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2006年03月30日

『ジョン・ボールの夢』 ウィリアム・モリス (晶文社)

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 1381年の英国の農民蜂起を描いたウィリアム・モリスの歴史ロマンスである。
 この蜂起は日本では「ワット・タイラーの乱」として知られているが、人頭税の増税に怒ったエセックスとケントの農民がロンドンに押し寄せ、監獄や役所を焼き討ちし、政府高官を処刑して国王に農奴制の廃止を迫るという、英国をゆるがす大事件だった。
 最後は鎮圧され、一揆の指導者たちは戦死したり、処刑されてしまうが、モリスが主人公に選んだのはジョン・ボールという下級司祭である。
 ジョン・ボールは王政を批判する説教をくりかえしたかどで監獄にいれられていたが、一揆勢によって解放され、指導者の一人となった。
 モリスはジョン・ボール解放から三日目の一昼夜に焦点をあわせ、彼の説教、国王軍との小戦闘と一揆勢側の勝利、翌朝、ロンドンに向けて出発する一揆勢を描いている。
 通常の歴史物語と異なるのは、語り手が14世紀へタイムスリップしたモリスの同時代人だということだ。ジョン・ボールの説教と一時的な勝利は、悲劇的な最期を知っている者の視点で語られるだけでなく、皆が寝静まった深夜、彼はジョン・ボールに請われるまま、一揆の結末と400年間の歴史の流れを伝えることになる。
 この作品は、昔、未来社から出た翻訳で読んだが、翻訳がぎくしゃくして、あまりおもしろくなかった。未来社版から、ジョン・ボールの説教に民衆が感動する場面を引用してみる。

 彼はちょっと話をとぎらせた。すでに彼の声は弱まり始めていたが、空は晴れわたり、初夏の夕暮はやさしく静かで、民衆も完璧の沈黙を守っていたので、一言一言が効果的だった。話を止めると彼は群衆の方へ眼を移した。それまで彼は、すばらくの間、夏の夕暮の青い遠景をはるかに眺めやっていたのだが、今や彼の親切げな眼は、目の前の群衆の中に珍奇なる光景が展開しているのを見た。涙を流すものが少なからず出て来ていたからである。黒いあご髭を生やしながらおおぴらに泣く者もいたが、多くは恥ずかしがって自分の深い感動を他人に知られたくなく思っているような表情を見せていた。それはいたく感動した時のこの民族のいつもの習性だったのである。わたしはわきに立っているウィル・グリーンを見た。彼の右手はあまりにきつく弓をつかんでいるので指の関節が白くなっていた。彼は前方をまっすぐ凝視していた。涙が両眼に溢れ、大きな鼻を伝って流れ落ちた。彼の意志ではなかったのだろう。

 「珍奇なる光景」は原文では curious sight となっている。武骨な男たちが説教に感動しているさまをあらわした表現だが、こういう場面を「珍奇なる」と訳すのは強すぎて、興がそがれる。それ以外にもひっかかる表現があり、訳語の選び方に疑問が残る。
 今回、晶文社の「ウィリアム・モリス・コレクション」で出た横山千晶訳で読み直したが、すばらしい日本語になっていて、面目を一新していた。
 同じ箇所を新訳で引いてみる。

 彼はちょっと言葉を切った。実際すでに彼の声はかすれかけていた。しかし、空気は澄みわたり、夏の夕べはじつにやさしくおだやかで、人々は水を打ったように静かだったので、一言一言が胸にしみてくるのだった。彼は口をつぐむと視線を群衆に向けた。それまで、しばらくのあいだ、青く広がる夏空のかなたを眺めていたのだが、いま彼のやさしい視線は、群衆のあいだで展開する奇妙な光景をとらえていた。すでに涙で目をくもらせている者が少なくなかった。黒いあごひげに似合わず大声で泣いている者もいた。いずれにせよ、彼らイングランドの屈強な人々が強く心を揺り動かされたときによく見られることだが、どの顔も恥じいり、どれほど深く感動しているか他人に悟られたくないといった面もちだった。私はかたわらのウィル・グリーンを見た。彼は右手で弓をあまりに堅く握りしめていたので、指の関節がすっかり血の気を失っていた。その目はまっすぐ前方を凝視し、涙が両眼からあふれだし、大きな鼻をつたわって流れ落ちていた。その涙は彼の意志とは無関係であるかのようだった。

 情感のうねりがまっすぐ伝わってくる名文である。新訳がすべていいわけではないが、本書に関する限り、新訳の方が圧倒的にすぐれていると思う。
 さて、問題は勝利の宴の後である。語り手はエセックスの情勢を伝えに来た修道士ということになっていたが、ジョン・ボールは彼が尋常の人間ではないと見抜き、皆が寝静まった深夜、教会堂に彼を呼んで、400年後の未来から見た蜂起の意義とその後の歴史の流れを聞くのであるが、これが今となっては時代遅れの唯物史観のレクチャーなのだ。
 中年になって社会主義に目覚めたモリスは『資本論』をにわか勉強し、その成果を使ったわけだが、ここが作品の唯一の傷となっている。モリスの社会主義は手仕事の復権や、エコロジー的な発想の部分は今でも新鮮であり、現代性をもつが、古くなってしまった部分もあるのである。
 しかし、友愛を歌いあげた部分は感動的であり、読むに値する。モリスの作品は古典となったといえよう。

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2006年03月29日

『世界のかなたの森』 ウィリアム・モリス(晶文社)

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 ハイファンタジーの源流というべきウィリアム・モリスの後期ロマンスである。
 主人公のウォルターは裕福な商人の息子だったが、結婚生活に行き詰まり、妻に裏切られる。故郷の町にいたたまれなくなった彼は父親の持ち船に同乗して、冒険に向かうが、出発しようとした矢先、この世ならぬ美しい貴婦人と彼女にかしずく乙女、そして醜い小人の三人連れの幻を見る。
 ウォルターは異国の港町に逗留して元気をとりもどすが、父親が妻の実家の者に殺されたという一報を受けとり、急遽、帰国しようとする。しかし、船は嵐にあい、見知らぬ土地に漂着する。
 一行は親切な老人にむかえられ、食料を提供される。老人は美しい農園に一人で住んでおり、奥地には女神を崇拝する熊族とよばれる蛮族が住んでいると一行に教える。ウォルターは仲間が狩に出ている間、老人から彼がこの土地に住み着くようになった経緯を聞く。老人は若い日、農園にたどりつき、農園の主人から禁じられた冒険に出るために、主人を殺していたのだ。彼は行ってはならないといわれた彼方の国で女神の犠牲にされかけたが、別の女性に救われて、命からがらもどり、農園を受け継いだと語る。
 ウォルターは老人の話に冒険心を刺激され、次の狩の際、「地の裂目」と呼ばれる狭間を一人通って、彼方の国にはいりこむ。そこで彼が会ったのは、以前、故郷の町で幻に見た乙女だった。
 乙女はここが危険な土地であり、助かるには彼女の女主人にとりいらなければならないと彼に教える。女主人は幻に見た美しい貴婦人だったが、邪悪な本性をもち、異国に夢を送って美しい青年を呼びよせ、飽きると殺していた。ウォルターははたして女主人の国を脱出することができるのか。
 モリスのファンタジーは朝風にたとえられたり、爽やかとか、涼やかと評されることが多いが、この作品は発端からして爽やかでも涼やかでもない。主人公は妻の不倫に悩み、離縁しようとしても彼女の身体が忘れられず、悶々としている。彼の不幸な結婚生活は、今ではモリスと妻のジェーンの関係の反映であるという説が有力なようだが、ゴシップ的な詮索は文学性とは無関係なので、控えておこう。
 ウォルターは生々しい夫婦関係から逃れ、異郷で女主人と乙女という、元型的な一組の女性に出会うが、この二人もあまり爽やかではない。女主人は邪悪な魅力をふりまいているし、乙女の方は可憐ではあるが、裸に剥かれ、鞭で打たれるというサディスティックな場面が遠回しに暗示されている。後半、主人公と乙女の逃避行がはじまるが、男女二人だけになっても肉体の関係は先延しされる。危険な土地を抜けるまでは乙女は魔法の力をたもちつづけなければならず、そのためには処女でいる必要があるということになっているからだ。
 女盛りの女王と可憐な乙女の対比は、モリスの最高傑作『世界のはての泉』において「豊穣の女王」とアーシュラの対比として展開されるが、この作品では短いけれども凝縮された形で示される。モリスとしては異色作だが、余韻が深い。
 モリスのファンタジーの魅力は読み手の想像力を刺激し、余韻を持続させるところにある。それだけに、読み手側の積極的ないれこみが必要となる。映画を見るように受け身であっては、さっぱりおもしろくないだろう。
 C.S.ルイスやトールキンのようなファンタジーの書き手が熱烈に傾倒しているのに、一般の人気がもう一つだという理由も、そのあたりにあるかもしれない。

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2006年03月28日

『輝く平原の物語』 ウィリアム・モリス(晶文社)

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 ウィリアム・モリスはかつては非マルクス主義系社会主義者として、最近では近代デザインの創始者として著名だが、ファンタジーの祖という一面ももっている。
 不思議な物語は太古の昔から語られてきたが、この世ならぬ異世界を宗教心とは無関係に作りあげ、そこで主人公が冒険するという作品はモリスをもって嚆矢とする。C.S.ルイスもトールキンもモリスの物語を愛し、影響を受けている。
 モリスは学生時代から中世の文化に引かれていたが、24歳で発表した物語詩「グイネヴィアの抗弁」で一躍文名を上げ、その後、中世風の韻文物語を次々と発表して詩人としての地位を確立した。今となっては想像がつかないが、同時代におけるモリスはなによりも詩人であり、デザインや社会主義に関する活動は詩人の余技と見なされていたらしい。
 モリスの活躍した時代はヴィクトリア女王の治世に重なる。産業革命の勃興期である。モリスは大量生産によって失われていく中世以来の職人の手仕事を惜しみ、みずからモリス商会を設立して手仕事の伝承にとりくんだが、資本主義批判の立場を鮮明にしていき、51歳で社会主義同盟の結成にくわわって機関紙「コモンウィール」を創刊した。『ユートピアだより』は「コモンウィール」に連載された。
 だが、手仕事の喜びと、中世以来のクラフトマンシップの復活を説くモリスは現実の社会主義運動の中では浮き上がるしかなかった。晩年のモリスは政治活動からは一歩身を引き、ケルムスコットプレスを拠点とする出版事業に活動の中心を移すことになる。この時期に書かれたのが『輝く平原の物語』にはじまる五篇の中世風散文ロマンスであり、『ナルニア国物語』や『指輪物語』のようなハイファンタジーの源流となった。
 さて、『輝く平原の物語』である。
 この作品は1890年に「イングリッシュ・イラストレイテッド・マガジン」に連載され、翌年、ケルムスコットプレスの最初の出版物として刊行された。初版は装飾のあまりない簡素な作りだったそうだが、モリスは1894年に23葉の挿画をいれた再版本を刊行している(福岡大学所蔵の初版本再版本)。モリス自身が再刊した作品は他にないから、かなり思いいれのある作品だったのだろう。
 主人公のホルブライズは海辺の土地に住む若者だが、結婚式を目前にひかえて、許婚のホスティッジを海賊にさらわれてしまう。単身、海岸にやってきたホルブライズに、海賊の一味のフォックスは、ホスティッジは海賊の本拠のランサム島の市場で売られようとしていると告げる。ホルブライズはフォックスの舟でランサム島にわたるが、そこにはホスティッジの姿はなく、「輝く平原の国」に彼女がいるという夢を見る。
 ホルブライズは「輝く平原の国」に向かうシー・イーグルの船に同乗する。シー・イーグルは海賊の族長だったが、余命いくばくもない寝たきりの状態だった。
 ところが、「輝く平原の国」に着いてみると、シー・イーグルは見る見る若さを取りもどし、30代の壮年にもどる。「輝く平原の国」は人間を不死にする国だったのだ。
 ホルブライズは「輝く平原の国」の王に面会し、ホスティッジの行方を尋ねるが、王はホルブライズを愛する女性がいるから会えと命ずる。その女性はホスティッジではなく、王の娘だった。実は海賊にホスティッジをさらわせ、ホルブライズに「輝く平原の国」の夢を見せたのは王だった。王は王女の結婚相手にするためにホルブライズを呼び寄せたのである。
 ホルブライズは永遠の幸福を約束されるが、彼からみれば偽りの幸福にすぎなかった。彼はホスティッジを探して「輝く平原の国」をくまなく歩きまわり、この国にはいないと悟る。彼は彼女をさがすために永遠の生命を捨て、「輝く平原の国」を脱出しようとするが、果たして脱出できるのか。
 以上が物語のあらましである。永遠の生命を拒絶し、有限の生命を選ぶのは、世界の果てへの旅とともにモリスの中心的なテーマで、他の作品でも形を変えて出てくる。
 わたしはこの作品を学生時代に読んだ。当時、アメリカで何度目かのファンタジー・ブームが起こり、バランタイン・ブックスがアダルトファンタジーというシリーズを立ちあげたが、そこからモリスの散文ロマンスがまとめて再刊されたのだった。モリスの作風そのままの美しい、涼やかな表紙画が記憶に残っている。久しぶりに邦訳で読み返したが、読みやすすぎてちょっとあっけなかった。
 モリスのファンタジーは中世ロマンスに範をとっており、心理描写が一切ない。近代小説を読みなれた目で見ると、粗筋しか書いていないということになる。こういう作品を楽しむにはところどころで立ち止まり、自分の想像力で文章に書かれていない部分を埋める必要があるが、訳文は読みやすいこなれた日本語になっているので、あっという間に読み切ってしまった。
 読みやすいのは結構だが、こういう作品の場合、原文のように擬古文にするとか、読者を立ち止まらせる工夫があってもよかったのではないだろうか。

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2006年03月15日

『ファンタジー万華鏡』 井辻朱美(研究社)

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 ファンタジーの紹介と翻訳で著名な著者によるファンタジー論である。
 前著の『ファンタジーの魔法空間』は『ナルニア国ものがたり』や 『ゲド戦記』、『クローディアの秘密』のような古典的な作品が中心だったが、今回の本は『ハウルの動く城』で一躍メジャーになったダイアナ・ウィン・ジョーンズのようなネオ・ファンタジー作家や、小野不由美や恩田陸のような日本人作家を大きくとりあげている。『指輪物語』と『ハリー・ポッター』は前著では伝統との連続性の観点から論じられていたのに対し、今回はネオ・ファンタジー的な視点からながめられている。
 ネオ・ファンタジーも日本人作家のファンタジーも読んだことがないので、こんなことになっていたのかと新鮮だった。母校のある駅で久しぶりに降りたら、コンビニやマクドナルドの進出で街がすっかり様変わりし、今浦島になったような気分に近い。
 著者はネオ・ファンタジーの特徴は平面性にあるという。伝統的なファンタジーの作家は異世界を構築するのに切実な動機というか、ちょっと大袈裟な言い方だが、人生を賭けていた。それに対して、ネオ・ファンタジーの作家はファーストフードで異世界を作っており、芝居の書き割りのように平面的だというのである(このあたりは、アニメ版『ハウルの動く城』でも十分感じられたことである)。
 もしここで、今のファンタジーは小粒になった、昔はよかったという話になったら、ただの団菊爺であるが、著者はそんな後ろ向きの議論には踏みこまず、CGを駆使した映画とゲームの普及によって、われわれの身体感覚が変容してしまった事実を指摘し、ネオ・ファンタジーをその適応形と評価している。
 「フィギュアの物語」と題した章では、アンドロイド・ロボットに自由に魂をダウンロードするという押井守のアニメ、『イノセンス』の基本アイデアが、リン・リード・バンクスの『リトルベアーの冒険』やリチャード・ケネディの『ふしぎをのせたアリエル号』のような作品で先取りされていたこと、ヒトガタという民俗的な想像力に淵源する一方、身体から分離した精神というアイデアがいともやすやすと受け入れられた背景にはコンピュータとインターネットの普及があると指摘されている。キアヌ・リーブス主演でヒットした『マトリックス』も引きあいに出されているが、一昔前だったらコアなSFファンにしか通じなかっただろう突飛な設定が、ごく普通の観客にもリアルなものと受けとられたのは、われわれの身体感覚の変容なしには考えられない事態である。
 本書の一番の読みどころはタイム・ファンタジーを論じた章である。タイム・ファンタジーという言葉は、不勉強にも本書ではじめて知ったが、時間の流れる速さの違う登場人物が出会うタイプの作品を一括りにした分類で、ネイサンの『ジェニーの肖像』やヒルダ・ルイスの『 とぶ船』などがはいる。
 著者は身体と分離した精神という観点からタイム・ファンタジーを論じ、『指輪物語』における歌謡が時間の流れの複数性を橋渡しすることにあると指摘する。『指輪物語』の歌物語的な側面は視覚化しにくいだけに、ピーター・ジャクソンの映画三部作ではばっさり削られていた。映像作品には吸いとれない、文学の固有性に係わるだけに、重要な着眼である。
 なお、アニメ版では、歌謡が活かされているという。どう活かされているのだろう。かなり気になる。

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