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2005年12月29日

『ヴァレリーの肖像』 清水徹 (筑摩書房)

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 作家の原稿には書きたくて書いた原稿と注文で書いた原稿の二種類があり、その比率はさまざまである。

 ポール・ヴァレリーは注文原稿の比率が圧倒的に高い作家として知られてきた。注文原稿が作品の大部分を占めることは20代の詩作放棄と文学に復帰してからの文学に対する懐疑的な発言とあいまって、ヴァレリー神話の一画を形作ってきた。厖大なカイエと草稿群が刊行されて比率が逆転したが、生前公刊分についていえば、書きたくて書いた作品がすくないことに変わりはない。

 清水徹の『ヴァレリーの肖像』はヴァレリーの数すくない、書きたくて書いた作品に照準をあわせた評伝(と言っていいのであろう)である。全体は七章にわかれ、第一章は「ナルシス語る」、第三章は「ムッシュー・テストと劇場で」、第四章は「マラルメ試論」(未刊行)、第五章は「若きパルク」、第六章は「ナルシス断章」、第七章は「天使」を論じ、巻末に注文原稿の特質について考察した補章「文筆家としてのヴァレリー」を置いている(「ジェノヴァの危機」神話をあつかった第二章だけは趣きを異にし、メモにすぎない「R夫人関係文書」をあつかう)。

 著者はヌーヴォー・ロマンやヌーヴェル・クリティックの紹介者でもあり、本書は決して生涯から作品を説明した本ではないが、近年の伝記的研究はおさえてあって、いわゆる「ジェノヴァの危機」をあつかったくだりなど往年のヴァレリー・ファンは啞然とするだろう。失恋体験から決然と文学を放棄し、知性の確立を決断したことになっていたが、そうした神話は有名になってから作られたものだったのだ。20歳の頃、それらしいことはあるにはあったが、失恋といっても妄想的な片恋にすぎず、いわゆる「危機」の後もうじうじと悩みつづけていたのである。

 しかし、伝記は伝記にすぎない。

 本書の主題はヴァレリーの生涯のテーマである「ナルシス」の発展と分岐を追うことにある。ヴァレリーはピエール・ルイスと知りあうすこし前に(ということはマラルメを読む前に)、「ナルシス語る」の第一稿を書きあげたが、このテーマはマラルメとの出会いによって精密化し、自己意識の注視へと深化してテスト氏を産みだすことになった。

 テスト氏はマラルメをモデルにしているという説があるが、そうではなかったらしい。著者はヴァレリーがくりかえし言及しているマラルメと意気投合したとされる夜の対話を薄皮を剥ぐように腑分けし、両者の行き違いを明らかにしていく。

 両者ともポオの詩論を土台にしている点は同じだが、マラルメにとっては「完全」とはあくまで作品の完璧性であるのに対し、ヴァレリーは作品を作る能力があるのに作らないこと、可能性を未発のままにとどめておくことが「完全」だという観念に取り憑かれていた。著者はそこまで言っていないが、テスト氏はマラルメの「作品」概念に対抗する最終兵器だったのかもしれない。

 「ムッシュー・テストと劇場で」は知性の権化のテスト氏が身体に敗北し、眠りに落ちる場面で終わるが、それから20年後、第一次大戦の動乱の中で、ヴァレリーは意識と身体の関係をパルクという若い女性像の造形を通して深めることになる。

 「若いパルク」には蛇が登場する。蛇は副主人公といっていいくらい大きな存在だが、陽根の連想から、パルクを脅かす対立者という解釈がある。しかし著者は草稿や他の作品の分析によって、蛇はパルクの分裂した一部で、懐疑的な自己意識であることを論証する。蛇とパルクは鏡像関係にあり、パルクはもう一人のナルシス、官能的な肉体をそなえたナルシスだったのだ。

 蛇を除外してもパルクはさまざまなレベルで自己分裂にさいなまれている。「調和のとれた私」という語句は分裂状態と対比した始原の幸福状態、無垢の状態とする解釈が多い。著者は草稿の研究からそうした解釈を否定し、「調和のとれた私」が実は死の可能性に気づかない「いつわり」の状態であり、内なる蛇によって分裂を意識した今の自己こそ真実の自己だと指摘する。著者は逐行的に意味の重なりあいを解きほぐしており、その精密な分析には説得力があるし、またそう解してこそパルクの肉体の重層性が浮かびあがってくる。「若きパルク」を腑分けした第五章は本書の白眉である。

 ナルシスのテーマは「ナルシス断章」をへて、未完成に終わった「ナルシス《終曲》」、さらには亡くなる二ヶ月前に決定稿のなった散文詩「天使」へと展開していく。

 中井久夫はラカンとブランショの思想はヴァレリーから出たと断言している。ブランショがヴァレリーの著作を意識していたことはよく知られているが、ラカンとヴァレリーの組合せは意外の感がある。しかし水鏡するナルシスがヴァレリー生涯のテーマだったことを考えれば、ヴァレリーからラカンに向かう水脈があったとしても不思議ではない。

 「天使」では認識のおよばない領域とその領域の上で活動する理知の光が讃美されるが、くまなく見ようとすればするほど、見通すことのできない闇が意識されてくるという構造は「ムッシュー・テストと劇場で」や「若きパルク」と同型である。本書の描きだすヴァレリーは水鏡の向こうの闇を見透しているようだ。

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