属していた真実の世界はプレローマーとかバルベーローと呼ばれる。『ユダの福音書』でも、ユダはイエスに「あなたは不死の王国バルベーローからやって来ました」と呼びかけるが、『ヨハネのアポクリュフォン』からバルベーローに言及している箇所を引用する。

 霊の泉が光の活ける水から流れ出て、すべてのアイオーンとあらゆる形の世界の支度をした。彼は自分を取り巻く純粋な光の水の中に自分自身の像を見たとき、それを認識した。すると、彼の「思考」が活発になって現れ出た。それは光の輝きの中から彼の前へ歩み出た。

 この今や現れ出たものが万物に先立つ力であり、万物の完全なる「プロノイア」、光、光の似像、見えざる者の影像である。それは完全なる力、バルベーロー、栄光の完全なるアイオーンである。

 イエスがバルベーローからこの世に来てまたバルベーローに返っていく存在であるなら、受難の意味はまったく変わってしまう。『ペトロの黙示録』ではこう書かれている。

 救い主は私に言った、「あなたが見ている十字架の傍らで笑っている人物は、活けるイエスである。しかし両手と両足を釘で打たれているのは、彼の肉的な部分、すなわち彼の『代価』である。活けるイエスの模倣物として成ったものを彼らは辱めているのである。しかし、あなたはその模倣物と私を区別しなさい」。

 十字架にかけられたイエスの肉体はイエスそのものではない。真のイエスは磔刑ごときで傷付けられはしないのだ。イエスが笑うことも含めて、『ユダの福音書』の発想とよく似ている。

 ナグ・ハマディ文書からの抜粋が一番多く、第二章は本書の半分近くを占める。マンダ教の経典の抜粋を集めた第三章はそれほど長くないが、内容は実に興味深い。

 いや、マンダ教そのものが興味深いと言いなおそう。マンダ教はもともと洗礼者ヨハネの教団の流れをくむ宗教共同体がグノーシス化したもので、ヨルダン川流域を本拠としていたらしいが、ユダヤ人がローマ帝国に対して反乱を起こした前後、ユダヤ教団の迫害を逃れてチグリス・ユーフラテス河下流の湿地帯に移ったようである。当初はゾロアスター教徒に、イスラム教が広まってからはイスラム教徒に迫害されたが、二千年にわたって独自の信仰を守りつづけたというから、気が遠くなってくる。不幸なことに、マンダ教徒の居住地はイラクとイランの国境地帯にあたるために、イラン・イラク戦争と湾岸戦争でかなりの被害を受けたと見られている。

 本書にはマンダ教の根本経典『ギンザー』の抜粋がおさめられているが、これがまた面白いのである。

 マニ教から抜粋した第四章はほとんどファンタジーの世界で、この宗教が生きのびてくれていたらよかったのにと思った。

 最後の「結び」では一時流行したチャネリングや宮台真司氏の女子高生論を引きあいにだして、グノーシス主義の現代性についてふれているが、この章はあまりおもしろくなかった。現代の若者がグノーシス主義と同質のメンタリティをもっているのは確かだろうが、このくらいのスペースで論じられる問題ではないと思う。中途半端に現代性に触れるより、もっと抜粋を載せてほしかった。

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2006年06月26日

『原典 ユダの福音書』 ロドルフ・カッセル編 (日経ナショナル・ジオグラフィック社)

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 1700年ぶりに発見された『ユダの福音書』の翻訳に文書の修復にあたった専門家チームの解説と解題をくわえて一冊にした本である。翻訳部分は50ページあるが、注釈が多いので本文だけなら20ページ足らである。

 翻訳にあたっての後書や解題がないので断定はできないが、訳者の顔ぶれが『ユダの福音書を追え』と重なっていることからすると、コプト語からの翻訳ではなく、英語からの重訳だろう。素人が好奇心から読むには十分だが、おそらく10年後か20年後、岩波書店から出ている『ナグ・ハマディ文書』のような学問的な翻訳が刊行されることになるのかもしれない。

 裏切者とされてきたイスカリオテのユダが実はイエスのもっとも忠実な弟子で、イエスの命令によって彼を当局に通報したという内容だが、要するにグノーシス派の文献であって、こういう解釈もあるというだけのことである。わたしは信仰に無縁な人間だが、信者が読んでも信仰が揺らぐようなことはないだろう。

 同じグノーシス派の文献でも、『トマスによる福音書』には、イエスの時代にさかのぼるかもしれないと思わせるような言葉がそこここにみられが、『ユダの福音書』にはそうした生々しさは感じられなかった。素人の感想だが、グノーシス派の複雑な宇宙生成論が完成した後に書かれた教義の絵解きにしか思えなかった。

 おもしろいと思ったのは、ここに出てくるイエスはよく笑うことである。四福音書には、イエスが笑う場面は一つも出てこない。正統的なキリスト教からは笑いは排除されており、ウンベルト・エーコはそれをモチーフに『薔薇の名前』を書いた。

 笑うイエスは興味深いが、ただ、この笑いは大らかな笑いではなく、馬鹿にしたような笑いで、笑われた弟子たちは傷ついたり、怒ったりしている。このあたり、インテリの宗教であるグノーシス派の本質が出ているのだろうか。

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2006年06月23日

『ユダの福音書を追え』 ハーバート・クロスニー(日経ナショナル・ジオグラフィック社)

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 死海文書やナグ・ハマディ文書の発見に匹敵するといわれる『ユダの福音書』の発見の経緯を描いたドキュメンタリーである。著者のクロスニーはTVジャーナリストだが、本書も文書の数奇な運命を追いながら文書の歴史的背景と意義をおりこんでいくというTVのドキュメンタリー番組のような構成になっている。

 『ユダの福音書』はグノーシス派の文献として名前は知られていたが、四世紀には失われたと考えられてきた。それが千七百年ぶりに出てきたのである。本書には発見から修復完了までの30年間の歴史が書かれているが、悲鳴をあげそうになる箇所がいくつもある。裏切者ユダを主人公としているだけにこの文書には不運と裏切りがつきまっとっているのだ。

 『ユダの福音書』を含むパピルス写本がナイル河中流域で発見されたの1970年代後半だったらしい。その後、古美術商どうしの諍いから盗難にあいエジプトから秘かに持ちだされた。

 古美術商間の手打ちがすんだ結果、パピルス写本は最初の所有者のエジプト人古美術商の手にもどる。彼は欧米で買い手を探すが、内容がわからなかったにもかかわらず300万ドルという桁外れの金額をふっかけた。文書は売れず、16年間アメリカの貸し金庫の中で劣化しながら死蔵されることになる。

 文書を貸し金庫の中から救いだしたのはフリーダ・ヌスバーガー=チャコスというギリシャ系の古美術商だった。彼女は30万ドル前後で購入し、買い手候補のエール大学のバイネッキ図書館に寄託して詳しい調査を依頼したところ、『ユダの福音書』が含まれていたと判明する。エール大学は文書が本物だという確信をもっていたが、不法にアメリカに持ちこまれた疑いがあったために購入を見送ってしまう。

 資金繰りに困ったチャコスはブルース・フェリーニという稀覯書ディーラーに250万ドルで転売するが、これがとんでもない食わせ者だった。フェルリーニは日本企業を巻きこみ、東京の印刷博物館で展示公開した後、文書の複製版と翻訳を出版しようともくろむが、後援者との間にトラブルが生じ計画は空中分解してしまう。

 結局チャコスに代金が払えなくなり、パピルス文書は彼女に返却することになるが、フェリーニは文書に致命的なダメージをあたえてしまう。パピルスに絶対にやってはいけない凍結保存を試みてボロボロにした上に、文書の状態をよりよく見せかけるためにページの順番をいれかえていたのだ。しかもチャコスに返却するする際には一部のページを抜きとり、勝手に売却していた。

 ナグ・ハマディ文書は早い段階でエジプト当局に押収されたのでそれ以上の劣化をまぬがれたが、『ユダの福音書』を含む写本は良好な状態で発見されたにもかかわらず、間にはいった古美術商たちの無知と強欲のために、四半世紀の間劣化しつづけた。チャコスがとりもどした時にはボロボロに崩れる寸前だった。

 チャコスは修復の費用をまかなう余裕がなかったので、フェリーニとの交渉に尽力してくれたロバーティ弁護士の設立したマエケナス古美術財団に将来エジプト政府に文書を返還するという条件で寄贈した。『ユダの福音書』を含むパピルス写本は、彼女に敬意を払って「チャコス写本」と呼ばれることになった。

 マエケナス古美術財団はコプト学の権威でナグ・ハマディ文書にもかかわったロドルフ・カッセルに修復と出版をゆだねた。カッセルのチームは修復にとりかかった。パピルスの破片をジグソーパズルのように組みあわせる作業をつづけ、5年かかって文書を判読可能な状態にした。この事業には本書の版元であるナショナル・ジオグラフィック財団が資金援助をしているということである。

 『ユダの福音書』にふさわしく本書には裏切り者が何人も登場する。フェリーニについてはすでに紹介したが、オランダ人で古美術業界のスキャンダルを売物にしたArtnewsというニュースサイトを運営しているファン・レインもなかなかのものだ(彼の視点から見た『ユダの福音書』騒動の顛末はこちらのページで読むことができる)。

 文書の修復が完了し公開される時期にあわせたかのように『ダ・ヴィンチ・コード』が世界的なベストセラーになり、映画が公開されるというのもなにかのめぐりあわせかもしれない。『ダ・ヴィンチ・コード』はイエスとマグダらのマリアが結婚していて娘までいたというスキャンダラスな内容だが、この余波でグノーシス関係の専門書が書店の目立つ場所にならぶという珍事態が生まれている。

 『ユダの福音書』は世紀の発見とはいっても、あくまで聖書学やグノーシス主義というマイナーな分野の発見である。もし盗難前にエジプト政府が押収し、1980年に公開していたら、あるいは2001年にフェリーニが東京で公開していたら、本書が日本の書店で平積みになるようなことはなかったろう。宿命というものはやはりあるのかもしれない。

 なお、本書中には『ユダの福音書』は紹介されているにとどまるので、本文を読みたい人は同じ版元から出ている『原典 ユダの福音書』を買う必要がある。

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