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2006年02月28日

『バースト・ゾーン』吉村萬壱(早川書房)

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 『ハリガネムシ』で芥川賞を受賞した吉村萬壱の近未来SFである。早川書房から出ているので、おやと思ったが、半分まで読んで理由がわかった。これは100%まごうかたなき純正SFなのである。
 三章にわかれるが、第一章はテロリンと呼ばれる正体不明のテロリストの暗躍によって荒廃した日本が舞台である。高度情報社会はサイバーテロによって崩壊しており、ラジオが主要なメディアとして復活している。テロリンに対する恐怖から、人々は猜疑心のかたまりになっており、ちょっとでも普通と違う人間を見かけると、テロリンだという声が起こって、リンチがはじまる。経済は逼迫し、国民は食うや食わずの貧窮生活をおくり、ダニと奇病が蔓延している。
 主人公の椹木武の妻と娘も奇病にかかっており、彼は治療費を捻出するために「処理局」に雇われ、テロ現場の後始末という危険な仕事をしているが、それだけでは足りず、愛人の小柳寛子に売春をさせ、金をせびりとっている。ほとんど焼け跡闇市時代の日本である。
 昨今は昭和レトロと称して高度成長時代以前の生活を美化し、懐かしむ風潮が流行しているが、吉村の描きだした近未来は昭和レトロブームの逆転であろう。
 正体の見えない敵によって破壊が連続する展開は『エヴァンゲリオン』を思わせないでもない。昭和レトロ版『エヴァ』といってもいいかもしれない。
 逼塞した状況の中で、椹木があたためる唯一の夢は志願兵となって大陸にわたり、テロリンを殺しまくることだった。しかし、後に残していく妻子は奇病に侵されており、入所すれば半年はもたないといわれている介護施設入りが確実であり、踏み切れないでいる。
 しかし、第一章の最後で家族で久しぶりに出かけた「太陽と月のデパート」と呼ばれる闇市マーケットで最大規模のテロがあり、妻子は行方不明になってしまう。
 第二章は軍に志願して大陸にわたった椹木と、彼を追って自分も志願兵となった寛子、そして寛子をストーカーする素人画家の井筒俊夫の大陸での異常体験を描く。
 寛子は廃船寸前のタンカーに乗せられて大陸に送りだされるが、サイバーテロなのか、単なるミスなのか、士官が乗り組む前に船は出港してしまう。コンピュータ制御なので航海はつづいたが、指揮系統のない船内は無法状態になっていき、地獄絵の惨状を見せはじめる。
 その時、海を押し渡ってくる牛のような動物の大群に遭遇するが、この牛のような動物は「神充」と呼ばれており、吉村の仮構した近未来社会の核心となる存在である。
 「大陸」は明らかに中国なのに、中国やその他の国々の存在を無視した展開がずっと気になっていたが、半ばまで読むと、理由がわかる。ネタバレになるのでこれ以上は書かないが、SF的に首尾一貫しているのである。
 第三章で舞台は再び日本にもどり、近未来社会の秘密が明かされ、世界観が明らかとなる。村上龍や星野智幸の近未来小説はSF的ではあってもSFではなかったが、この小説は設定の一貫性にこだわっている点で100%純正SFといってよい。
 吉村はデビュー作の『クチュクチュバーン』以来、筒井康隆やラファティのようなナンセンス系SFとのつながりが指摘されてきたが、この作品を読んで、むしろブライアン・オールディスに近いと思った(具体的には『暗い光年』である)。
 反近代というか、進歩に対する懐疑という点で、吉村とオールディスは共通するものがあるが、オールディスは近代社会を呪詛する一方、近代化以前の世界を牧歌的に描きだしており、ウィリアム・モリスの伝統に連なっているといえる。個人的な好みになるが、オールディスの小説の一番の魅力は牧歌的な部分である。
 吉村の場合、現代日本をエログロでひっくり返してみせ、それはそれで痛快だが、殺伐としているばかりで、ほっとする要素がない。これは作家の資質の差というより、田園風景を復元した英国と、荒廃させたまま放置する日本の差なのかもしれないが、いささか寂しくもある。

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2006年02月27日

『NHKにようこそ!』滝本竜彦(角川文庫)

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 引きこもり問題をあつかった記事や座談会でよく言及される作品で、引きこもり小説の傑作ということになっているようだ。
 ご大層な解釈をする論者が多いが、実物はコミカルなライトノベルで、あっという間に読めた。ナイーブというか、衒ったところのない、普通におもしろい小説である。
 主人公の佐藤は大学を中退し、4年間、アパートに引きこもっている若者である。たまたま隣室に高校時代の後輩が引っ越してきて、二人でエロゲーをつくり、一旗揚げようということになるが、資料としてわたされた画像に刺激され、彼は重度のロリコンになってしまい、引きこもりがさらに深刻化する。
 ここで、岬ちゃんという美少女のヒロインが登場する。彼女は新興宗教の熱心な信者である叔母について、主人公のアパートを訪れるが、彼が重症の引きこもりだと見てとると、引きこもり脱出のためのカウンセリングを無料でやってあげるともちかける。
 カウンセリングといっても、彼女は高校を中退し、大学検定試験を準備中の十代の少女で、図書館で借りてきた本の受け売りをするくらいのことしかできない。  彼女がカウンセリングを口実に彼に接近したのは、彼女自身が親にネグレクトされて育ち、深い心の傷を負っているからだった。彼女はすべての他人から嫌われていると思いこんでおり、他人と親しくなろうとすると、見捨てられ不安が昂じてしまう。しかし、彼はロリコンで引きこもりという二重苦を負った最低のダメ人間だった。こういう男が相手なら、「あたしでも見下せる」と安心することができたのだ。
 カウンセリングが一段落したところで発せられる次のセリフはあまりにも痛い。

「佐藤君なら、あたしを好きになってくれるよね」と言った。
「だってさ、あたしよりもダメ人間だもん。……こうやって長い間、頑張って計略を推し進めてきたんだから、もう、あたしのとりこでしょ?」

 通常、対人不安をかかえた者どうしの相互依存の関係は距離がとれなくなり、ヤマアラシジレンマと呼ばれる深刻な葛藤を引きおこすことがおおいというが、この作品の場合はそうはならない。
 岬ちゃんはカウンセリングをはじめるにあたり、佐藤と契約を結んでいる。精神分析やカウンセリングの治療契約は、治療者とクライアントが接近しすぎるのを防ぐために結ばれるが、この二人の場合は逆である。
 契約といっても、破ったら罰金百万円というような幼稚な代物だが、両者ともおっかなびっくりで人格的に交流しておらず、契約という形で拘束しあうことで、距離が広がるのをかろうじて防いでいるのだ。
 この小説には人格的な交流が一切欠如している。最後の部分にクライマックスと呼べそうな条があるが、そこですら、本当には人格は触れあっておらず、レモン水のように、さらさらとライト感覚で流れている。
 コミカルに語られているが、そこには深刻なシニシズムが底流している。それがもっともよくあらわれているのは表題である。
 表題の「NHK」とは「日本引きこもり協会」の略で、佐藤は自分が引きこもりをつづけざるをえないのはNHKの陰謀だと思いこもうとし、岬ちゃんに対して、こんな臭いセリフを吐く。

「俺がひきこもりになったのも、実はNHKのせいだ。岬ちゃんが苦しんでいるのも、奴らのせいだ。それが真実だ。俺はとあるルートから、その真理を教えて貰ったんだ。そうして俺は、奴らと戦っていた。ずっと奴らと戦っていた。……だけどな、もうダメだ。奴らの魔手が、とうとう俺を捕まえた。俺はもうすぐ奴らに殺される。だけど岬ちゃんは大丈夫だ。君は元気に生きていくんだ」

 しかし、そんな陰謀論が嘘だということは本人自身が一番よく知っているし、崇高な自己犠牲となるはずの行動もみっともない結末をむかえる。
 佐藤と岬は宗教的妄想を信じることもできなければ、陰謀論を信じることもできない。この作品は最後までさらりとして口当たりがよいが、読み終わった後になんともいえぬ苦さが残る。現代を描いた作品である所以である。

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2006年02月23日

『告白』町田康(中央公論社)

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 昨年の文芸界最大の話題作であり、町田康の(現在までの)最高傑作といっていいだろう。
 この小説は明治23年(1893)に実際に起きた「河内十人斬り」をモデルにしている。事件のあらましは帯に紹介されているが、Wikipediaをリンクしておこう。
 チンピラ二人組が痴情と金のもつれから、村の顔役一族十人を惨殺するという猟奇的な事件だが、民衆の同情はむしろ犯人側に集まり、主犯の城戸熊太郎の物語は河内音頭や芝居、浪曲に仕立てられ、関西では国定忠次や雷電為衛門なみに有名らしい。河内音頭はCDになっている。河内家菊水丸の三枚組の口演は絶版だが、熊太郎の妻が弟分の弥五郎にまでちょっかいを出すというバージョンが『唄う爆弾30連発!河内家菊水丸の新聞詠み河内音頭』に活字化されている。また、本宮泰風口演のDVD『修羅場の侠たち 伝説・河内十人斬り』が入手可能である。
 こういう民衆のヒーローはピカレスク・ロマンとして書いてもよかったはずだが、町田康は近代小説として書き、主人公の城戸熊太郎を自意識の強い「思弁的」な男に設定した。
 熊太郎は百姓仕事を馬鹿にして遊び暮らし、いっぱしの侠客を気どっていたが、それが虚勢であり、「贋の侠客」にすぎないことは本人が一番よく知っていた。

 俺は侠客っぽく振る舞っているけれども心のどこかでこうして百姓仕事をしないで極道をしていることを申し訳なく思っていて、だから人がきたりすると咄嗟に、あっ、すんません、などと言って自分が避けてしまう。だから俺が駒太郎に手伝いを申し込んだのも実は、俺の立場を悪くしないため、と俺は思っていたけれど本当はそうではなく、それは俺のみなに申し訳ないという基本的な思いから出たものかも知れず、その申し訳ないという気持ちがどことなく態度に表れているからみなが俺にばかり、退け、というのか。案外それが一番大きいかも知れない。

 現実の熊太郎がこんなにしおらしい男だったかどうかはわからない。多分、違うだろう。しかし、町田康は熊太郎をインテリになりそこなった男として描くことで、内面と外面の齟齬という近代小説の王道をなぞってみせる。この小説は最初から最後まで、恥ずかしい内面の「告白」なのだ。ただし、その「告白」は無色透明な標準語ではなく、コテコテの河内弁でおこなわれており、抱腹絶倒のパロディと化している。
 しかし、パロディにせよ、内面描写が身体描写というか、器官描写に切れ目なしに移行していく先鋭的な作品を書いてきた町田康が近代小説への本卦がえりするなど、後退ではないのか。
 この後退は戦略的なものだ。というのも、熊太郎の悲劇の根本原因は内面を表現する言葉をもっていないことに求められているからだ。

 そんななかでひとり思弁的な熊太郎はその思弁を共有する者もなかったし、他の者と同様、河内弁以外の言語を持たず、いきおい内省・内向的になった。もちろん熊太郎がそのことを明確に自覚していたわけではなかったが、このことが熊太郎の根本の不幸であったことは間違いない。

 事件の起きた1893年は日本の近代小説の揺籃期にあたる。二葉亭四迷が『浮雲』を放りだしたのは6年前の1887年、『其面影』を書きはじめるのは3年後の1896年。河内の片田舎だけではない。当時の日本には内面を語る言語などなかったのだ。
 熊太郎は日常の言語では掬いきれない思いを楠木正成に託す。自らを楠公の生まれ変わりと思いこもうとし、「義」を自分の行動の裏づけにしようとする。物語のどんづまりで十人斬りの凶行に踏み切らせるのも、「正義」の実現という妄念である。
 もちろん、この妄念は破れる。正義の審判者のはずだった妻はただの淫乱女だったし、十人殺しても何も変わらなかった。救いは訪れなかった(「ここが行き止まりだとおもってぶち当たった壁は紙でできていて、ぶち当たった途端に破れ、その先には変わらぬ世界があったのだから笑う」)。
 最後の最後に熊太郎が見た内面の風景は空虚そのものだった。

 矌野であった。
 なんらの言葉もなかった。
 なんらの思いもなかった。
 なにひとつ出てこなかった。
 ただ涙があふれるばかりだった。
 熊太郎の口から息のような声が洩れた。
「あかんかった」
 銃声が谺した。

最期の言葉が「あかんかった」だったとは、なんともやりきれない。
 町田康は近代小説が後生大事に祭りあげてきた内面が空虚でしかないことを、近代小説誕生の時点において暴いてみせたのである。『告白』は近代小説への贋の回帰であり、日本近代文学の伝統に風穴を開けるものとなっている。

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