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2006年05月31日

『中国人の南方見聞録』 小川博編 (吉川弘文館)

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 鄭和の南海遠征に通訳官としてしたがった馬歓の『瀛涯勝覧』の邦訳である。詳しく書けば、300有余ページのうち、最初の200ページが邦訳、残りの100ページが解説である。邦訳には各条ごとに訳注と簡単な地誌的解説、さらに『星槎勝覧』の対応記事が付されている。邦訳本文以外は一回り小さな活字で組まれている。

 鄭和艦隊の一員の書いた地誌がどのようなものか、実例を示すのが早いだろう。

 ペルシャ湾の入口の忽魯謨厮国ホルムズの条から引く。

 古里国カリカットから船出して西北に向かい風むきがよければ二十五日ばかりで到ることができる。この国は海に沿い山が近く、各地の商船や、陸路の隊商がみなこの地に集まって取引するので国民はみな富んでいるわけである。国王も住民もみなイスラム教を信奉しており、毎日五回も礼拝し、慎み深く清潔である。風俗は淳朴で貧乏な家はない。もしある家が禍にあい、貧しくなると、まわりの人々は衣食の品々や銭などを贈って助けるのである。

 この後、結婚と葬儀の風習と料理、貨幣制度、産物、気候を報告するが、一番紙幅をとっているのは見世物の様子である。羊が立てた竿を登る奇術は特に熱心に紹介されている。馬歓は目を丸くしてこの見世物に見入ったのだろう。馬歓は好奇心旺盛な青年だったらしく、他の条でも見世物を報告している。

 この条には『星槎勝覧』の対応する記事が付されている。『星槎勝覧』はやはり通訳官だった費信のあらわした地誌だ。以下は『星槎勝覧』の忽魯謨厮国の条である。

 この国は海のかたわらにあり、人々が集まって市を作っている。土地に草木が無く、牛、羊、馬、駝などみな海の魚の乾物を食べる。風俗はきわめて清らかで、石を積んで城を造る。酋長はその奥深く住み、兵を練り馬を蓄えている。田はやせているが、麦は多い。米穀は収穫が少ない。民衆は富んでいる。山は五色に映え連なっているが、みな塩である。これをやじりでうがって皿や小皿の類を作り、食物を入れれば塩はいらないのである。

 草食動物である牛、羊、馬、駱駝が魚の干物を食べるとは考えにくいが、肉骨粉のように粉にすれば食べるのだろうか。あるいは伝聞か。岩塩で作った皿の方は実物があったのだろうと思われる。

 占城国チャンパ爪哇国ジャワの条には澁澤龍彥の『高丘親王航海記』を思わせるエキゾチックな記述もある(当然、澁澤は参照しているだろうが)。

 解説はすこぶる読みごたえがある。鄭和研究は19世紀以来、中国はもとより欧米や日本で着実につづけられていて膨大な蓄積があるが、そのおおよその動向を紹介してくれているのである。夥しい文献に眩暈がしてきたが、鄭和を調べてみようという人にはかっこうの手引きになるにちがいない。

 NHKの「偉大なる旅人・鄭和」は鄭和は改革開放政策のシンボルとして大々的に取りあげられている状況を紹介していたが、本書によると辛亥革命以来歴史教育の重要項目としてとりあげられてきて、一般的な人気も高かったという。鄭和の遠征がつづいていれば西欧列強に植民地化されることはなかったのにという思いが強いのかもしれない。

 意外だったのは江戸時代、新井白石や蘭学者のように海外事情に関心をもつ知識人の間で『瀛涯勝覧』や『星槎勝覧』がよく読まれていたという指摘である。鄭和の時代から五百年たっていたし、西欧の植民地支配によって一変していたので、情報としての価値はほとんどなかったはずだが、こんなアナクロな資料に手を出さざるをえないほど海外情報に飢えていたということだろう。

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2006年05月30日

『中国が海を支配したとき』 ルイーズ・リヴァシーズ (新書館)

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 鄭和の南海遠征を大きな歴史のうねりの中に位置づけた本である。著者のリヴァシーズはジャーナリストだが、中国、台湾、英国、アフリカの専門家に広く取材し、特に鄭和がゆかりが深く、養子の子孫が残る(!)南京には長期にわたって滞在したようである。先日、NHKが放映した「偉大なる旅人・鄭和」に出演していたが、あの番組は本書を踏襲した部分が大きい。

 リヴァシーズは儒教 vs 商業と、ヨーロッパの帝国主義 vs 中国の冊封体制という二本の対立軸を設定する。

 まず、儒教 vs 商業という対立軸である。

 華僑の活躍でわかるように中国人は世界でも有数の商業民族だが、その一方で商業を蔑視する儒教を生みだしている。漢以降の歴代の王朝はいずれも儒教を国教とし、儒教を修めた者の中から官僚を選抜してきた。儒教官僚は農本主義的で新奇なものを嫌い商業の野放図な活動を警戒してきた。

 例外はモンゴルの建てた元と南遷後の宋である。元が儒教を一顧だにせず東西貿易の収益を基礎にした通商帝国を築いたことはよく知られている。一方、華北の領土を失い南に移った宋は貿易収入に依存せざるをえなくなった。宋は沿岸航路を整備し、強大な海軍を作って貿易を保護した。リヴァシーズは宋代の新儒教には商業利潤を正当化する努力が見られるとしている。

 リヴァシーズはまた朝貢とは儒教官僚の反対を押し切って貿易をするための方便だとしている。夷狄が天子をしたって貢物をもってきたのだから、中華文明の精華を下賜してやるのだという名目にすれば、儒教の徒としては反対するわけにはいかなくなる。

 しかし儒教の側からは絶えず反商業の強い力が働いていた。永楽朝の積極外交の担い手はいずれも宦官であり、朝貢貿易は宦官勢力の利権になっていた。儒教官僚対宦官という権力闘争を念頭におけば、鄭和の遠征の記録が隠滅された経緯が理解しやすくなる。

 一方、ヨーロッパの帝国主義 vs 中国の冊封体制という対立軸はNHKの番組がもっとも力をいれて描いた部分である。鄭和の遠征は明の皇帝に対する形式的な臣従をもとめただけであり、見返りに絹や磁器のような貴重な宝物をふんだんにあたえたのに対し、貧しいヨーロッパ人は武力で土地を奪い、アラブ商人やユダヤ商人の支配していたインド洋交易圏を解体して、沿岸の文明に致命的な打撃をあたえた。鄭和の平和的な外交とは大変な違いだというわけだ

 しかし中国は南シナ海での無法な島嶼強奪やインド洋周辺に対する軍事進出、アフリカでのなりふり構わぬ強奪を押し進めている。NHKはそうした事実を隠し、歴史ロマンの外観で中国の侵略を美化している。

 リヴァシーズは中国の貿易の裏面を指摘することを忘れてはいない。唐代以来、裕福な家ではアフリカ東海岸から連れてきた黒人奴隷(鬼奴)を門番にする例が多かったが、彼らは牛馬なみにあつかわれ寿命は短かった。鄭和の航海はすくなくともNHKが褒めちぎるような美しいものではなかったようだ。

 鄭和後の朝貢体制の頽廃も深刻だ。リヴァシーズはこう書いている。

 朝貢貿易体制の箍は少しずつゆるみはじめていた。外国使節団が山のような朝貢品をたずさえてくることはもはやなかったし、かたや皇帝の方も下賜品をいちいち出し渋るようになった。また、「使節団」とはいいながら、その正体はこれまでになく怪しい者が多くなっていた。中にはあきらかに盗人か密輸業者としか呼べない者も混じっている。さらに、地方の官吏や商人たちまでが貿易による膨大な利益のうわまえをはねようと狙い、北京に運ばれる朝貢品を堂々と横取りしていった。

 『1421』のメンジーズは、紫禁城焼亡という凶事がなければ、鄭和の艦隊がヨーロッパにあらわれたり、あるいはすくなくとも、インド洋を睥睨しつづけ、ヨーロッパ人の覇権を阻んだろうと惜しんでいたが、どうもそういうロマンチックな推測はなりたたないようである。中国の大航海時代はしかるべき理由があって幕を閉じたと考えた方がよさそうである。

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2006年05月29日

『1421―中国が新大陸を発見した年』 ギャヴィン・メンジーズ (ソニーマガジンズ)

1421―中国が新大陸を発見した年 →bookwebで購入

 本書は出た直後に読んでいたが、先日NHKが放映した「偉大なる旅人・鄭和」でとりあげられていたので読みかえしてみた。

 鄭和の七度におよぶ南海遠征はよく知られている。通説では東アフリカに達したとされているが、本書の著者メンジーズは記録の隠滅された第六回遠征においてアメリカ大陸に到達していたとする。表題の「1421」は鄭和の艦隊がアメリカに上陸したとメンジーズが推定する年にほかならない。

 第六回遠征は南海16ヶ国の使節団を故国に帰すためにおこなわれたが、鄭和自身はマラッカで引きかえしている(紫禁城の落成式典に出席するためだったらしい)。メンジーズによれば鄭和はインド洋沿岸諸国の使節団を送りとどけさせた後、艦隊にアフリカ南端の喜望峰を越えて世界を一周するように命じ、実際にそれをやり遂げたというのだ。NHKの番組ではメンジーズ説を鄭和艦隊がアメリカ大陸に達していたとする説とだけ紹介していたが、実際はもっと気宇壮大な仮説なのである。

 メンジーズが根拠とするのはアメリカやアフリカ、南極、オーストラリアが記載されているコロンブス以前の古地図と、世界各地で発見された中国文明の痕跡である。

 こうした古地図は「オーパーツ」(時代的に存在するはずのない遺物)と呼ばれ、オカルトマニアしか話題にしてこなかったが、潜水艦乗りとして世界中の海を航海してきたメンジーズは地図の書きこみが現地を知っている人間にしか書けない内容を含んでいることに気がつき、詳しく検討していくうちに古地図に書かれている位置や地形は現実とずれているが、そのずれ方に一定の法則があることを発見する。

 こうした古地図が残っているということはコロンブス以前にアメリカ大陸に到達し、さらには世界を一周した人間がいたはずである。メンジーズはそれが可能だったのは鄭和の艦隊だけだとしている。

 鄭和の艦隊は宝船と呼ばれる全長120mの史上最大の木造帆船を何十隻もつらね、護衛のための坐船、戦船、食料を運搬する糧船、飲料水を運搬する水船、馬を運搬する馬船等々がしたがった。総乗組員数2万を越える動く海上都市だった。

 メンジーズは宝船の構造を詳しく推定しているが、NHKの番組はCGによって一目で威容がわかるようにしてくれた。百聞は一見に如かずである。

 メンジーズは同時代のアラビアやヨーロッパをはるかに凌駕していた中国の航海技術を検討し、鄭和の艦隊なら世界一周が可能だったと結論し、『武備志』をもとに中国の当時の航法を復元し、古地図と実地のずれが中国の航法に原因があったと推定している。

 メンジーズはモロッコ沖のカーボヴェルデ諸島付近で艦隊は三つにわかれと考え、鄭和の副官の名前をとって周鼎隊、洪保隊、周満隊と呼び、それぞれのルートを推定しているが、もしメンジーズの説が正しかったとしても、周鼎、洪保、周満がそのルートを担当したという根拠はないはずである。

 最初に読んだ時は圧倒されたが、時間をおいて読み直してみると、すべてを第六回航海に帰してしまうのは無理があるように感じたし、中国政府の新帝国主義に利用されているようにも感じた。

 しかし以下のような仮定は眉唾とはわかっていても、ひょっとしたらと思わせるものがある。

 鄭和の艦隊がさらに航海をつづけていれば、その行き先には、世界のなかで彼らがまだ到達し地図に描いていない地域――ヨーロッパ――がふくまれていただろう。その可能性は北京での大変動で断たれたが、もしも一四二〇年代に中国の宝船艦隊がヨーロッパの水平線上に現れていれば、世界のその後の歴史はどうなっていただろうか? ひとつたしかなことがある。永楽帝の跡を継いだ皇帝たちが、中国人の海外進出を禁止する孤立状態にひきこもってしまわなければ、世界の支配者はヨーロッパではなく、中国になっていたはずだ。

 現在品切のようだが、中公新書から宮崎正勝『鄭和の南海大遠征』という本が出ている。この本は鄭和の遠征を明史や東西交易史の中に位置づけ直した好著で、メンジーズが見逃している多くの事実が指摘されている。

 たとえば永楽帝が派遣した朝貢をうながす使節は鄭和の艦隊だけではなかった。チベットとベンガルには侯顕、内陸シルクロードには李達、黒龍江の北には亦矢晗を送っていた。いずれも辺境出身の宦官である(鄭和のように、拉致されて宦官にされた異民族の子弟だったのだろう)。小室直樹は『日本人のための宗教原論』で、諸悪の根源のようにいわれてきた宦官は、官僚制の欠陥を補うためのカウンターバランス機構として機能したと指摘していたが、正確な指摘だろう。

 そもそも中国人の海洋進出は唐代からはじまっていた。宮崎は広州とペルシャ湾を結ぶルートが確立した8世紀を第一次大航海時代、東南アジアのジャンク船交易圏とインド洋のダウ船交易圏が交流した宋代を第二次大航海時代、元の開いた海上交易路を明が継承した鄭和の時代を第三次大航海時代と呼んでいる。世界各地に残る中国文明の遺物は鄭和の第六回航海だけが残したと考えるより、600年におよぶ中国人の交易活動の厚みが背景にあると考えた方が無理がないだろう。

 なお、メンジーズは1421.comというサイトを開いて最新情報を提供している。メールマガジンも発行していて、数ヶ月に一度新しい発見を知らせてくれるので、興味のある人は登録するといい。

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