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2006年01月27日

『ロートレアモン全集』 イジドール・デュカス (ちくま文庫)

ロートレアモン全集 →bookwebで購入

 『マルドロールの歌』を二十数年ぶりに読んだ。今でも新鮮であり、面白かった。

 昨今子供を狙ったおぞましい事件があいついでいるが、その原型といえるような残虐行為がここには颯爽と描かれているのだ。

 わたしが『マルドロールの歌』をはじめて読んだのは現代思潮社から出ている栗田勇訳だった。携帯用の辞書のようなずんぐりした本で、退色したような色合の貼箱にはいっており、秘密の経典のようだった。その後、栗田訳にははいっていない「ポエジー」を読むために、思潮社から出ている渡辺広士訳の『ロートレアモン全集』をもとめた。こちらは真っ白な箱にはいった真っ白な装丁の本で、やや縦長の版型とあいまって怜悧な印象だった。

 栗田訳は毒気とか瘴気と訳すべき語を「放射能」と訳すように、かなりクセのある翻訳だったが、散文詩としての格調をそなえた日本語になっていたと思う。それに対して渡辺訳はやや幼児口調をまじえた平明な口語体で、栗田訳で立ち止まらなければならなかった箇所もすらすら読めた。両訳とも版を重ねており、現在でも入手可能である。

 今回はちくま文庫版の石井洋二郎訳『ロートレアモン全集』で読んだ。石井訳全集は2001年に箱入りで出版されたが、昨年、注と解説を簡略にした文庫版が出た。

 ロートレアモン伯爵ことイジドール・デュカスは24才で没しており、書き残したものとしては『マルドロールの歌』と短い「ポエジー」二篇、六通の書簡しかないので、厚目の文庫一冊におさまるのである。

 翻訳の出来をうんぬんするような力はないが、訳文を読んだ感想としてはニュートラルで折り目正しい日本語になっているものの、静的な印象を受けた。

 「第六の歌」から、メリヴィンヌ少年がマルドロールの手紙を開く場面を引く。

 太陽光線がプリズム状の輝きを注ぎ、ヴェネチア製の鏡や西洋緞子ダマスクのカーテンに反射させている。勉強机の表面を覆う打ち出し細工の革張りの上に散らかっている金装小口本や螺鈿表紙のアルバムのあいだに、彼は書簡を放り出す。ピアノの蓋を開け、ほっそりした指を象牙の鍵盤の上に走らせる。真鍮の弦はまったく音を響かせなかった。この間接的な警告を受けて、彼はふたたび上質ヴェラム紙の手紙を手に取る。ところがそれは、まるで宛名人が躊躇したのに気を悪くしたかのように後ずさりした。この罠にはまって、メルヴィンヌは好奇心をそそられ、読まれる準備のできている紙きれを開く。彼はそのときまで、自分自身の筆跡しか見ていなかった。

 同じ箇所が栗田勇訳ではこうなる。

 太陽の光線がそのプリズムの光の発散をヴェニスのガラスとドンスのカーテンのうえに反射している。彼はその信書をわきになげる。彼の勉強机の表面に張ってある打ち出し皮のうえにちらばった、金ぶちの本や螺鈿の上表紙のアルバムのあいだに。彼はピアノの蓋をあけ、そのほっそりした指を象牙の鍵盤のうえにはしらす。ピアノの真鍮線は全然鳴らない。この間接的な警告は彼がふたたびその羊皮紙を手にとるようにしむけたが、しかし紙は、まるで受取人の躊躇によって侮辱をうけたかのように、後ずさりする。このわなにかかってメルヴァンの好奇心はいや増し、彼はこの仕込まれた一片の紙片をひらく。かれはこのときまで自分じしんの筆跡以外はまだみたことがなかった。

 栗田訳の「羊皮紙」は「羊皮紙に似せた紙」とすべきだが、手紙が意志をもった生き物のように動きだす機微を伝えてもいる(それをうるさいと感じる人もいるかもしれないが)。

 次に同じく「第六の歌」から、アゴーヌが父親の横暴を打ちあけるくだり。

 親父は何度も、鳥籠とその中味をどこかへやってしまえと命令していた。カナリアが母音唱法才能を発揮して、空気のように軽やかな独唱曲カヴァティーナの花束を投げかけながら、自分のことを馬鹿にしていると思いこんでいたんだ。あいつは鳥籠を釘から外しに行ったが、怒りで逆上して、椅子から滑り落ちてしまった。膝をちょっとすりむいたのが、このもくろみの戦利品という次第。腫れ上がった部分をしばらくおがくずで押さえてから、眉をひそめてズボンのすそを下ろすと、前より用心深くして、鳥籠を小脇に抱えて作業場の奥に向かった。そこで、家族が泣き叫んで懇願したのに(おれたちはこの小鳥にずいぶん愛着を感じていた。家の守り神みたいなものだったから)、あいつは鋲を打った踵で柳の籠を踏みつぶしやがった。そのあいだ大鉋を頭上でぐるぐる振り回していたから、その場にいた連中は近づけなかったんだ。

 同じ箇所を渡辺広士訳で。

 でも父は、鳥籠とその中味をどこかへやってしまえとなん度も命令していた。なぜかというと、カナリヤが声楽家の素質たっぷりに軽やかな歌の花束を父に向かって投げると、彼は自分の人柄を笑われたと思い込むんだ。彼は籠を釘からはずしに行って、怒りで目がくらんでいたもんだから、椅子からすべり落ちちゃった。膝の軽いかすり傷が作戦の戦利品というわけなんだ。ふくれあがったところを暫く木切れで押さえていてから、彼はズボンをおろして、眉をしかめて、今度はもっと用心して鳥籠を小脇に抱えて仕事場のすみへ行った。そして家中みんなの悲鳴と嘆願も無視して(ぼくたちはその鳥をずいぶん大事にしていて、家の守り神のように考えていたんだ)鋲のついた靴の踵で柳の籠をふみつぶしたんだけど、その間じゅう頭のまわりに大きなカンナをふりまわしてみんなを近寄れないようにしてるんだよ。

 カンナを自分の頭のふりまわすことはできない。ここは「頭上でぐるぐる振り回していた」という石井訳の方が適当ということになるが、「頭のまわりに大きなカンナをふりまわして」という渡辺訳は、物理的に不可能であっても臨場感がある。

 石井訳の特徴は注が多いことである。栗田訳は方針として注をつけておらず、渡辺訳は本文250ページに対して注は20ページほどだが、石井訳は本文380ページに対して95ページの注がついている(活字は本文よりかなり小さい)。最新の研究を参照しているという点でも石井訳に長がある。

 注は細かい話がつづく中、「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」というロートレアモンの代名詞となった比喩について「これら多様なオブジェの奇妙な結合は、何か雑誌の広告ページにそれらが一緒に載っていたことから出てきたもの」ではないかという説があり、近年それが実証されたという記述に出くわした。

 その後四十年間にわたって、この推測は裏づけを得られぬまま単なる予感にとどまっていたが、ルフレールの熱心な調査によって、実際にモンテビデオで発行されていた企業・個人名鑑の広告篇に、ミシンと雨傘、それに解剖台そのものではないが、外科手術の道具の宣伝が(ページは異なるが)同時に掲載されていたことが発見された。この名鑑の刊行は一八六九年で、『マルドロールの歌』全編の刊行はこの年の八月であるから、第六歌の執筆中にデュカスがたまたまこれを見てヒントを得た可能性はじゅうぶんにある。

 こんなことがわかったからといって、ロートレアモン評価が変わるわけではないが、トリビアではある。

 検索して意外だったのは、この20年ほどの間に『マルドロールの歌』が何度も邦訳・刊行されていたという事実である。白水社からは豊崎光一訳全集が出ているし、『マルドロールの歌』単独では集英社文庫の前川嘉男訳、講談社文芸文庫の青柳瑞穂訳、福武文庫の藤井寛訳がある(豊崎訳と前川訳は入手可能)。栗田訳も一時期、角川文庫から出ていた。

 これだけいろいろな邦訳が出版されているということはそれなりに売れているのだろう。マルドロールの歌』は『坊ちゃん』や『伊豆の踊り子』のような青春の書になっているのだろうか。

 一方、ロートレアモンに関する評論は全滅状態である。基本図書というべきブランショの『ロートレアモンとサド』も、ブランショの明快丸かじりの『ロートレアモンの世界』も、出口裕弘の『ロートレアモンとパリ』も、現在では入手できない。

 ロートレアモンはおもしろく読んで、それでおしまいではもったいない。せめて『ロートレアモンとサド』くらいは平凡社ライブラリーかちくま学芸文庫あたりにはいって、いつでも買えるようになってほしいものだ。

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