連続ブックフェア 「紀伊國屋書店と新宿」


Vol.1 「モダン都市文化」
2008年7月7日(月)~8月7日(木)
Vol.2 「〈熱き時代〉の新宿、新宿の〈いま〉」
2008年9月16日(火)~11月30日(日)
(会期は売場によって異なります)
紀伊國屋書店 新宿本店 3階・5階・6階
紀伊國屋書店 新宿南店 3階・5階・6階

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« 新宿のいま | メイン

2008年09月16日

本間健彦 「新宿プレイマップ」

あの時代の新宿は燃えていた。1960年代の新宿である。都市の歴史にも青春時代があるとすれば、あの頃の新宿はまさに青春期だったのだろう。

1972年当時の新宿地図
当時の新宿地図
(クリックすると拡大)
「新宿プレイマップ」34号
(1972年4月号)より

当時、新宿は<若者の街>と呼ばれていた。新宿が青春時代だったから若者が集まったのか、若者が集まったから新宿の街が青春期に突入したのか、そこのあたりの相関関係は私にはよくわからない。ただ時に、「海も、スキー場もないのに、なぜ、新宿にはこんなに大勢の若者が集まるのだろう?」と、ぼんやり考えたものだ。
私自身も、学生の頃から新宿にはよく出かけていた。50年代末から60年代初期頃で、主たる目的は、その頃仲間うちでイキがって呼んでいた「ダンモの店」――モダンジャズのレコードを専門に聴けるジャズ喫茶――に出かけるためだった。ちょっと解説が必要だろう。当時の平均的な学生の小遣いでは最新輸入版レコードを手に入れることがなかなか大変だったこと。ましてやジャズ喫茶の音響設備のような高性能なアンプやスピーカーを、安アパートの四畳半などに導入するなどということはほとんど実現不可能な夢だったからだ。それが当時、ジャズ喫茶が都内の主だった盛り場や地方の中心都市などに輩出した背景なのだ。と言っても、一つの盛り場にせいぜい一~二軒に過ぎなかった。ところが、新宿には最盛時ジャズ喫茶が10軒位あったのだ。
私のよく通った店は、靖国通り厚生年金会館対面の新宿二丁目特飲街に入る角地にあった「きーよ」、歌舞伎町に入る側の都電通りと呼ばれていた靖国通り沿いにあった「木馬」、要町の寄席末広亭近くにあった「ヨット」、武蔵野館前の路地を入ったと所にあった「汀」という店だった。ジャズ喫茶は穴倉のような店が多かった。客は滝に打たれる修行僧のように大音量で流されるジャズに打たれていた。コーヒー一杯で何時間も・・・。
「きーよ」は終夜営業のジャズ喫茶で、一階奥のカウンター席には常連客や立川基地からやって来る黒人兵がたむろしていたが、二階席はダンモ店では珍しい大きな窓のある開放的な店だった。私は二階の窓際のテーブルに陣取り、ジャズ・メッセンジャーズの<モーニン>という曲などを聴きながら、夜通し走り続ける車の流れや怪しい二丁目特飲街の女たちや酔いどれ男たちのどうって事もない街路芝居を眺めて夜を明かし、始発電車が走り出す時刻に店を出るといった利用の仕方もしていた。この種の店が効率の悪い商売であることは歴然としていた。それを容認していたのは、ジャズ喫茶の主人達が変わり者揃いで、客達以上にジャズ狂であり、商売というより、それぞれ自分好みの、こだわったジャズ喫茶であり続けることに情熱をかたむけるという経営者だったからだろう。そんな店がその頃の新宿には多かった。そんな点なども、それから数年後に、新宿が、<若者の街>として脚光を浴びるようになる下地だったのであろう。

「新宿プレイマップ」創刊号(1969年7月号)表紙
「新宿プレイマップ」創刊号
(1969年7月号)表紙

新宿のタウン誌『新宿プレイマップ』は、1969年6月に創刊された。雑誌発行の慣習で月号は一月先の7月号だったが。発行元は、新都心新宿PR委員会(委員長田辺茂一)というところで、新宿の商店街・百貨店・有力企業等によって前年に結成された団体であった。この新団体は、団体名に一目瞭然のように「新都心新宿」を目指すという趣旨で結成されている。「新都心新宿」の目玉は、西口にあった旧淀橋浄水場跡の広大な敷地にニューヨーク・マンハッタン地区の摩天楼街みたいな超高層ビルの林立する新しい街を造るという副都心計画だった。それまで銀座の後塵を拝してきた新宿の商業資本家が「好機到来!」と、この開発計画に色めき立ったことは言うまでもない。委員会結成の仕掛け人は、四谷にあった文化放送開発課のスタッフだった。仕掛け人の企画書には、まず手始めの仕事として雑誌の発行が盛り込まれていて、『新宿プレイマップ』という誌名も提案されていた。
また、この新宿で発行する新雑誌の編集を請け負ってくれないかという話が、文化放送を通して『話の特集』の矢崎編集長に持ちかけられていた。『話の特集』に白羽の矢が立ったのは、同誌が1965年12月の創刊当初から斬新な誌面づくりで脚光を浴びていたからだろう。だが、評判の良さとは裏腹に経営は思わしくなく、その頃、『話の特集』は創刊から数えると三人目の経営者にギブ・アップ宣言を受け、新経営者を探すか、廃刊か、それとも独立経営の道を模索するかという岐路に立たされており、矢崎編集長はそれどころではなかったのだ。で、「きみ、やってみる気ある?」と、編集部員のひとりだった私に話を振ったのだろう。
その話に私は二つ返事で乗った。「舞台が新宿なら面白い!」と直感的にひらめくものを感じたからだった。が、不安がないわけではなかった。たとえ新宿の街の雑誌であるにしても、単なる新宿のPR誌を作れということなら、やっぱり辞退するしかないかな、とも内心腹を決めていたからだ。「いや、それはない。新宿のイメージアップを図れるセンスのいい街の雑誌を創って欲しい。そういうことで『話の特集』に編集制作の要請があったのだから」と、矢崎編集長は強調した。「ならば、やってみる手だ」と話に乗ったのだった。

60年代中頃から末にかけての新宿は、アングラ演劇、ゴーゴーダンス、ジャズ、ロック、フォーク等の若者音楽、フーテン風俗、ヒッピームーブメントなど、サブカルチャー(先端的台頭文化)の坩堝であり、若者文化の一斉蜂起した街として知られていた。ところが、その末年には、新宿の状況が大きく変わろうとしていた。それは次に挙げる当時の代表的な<新宿事件>の顛末に象徴的に認められるだろう。

★ 1968年6月 状況劇場の花園神社での赤テント公演、追放される。座長唐十郎の捨て台詞に曰く<新宿見たけりゃ今見ておきゃれ、じきに新宿原になる。>
★ 1968年10月21日 <国際反戦デー>の集会に参加した反日共系全学連各派による新宿デモに騒乱罪適用。街の“自警団”も組織され大活躍。
★ 1969年5月 新宿西口広場で毎週末行われていたべ平連主宰のフォーク集会が機動隊の出動により解散を命じられる。5月、「西口広場」は「西口通路」と改称。

では新宿は何処へ向かおうとしていたのか。言うまでもなく<新都心新宿>を目指し驀進しようとしていたのである。それは、フォーク集会の若者が追われ、<広場>が<通路>に変わってしまった元新宿西口広場のことなど何処吹く風という勢いで、すぐ目の前の副都心計画地に一番手として建設が着手された京王プラザホテルの巨大な鉄骨の骨組みが毎日急ピッチで天に向かって伸びていく光景を眺めれば、誰の目にも明らかであった。
『新宿プレイマップ』の創刊された1969年6月という時は、そんな時代・そういう時節であったことを、ご記憶いただけたら、と思う。紙数がないので、時代考証はそのへんにして、創刊までの楽屋裏を簡単にご紹介しておこう。

私は、その前年暮に『話の特集』編集室を離れ、年明けには雑誌発行元の新都心新宿PR委員会に入った。入社という感じではなかった。なぜなら、その時にはまだ事務所も編集室もなく、スタッフもおらず、一応編集長という肩書きの私ひとりが、四谷の文化放送の廊下の片隅に机を与えられ、いるだけという状態だったからだ。あの伝説の、『新宿プレイマップ』はこういうところからの出発したのだった。一般的には極めて惨めなスタートだったわけだが、私自身は創刊号の編集企画と準備に孤軍奮闘して没頭していたので、そんなことにはあまり気にもならなかった。そんなことより新都心を目指して立ち上げたはずの団体の実体のない空洞ぶりや、資金の目途が立たないためにいつになっても雑誌発行の運びにならず、待ちぼうけを喰わされていることに苛立ち、これはとんだところへ来てしまったな、と後悔したのを覚えている。
4月に入り、新宿大通りの外れ、二丁目の特飲街に入る角地(先にふれたジャズ喫茶「きーよ」のあった反対側だった)の時計屋の二階に事務所兼編集室が決まり、初めて事務局長のY氏にも紹介された。このY氏がいわば私の直接の上司だった。また、新卒の田家秀樹君(現在、音楽分野のライターとして活躍)が入社し、『新宿プレイマップ』第一号の編集部員になった。それともう一人若い女性が事務員として入社した。私を含めた以上四人が創刊号発行前後の体制だった。こうしてようやく6月創刊の緒に辿りついたのである。

『新宿プレイマップ』とは、どんな雑誌だったのですか?と訊ねられても、一口で説明するのは難しい。で、創刊号の主要記事がどんなものだったか、そのことについて簡単に紹介することで説明に替えたいと思う。
目玉の一本は、野坂昭如と矢崎泰久の「焼け跡派の“じゅく”望郷」と題した対談で、戦後の闇市時代の新宿で野坂青年が女をたぶらかしたり、かっぱらいや飲み逃げをしていたなどいう無頼の青春を語った痛快な記事だった。だが、この対談を見学したいと立ち会っていた新都心新宿PR委員会の委員の一人の某氏は、憤然とした面持ちで中座すると、私を別室に呼び出し、「あんな酷い話を雑誌に載せるのか。話題を換えさせなさい」と激怒して帰ってしまった。けれども私は、話題を換えて欲しいとも要望しなかったし、対談の内容はダメだしのでた部分もノーカットで掲載した。
二本目は、田中小実昌の「星のきれいな新宿」と題した短編小説で、「ある夜、ぼくはこの路地に迷いこんだ。さがして見つかる路地ではない。気がついたら、この路地にいた。(中略)入口のガラス戸にはガラスはなく、ベニヤがうちつけてあって、なかは見えない。だけど、なかから、酒を飲んでいるひとたちの声がきこえた。ぼくはその戸をあけ、たいへんおセンチな言い方だが、ぼくの新宿にめぐりあった。」といった独特の文体の好短編だったが、やはり焼け跡闇市時代の新宿を舞台にした物語だった。
三本目は、編集長の私が担当した「アソビ人間研究」と題したインタビュー記事で、“三文役者”として人気のあった殿山泰司がゲストだった。たしか二丁目の「ユニコン」という酒場でのインタビューだったと記憶するが、殿山泰司は「女には言葉は通じない。論理的に説得しようとしても、かえって話がこじれるだけ。別れの理由を女に聞かれたら、“お前のモノが悪いからだ”の一言に限る」といった調子の天衣無縫のタイちゃん説法を語ってくれ、滅法面白い記事に仕上がった。

創刊号は読者や取り上げてくれたマスコミなどでは大変評判が良かったが、版元のPR委員会の合評会の席で、編集長の私はこっぴどく吊るし上げをくった。特に婦人専門店系の委員からは「こんな内容の雑誌は恥かしくてお客様に渡せない」と厳しい叱声を受けた。創刊号から危うく飛びそうだった編集長のクビが免れたのは、「でも、うちではとてもよく売れているんだよ。街のPR誌が書店で売れるなんて凄いことなんじゃないかな」という田辺茂一委員長からの援護射撃があったからだった。紆余曲折はあったにせよ、編集長の私のクビが飛ばず、『新宿プレイマップ』の発行が三年近くまで継続できたのは、田辺委員長の存在-――紀伊国屋書店の創立経営者であり、新宿を代表する文化人であり、そして大きな自由人であった田辺さんの無形の擁護があったからなのである。
とはいえ、号を追うごとに版元側委員からの検閲の目は次第にきびしくなった。写真グラビヤやイラスト・ルポの内容にクレームが付けられ、ボツになったものもあった。『新宿プレイマップ』は、新宿のPR誌だったのだから、そのような検閲や弾圧が編集部に下されるのは当然の話だった。けれども、私たち編集部は、<誌上広場を創ろう!>という旗は決して降ろさなかった。私は新人編集部員の田家君に「遺書を書くつもりで、毎号、一冊、一冊創って行こう!」と檄を飛ばしていたらしい。それは確信犯としての覚悟が常に求められていたからなのだろう。
五木寛之の『金沢望郷』という小説に、金沢でタウン誌をやっている主人公が「かつて一時期、私たちを夢中にさせたのは、<新宿プレイマップ>だった。1960年代の幕が降りる頃に登場したこのメディアによって、<タウン誌>という言葉がひろく市民権をもつようになった」と回想するシーンがある。たしかに、<タウン誌>という呼び名をひろめたのは、『新宿プレイマップ』であった。それは前述したように<誌上広場>を、街のPR誌という足枷の中で実現したかったからのだ。そのために私たちは、新宿の商業資本家たちが“副都心”を“新都心”とすり替えたように、街のPR誌を<タウン誌>という名のジャーナリズムの未開拓領域のニューメディアとして世間にアピールしてきたのだった。
そういう姿勢に賛同してくれたのか。あるいは新宿の強い磁力ゆえだったのか。『新宿プレイマップ』編集部には、「編集に参加したい」という若者が大勢集まって来た。ほとんどは正規の編集部員として雇われたわけではなく、いわば自主参加だった。個性的で、自己主張が強く、扱い辛い連中がすくなくなかったけれど、みんなそれぞれいい仕事をしてくれた。新入りの街のPR誌にもかかわらず、たくさんの新鋭の作家・写真家・イラストレーターたちの応援・協力も得られた。これもひとえに新宿の、街の雑誌であったがゆえの恩恵だったのだろう。

『新宿プレイマップ』は創刊一周年を迎えた1970年7月号で「満一歳記念特集号」を組んだ。私は編集後記に「“満一歳”を迎えることが、これほど大変なことだとは、不覚にも想像しておりませんでした」と記している。今では懐かしい思い出のひとつだけれど、あの時はやっぱりしんどかったのだろう。この特集号では寄稿者・読者からたくさんのメッセージが寄せられ、特集号の記事の一つとして掲載しているが、その中からSF作家山野浩一の一文を紹介しておきたい。

都市というものは機能的に発展するほど人間を疎外するものであり、もともとそういうものに“人間的”なものを求めること自体欺瞞である。新宿がそうした欺瞞を脱し、高層ビルの立ち並ぶ“本来の”都市の姿になりつつあることは大いに喜ばしい。今後更に人間疎外の街として発展してほしいと思う。
私は新宿へ疎外されに行き、大いに復讐心を燃え立たせ、いつか訪れる廃墟を想像しながら楽しみたいと思う。新宿万歳!
付け加えるなら『新宿プレイマップ』は都市としての新宿へのレジスタンスを貫くべきである。新宿の街が出している雑誌だけに街の発展と同じ方向へ向うのでは意味がない。私が自己存在へのレジスタンスとして小説を書くのと同じようなものであるべきである。新宿プレイマップ万歳!

さすがはSF作家の優れた遠視力というべきか! 山野さんの都市観は今もそのまま通用するものだろう。

「新宿プレイマップ」34号(1972年4月号)表紙
「新宿プレイマップ」34号
(1972年4月号)表紙

『新宿プレイマップ』は、山野さんに代表された声に応えるべく、都市としての新宿へのレジスタンスを貫き、よく健闘したという自負はあるが、やはり力不足だったということも否めない。その結果が1972年4月号をもっての廃刊であった。
想えば、『新宿プレイマップ』は、1969年5月新宿西口広場のフォーク集会が機動隊により駆逐され、「広場」が「通路」と改称された、その直後に誕生し、70年代初頭頃から「新宿はもう面白くないよ」と新宿離れを始めた若者たちが吉祥寺や下北沢に流れて行った頃に終幕したことになる。そんな時代・そんな状況の新宿での2年10ヵ月だった。私たちはもっと早期の廃刊を覚悟していたのだが、新宿が燃えていた時代の若者文化の余熱が通巻34号までの刊行をバックアップしてくれたのだと思う。

『新宿プレイマップ』とは、何だったのか?
そんな質問を受けても、老兵は沈黙するしかない。
バックナンバーをぱらぱらとめくっていたら、筒井康隆の「新宿博物誌」と題したエッセイに、『新宿プレイマップ』について次のような定義をしているのに再会した。筒井さんらしい諧謔心溢れた面白い評価なので紹介しておこう。

しんじゅくぷれいまっぷ[新宿Play Map]
 遊び半分で新宿の街を掃除している、巨大なゾーキン。

めくるめくような日々だった。辛いこと、悲しいこと、悔しいことも沢山あったけれど、私たちはツアーライブでもやってる感じで雑誌作りを愉しんで来た。毎日が移動祝祭日みたいだった。あの頃は、<新宿の青春時代>だったのだろう。

新宿関連推薦本

新宿関連推薦本

[選者]本間健彦

金沢望郷歌 金沢望郷歌

五木寛之
文藝春秋(1992-04)
ISBN: 9784167100278
407円 (税込)
※品切れ


フォークソングの世界 フォークソングの世界

三橋一夫
音楽之友社(1971)
※品切れ


昭和ジャズ喫茶伝説 昭和ジャズ喫茶伝説

平岡正明
平凡社(2005)
ISBN: 9784582832723
1,890円 (税込)


日計(ひばかり) 日計(ひばかり)

迫川尚子
新宿書房(2004)
ISBN: 9784880083063
2,940円 (税込)


2008年09月12日

田家秀樹 「新宿と音楽」

新宿はいつの時代も新しい音楽を送り出してきた。
それぞれの世代にとって、新宿で聞いた音楽というのが青春のBGMとして残り続けているのだと思う。

例えば、60年代に新宿で過ごしていた人たちにとってはモダンジャズが、そういう音楽に当たるのだろう。
ジャズ喫茶。モダンジャズが文学や絵画などの芸術と密接に関わっていた時代。ジャズ喫茶は、どんな大学の研究室よりも知的で刺激的な空間だった。
60年代の後半に、そうした若者のたまり場だった中央通りの「風月堂」、駅裏から新宿通りにかけての「DIG」と「DUG」。靖国通りの「木馬」や歌舞伎町の「ビレッジ・ゲイト」や「ビレッジ・バンガード」。ビートたけしや中上健次、連続射殺犯の永山則夫。その頃のジャズ喫茶を根城にしていたりアルバイト先にしていて、その後、様々な形で名前を知られるようになった人は多い。日野皓正や渡辺貞夫が出演、フリージャズのミュージシャンの登竜門だった生演奏の「ピット・イン」は伊勢丹裏にあった。
僕らより少し上の世代にとっては「キーヨ」や「渚」という店になるのだろうか。モダンジャズからフリージャズへ移行してゆく中で、喫茶店は最も音楽的な場所として機能していた。中央通りの「ボロン亭」は、ジャズの生演奏と詩の朗読というコラボレーションが定期的に行われていた。

日本で最初のタウン誌「新宿プレイマップ」が誕生したのは1969年の6月だ。
それは新宿の街にとって、音楽が喫茶店という空間から表に出て行ったという意味で画期的な年でもあった。
その年の連休明けから西口にギターを持った若者たちが三々五々集まりだしていた。
岡林信康や高石友也などのフォークソングを歌う若者達の輪は週末ごとに増え、最盛期には7千人もが西口広場を埋め尽くした。歌だけではなく即席の討論会も行われる熱気に満ちた場所は、文字通りの「広場」だった。
ただ、西口広場は、人が集まることがもたらす影響を怖れる警察の力によって強制的に制圧され、その年の夏に消滅してしまう。それでも、誰もがギターを持って好きな歌を街頭で歌うという意味では、今のストリートミュージシャンたちの走りであり、原型だったと言って良いだろう。フォークソングの最も原初的な形が、新宿西口から始まった。

70年代の音楽の流れを一口に言ってしまうと、ジャズからロック、あるいはフォークへということだったように思う。
70年代の新宿は、ロック喫茶やフォーク喫茶で賑わっていた。新宿通りの「開拓地」や「ローリングストーン」でロックの新譜を聴いたというロック世代も多いはずだ。厚生年金会館前の「ヘッド・パワー」や「ソウル・イート」はサブカルチャーの拠点だった。
アマチャア時代の吉田拓郎が初めて東京のステージに立ったのは西口のフォーク喫茶「フォーク・ビレッジ」だ。吉田拓郎と浅川マキが、三丁目のATG地下にあった「蠍座」で同じステージに立っていたということを信じる人の方がもはや少ないかも知れない。
聞くだけでは物足りない人たちにはディスコがあった。歌舞伎町の「ベビーグランド」や東口の「プレイメイト」、「ジ・アザー」や「チェック」。70年代後半の映画「サタデイナイトフィーバー」に最も敏感に反応していた街が新宿だった。
コンサート会場ということで言えば、新宿厚生年金会館がある。あそこでコンサートが出来れば一流と言うお墨付きの会館。70年代以降に登場してきた人で、あのステージに立ってない人を探す方が難しいだろう。井上陽水の「もどり道」など、何枚もの歴史的なライブアルバムが生まれている。

80年代以降の新宿と切っても切り離せないのがロックである。
それも喫茶店ではない。
ライブハウスという新しい空間。聞き手と送り手が同じ空間で出会う。
その走りとなったのが、西口の「ロフト」だった。76年10月にオープンして以来、30年余り。新宿厚生年金会館がそうであるようにあのステージを知らないロック・ミュージシャンはいないだろう。BOΦWYやスピッツ、ラルク・アン・シエルなど、ここから巣立っていった人は数限りない。
ポップスというジャンルも交えれば、中央口の「ルイード」があった。佐野元春、シャネルズ、山下久美子、尾崎豊..。
80年代伝説発祥の地は新宿である。
日本のコンサートの有り様を変えたのは88年にオープンした「日清パワーステーション」だった。歌舞伎町の奥、日清食品の本社の地下に作られた”ロックン・レストラン”。食事も出来るライブハウスは画期的だった。
98年の閉館まで丸10年。LUNASEAやMr.Childrenの初登場は衝撃だった。90年代の音楽シーンは“パワステ”なくしては語れない。桑田佳祐や小田和正などの超大物が深夜にシークレット・ギグを行ったこともあった。

音楽の街、新宿――。
ただ、今はどうなのだろうという寂しさも拭えない。
都庁のある街として年々整備され、より清潔になって行く一方で、新しい音楽を生み出す文化的な活力が感じられなくなっているのは僕だけだろうか。
それとも、新宿の街は、もう音楽を必要としなくなっているのだろうか。


田家秀樹

田家秀樹 (たけ・ひでき)
1946年、千葉県生まれ。タウン誌「新宿プレイマップ」編集者を皮切りに放送作家、雑誌編集長を経て音楽評論家・ノンフィクション作家・音楽番組パーソナリティとして活躍中。著書に「小説・吉田拓郎 いつも見ていた広島」(小学館)など。
>>田家秀樹ホームページ
>>田家秀樹ブログ・新・猫の散歩
>>著作一覧

2008年09月04日

若松孝二 インタビュー

映画監督としての自分の原点は、やっぱり新宿という町にあります。
その象徴が、蠍座であり、『天使の恍惚』であり。『天使の恍惚』は、新宿の交番テロのシーンなんかに、商店街が上映反対と騒いで、封切り一日でだめになっちゃったけれども。今回の新作『実録・連合赤軍』の封切りも、そういう意味で、どうしても新宿にこだわりたかった。それも、シネコンじゃなくて、町中の普通の映画館で公開して、たくさんのお客さんを路上まであふれさせたかったんですよ。その夢が、今年の3月にテアトル新宿で実現しました。新宿は、僕の映画を見に来てくれるお客さん、僕と似たところのあるようなお客さんたちが集まってくる町だと思ってる。
ゴールデン街や思い出横町なんかが、今でも残っているんだからね。(談)


新宿というのは、お世辞でもなんでもなく紀伊國屋なんだよ。今だとアルタもあるけど、当時は待ち合わせって言ったら紀伊國屋しかなかった。西口なんて小便横町ぐらいしかなかったからね。

田辺茂一さんには、何故かかわいがってもらって、よく銀座に連れて行かれましたよ。馴染みの原宿の寿司屋なんかにもね。大島さんなんかより、親しかったんじゃないか。ホントは、俺の映画を隠れて見ていたんじゃない(笑)。もともとは、銀座の同じクラブで飲んでいた時に会った。一九六三~四年だと思うけど、監督になったころはよく会社に連れて行かれたからそのころだね。当時は紀伊國屋もそんなに大きくなかった。
それで、サンフランシスコに紀伊國屋ができるというんで、招待するからアメリカ行かないか、って言ってくれて、今は入れないけど、あの当時は平気で行けたから、色んな作家連中と銀座のママさんで飛行機を貸し切り状態にして行ったんだよ。
吉岡康弘も一緒に行って、彼がカメラ廻していて、俺も結構撮ったんじゃないか? そんな感じだから、田辺さんとは、新宿でも俺達が飲んでいるところに顔出したりしてたからよく会ってた。普段は猫みたいにおとなしいのに、ウィスキーを口に入れるか入れないかで変わっちゃって、それがホント面白いんだよ。

俺にとって、新宿は差別しない街だと思っていて、田舎から出てこようが、どっから出てこようが、インテリであろうがなかろうが、下駄はいても草履はいててもね。かつてはそれが浅草だった。それが、今の新宿の歴史じゃないのかな。もちろん、蠍座にせよ、ユニコンにせよ色々挙げればあるけれど、象徴的に言えば、紀伊國屋前で待ち合わせして、そこからそれぞれの場所に出陣するって感じなんだろうな。(談/「ifeel 読書風景」二〇〇五年冬号より転載)


若松孝二

若松孝二 (わかまつ・こうじ)
1936年、宮城県生まれ。映画監督。現役としては日本で最も多作な監督の一人。最新作『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』は、第58回ベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画賞、国際芸術映画評論連盟賞を受賞。
>>作品一覧

2008年09月03日

書店の中にある劇場、紀伊國屋ホールを知る5つのポイント

談 : 紀伊國屋ホール/サザンシアター総支配人・金子和一郎
紀伊國屋ホール前支配人・鈴木由美子

1) 紀伊國屋ホールの誕生と紀伊國屋演劇賞の創設

紀伊國屋ビル

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年。前川國男の設計で新築された紀伊國屋ビル(地上9階・地下2階)の4階に、紀伊國屋ホールは誕生した。「ある株主からはとんでもないと言われ」(金子)ながらも書店の中に劇場をつくった創業者・田辺茂一の、型破りな文化人としての一面が窺える。ホール創設の三年後、1966年、経済的に苦しい新劇の振興に貢献したいという田辺の意向により、紀伊國屋演劇賞(団体賞と個人賞があり、毎年12月中旬に発表)が創設され、2007年に第42回を迎える。

2) 新劇の甲子園

当時の新劇界は、'63年に芥川比呂志、岸田今日子ら中堅・若手29名が文学座を脱退して福田恆存を中心に「劇団雲」を結成、'64年には三島由紀夫、賀原夏子、松浦竹夫らが脱退して「劇団NLT」を結成、さらに'68年に三島、松浦らが「劇団浪漫劇場」を旗揚げするなど、地殻変動を迎えていた。これらの動きは、「状況劇場」の唐十郎、「天井桟敷」の寺山修司、「早稲田小劇場」の鈴木忠志、「黒テント」の佐藤信らアングラ四天王をはじめとする、'60年代後半~'70年代半ばにかけての小劇場運動の活発化につながる。
戦後、文学座・俳優座・劇団民藝を中心とした新劇は、三越劇場(日本橋)、東横ホールのちの東横劇場(渋谷)、俳優座劇場(六本木)、砂防会館ホール(永田町)、毎日ホール(有楽町)、初代の第一生命ホール(有楽町)などで上演されてきた。紀伊國屋ホールが登場すると、新劇公演が紀伊國屋ホールに集中し、新宿も演劇の発信地となった。後に井上ひさし氏が「新劇の甲子園」と評したが、つかこうへい事務所、夢の遊眠社、第三舞台など多くの若手劇団が、紀伊國屋ホールでの公演を機にメジャーへの進出を果たしてきた。2003年には、「開場以来、多くの若い演劇人に表現の場を与え、日本の演劇や落語などの芸能を地道に育ててきた功績」に対し、第51回菊池寛賞を受賞した。

3) 三つの転機

開場の年は、集客を期待した名画鑑賞会、ビリー・ワイルダー監督の「翼よ!あれが巴里の灯だ」も当たらず、試行錯誤の連続だったが、翌'65年の文学座「怒りをこめてふり返れ」(ジョン・オズボーン作/木村光一演出)と劇団NLT「サド侯爵婦人」(三島由紀夫作/松浦竹夫演出)の二作は若者の人気を博して満員となり、新劇中心という紀伊國屋ホールの方向性が定まることとなった。
二つ目の転機は、'76年のつかこうへい作・演出「熱海殺人事件」。青山のVAN99ホールでつかこうへい事務所の芝居を観た金子がつかに声をかけ、「熱海殺人事件」紀伊國屋ホール上演が実現。以降'82年まで毎年、紀伊國屋ホールでつかの芝居が上演され、いずれも爆発的なヒットを収めた。鴻上尚史、いのうえひでのり、横内謙介マキノノゾミなど、つかの影響を受けた演劇人は多い。
三つ目の転機は、'84年のこまつ座旗揚げ公演「頭痛肩こり樋口一葉」(井上ひさし作/木村光一演出)。成熟した芝居は客層を大きく広げた。

4) 紀伊國屋ホールの特徴

紀伊國屋ホール

紀伊國屋ビルを設計した前川國男が紀伊國屋ホールもデザインし、舞台機構は伊藤熹朔が監修した。天井が高いのが特長で、鴻上氏に好まれ、伝説の第三舞台「朝日のような夕日をつれて」は'85年、'87年、'91年とすべて紀伊國屋ホールで上演された。舞台機構の狭さがかえって密度の濃い芝居をうむ、と好む演出家も多い。余談ながら、紀伊國屋書店新宿本店・新宿南店では戯曲を幅広く揃えており、劇団関係者に重宝されている。

5) 観に行くことが仕事

「観ること」も紀伊國屋ホールスタッフの重要な仕事だ。年間平均150本。ある時期、総支配人・金子の年間観劇本数は240本を超えていた。これはと思う若手劇団に紀伊國屋ホールでの公演を勧めることもある。'80年代、金子は大隈講堂裏のテントで鴻上尚史の芝居を観てイキのいい劇団と確信し(紀伊國屋ホール初演は'85年「朝日のような夕日をつれて」)、鈴木は駒場の劇場で観た野田秀樹の芝居に魅了され、紀伊國屋ホールでの上演に向けて上司を説得しようとレポートを書いた(紀伊國屋ホール初演は'81年「少年狩り」)という。

劇団数が急増し、誰にでも芝居ができる時代になった。劇場、特に近年は公立の劇場が増えている。制作をしない貸館としての紀伊國屋ホールはどうあるべきか?
「今後も、“自分たちの劇場で自分たちの観たい芝居を上演する”ことをポリシーとして、スタッフ一同、できるだけ多く劇場に足を運ぶと共に、紀伊國屋ホールでの公演に際してはできる限り劇団の要望に応えていきたい」と金子、鈴木のふたりは語った。

>>紀伊國屋ホール公演スケジュール

横内謙介 エッセイ

約30年前、先輩に連れられてぎっしりとお客が詰まった通路に体育座りして、つかこうへい事務所の「熱海殺人事件」を観た。当時、厚木の高校生だった私にとって、放課後に詰め襟姿のまま小田急に乗って大きな河を二つ越え、新宿に行くこと自体が決死の大冒険であった。その上に時代を代表する大傑作の最も盛り上がっていた現場を体験したのだから、それで人生が変わったのも当然だろう。
その衝撃体験から10年ほど経った1987年の春、私の劇団(当時・善人会議)が下北沢スズナリから、紀伊國屋ホールに初進出した。ホールが若手劇団の登竜門と言われていた頃だ。嬉しいよりも緊張がまさり、無我夢中で公演をやり遂げた。
その公演のバラシの後、ひとり裸舞台に立ち、誰もいない客席に向かって熱海殺人事件の木村伝兵衛のセリフを言ってみた。その時、はじめて憧れの劇場でついに公演を打ったのだ、という喜びが私の胸に満ちた。


横内謙介

横内謙介 (よこうち・けんすけ)
1961年、東京生まれ。劇作家・演出家・扉座主宰。
トニセン<V6>の舞台や、スーパー歌舞伎等に幅広く作品を提供。近年、愛・地球博『地球タイヘン大講演会』脚本・演出、'06年フジテレビ系ドラマ『ダンドリ。』脚本等、演劇以外にも活動の場を広げている。
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2008年09月01日

マキノノゾミ 「思い出。少々無法な。」

学生の頃、京都から窮屈な夜行バスに乗って、何度も紀伊国屋ホールに来ました。つかこうへい事務所の公演を、朝一番から当日券に並んで観るためです。もう時効だと思うので書きますが、観るだけでなく、客席でこっそりとカセットテープを回したりもしました。当時はまだ舞台のDVDやビデオテープなどなかったとはいえ、無法者の所業です。
あれは82年の、最後の『蒲田行進曲』二ヶ月ロングラン公演の時でした。当日券の席が、好運なことに、張り出し舞台の下手の最前列でした。かぶりつきです。手を伸ばせば舞台に手が届きそうです。そこで、わたしたちは(あろうことか!)、舞台の上にレコーダーを置きました。もはや乱暴者の所業です。そこは、フットライトの陰になっている場所でしたが、同時に、根岸季衣さんがラストシーンで使う刀が仕込まれていた場所でもありました。クライマックスの場面で刀を取りにしゃがまれた時に、きっとそのレコーダーも根岸さんの目に入ったに違いありません。あの瞬間の「やべ!」という思いは、今でもはっきり覚えています。
その時のテープを、わたしたちは呆れるほど何度も繰り返して聴きました。そのおかげで、今こうして紀伊国屋ホールの舞台に立っているのだとも思うのです。張り出し舞台の下手の端に立つと、今でもちょっと感慨があります。


マキノノゾミ

マキノノゾミ
1959年、静岡県生まれ。劇団M.O.P.主宰。外部の舞台でも作・演出を手がけるなど幅広く活動中。2002年度後期 NHK連続テレビ小説「まんてん」脚本を担当。
2008年11月には紀伊國屋ホールにてマキノノゾミ三部作を上演する。
>>今週のマキノノゾミ本人
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2008年08月29日

鴻上尚史 「売店のおばちゃん」

紀伊國屋ホールのロビーの片隅に、売店がありました。一人のおばちゃんが(と言うのも失礼なのですが、でも僕たちは愛着を込めて、『売店のおばちゃん』と呼んでいました)が、飲み物を売っていました。

一坪のスペースもないような小さな売店でした。けれど、売店の壁一面には、びっしりといろんな芝居の『大入り袋』が貼られていました。僕はウーロン茶を注文して、おばちゃんがビンから紙コップに移しかえてくれている間に、いつも、その『大入り袋』の文字を猛烈な速度で読んでいました。袋に書かれた公演のタイトルは、そうそうたる伝説の名前がびっしりとありました。

『第三舞台』の公演の時も、僕はウーロン茶を買いました。その後、他の芝居を見に来た時も必ず寄りました。おばちゃんは、いつも、にこにこと「内緒だよ」と言いながら、50円、おまけしてくれました。

何百枚も貼られた『大入り袋』を見るたびに、僕は、「演劇の歴史」の中で公演をしているんだと実感したのです。


鴻上尚史 (photo: Yuki Sugiura)
photo: Yuki Sugiura

鴻上尚史 (こうかみ・しょうじ)
1958年、愛媛県生まれ。1981年に劇団「第三舞台」を結成。『朝日のような夕日を連れて』『天使は瞳を閉じて』『スナフキンの手紙』など、作・演出家として多彩な活動を展開。今年12月に紀伊國屋ホールで自身主宰の「虚構の劇団」第2回公演を予定。
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2008年08月27日

宇野亜喜良 インタビュー

1955年にぼくが上京したのは、知り合いの紹介で、恵比寿にあったカルピスの宣伝部に入るためでした。けど、一年近く待たされたかな。この浪人時代、コルゲン・コーワがカエルのシンボルマークのデザインを募集しているのを見つけて、応募したりしていました。それで特選をとったんだけど、もうひとりが和田誠さん。のちに一緒の仕事をするようになるんだから、不思議なものですね。

上京した翌年に売春防止法ができたので、いまのうちに赤線を見ておかないと……と出かけたのが「新宿」との付き合いのはじまりでした。原宿のセントラルアパートに事務所を構えた60年代中ごろには、「ナジャ」に遊びに行ったり、アートシアター新宿文化で寺山修司さん演出の「アダムとイブ―私の犯罪学」の舞台美術を手がけたり……と「新宿」との縁も深くなっていった。

あのころの新宿は混沌として、犯罪都市のようなんだけど、状況が違っても、それぞれがつながって仲間や大家族のようになる……不思議な街でしたね。(談)


宇野亜喜良

宇野亜喜良 (うの・あきら)
1934年、愛知県生まれ。デザイン・イラストレーション・舞台芸術の世界で活躍。著書に『上海異人娼館』(原作・寺山修司)、『美女と野獣』『エスカルゴの夜明け』(文・蜂飼耳)、(すべてアートン)、『サロメ』(文・蜂飼耳ほか、エクリ)、エッセイ集『薔薇の記憶』(東京書籍)など。
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2008年08月25日

四谷シモン インタビュー

新宿は、20代の頃から「自分の街」という自負がありました。
それ以前からきーよとか風月堂とかヨットなどのジャズ喫茶にはよく出入りしていたんです。コシノジュンコや金子國義と知り合ったもの新宿。
ある日、面白い芝居があるからということで、金子國義に連れられてピットインに出かけました。そうしたら、小太りのタコ入道みたいなヤツが「ちょっと頭にピンを打ってくれないかな」と言って、両手一杯のヘアピンを差し出してきました。やっとこういう変な人がいた! それが唐十郎との出会い。芝居もとてつもなく可笑しくて、まさに前代未聞。いっぺんにファンになり、いっぺんに友達になっちゃった。それから状況劇場の稽古場に遊びに行くようになって、芝居に出演するようにもなりました。ぼくの濃厚な時代のはじまりです。初めは『ジョンシルバー新宿恋しや夜鳴編』。その後ちょっとパリに行って、戻ってきてからは『由井正雪』。花園神社を追い出されて新宿西口公園で強行してテントを立てたら、状況劇場の主だった連中が逮捕されてしまった事件もありました。その時は田辺茂一氏の口添えをいただいて釈放されたんですよ。結局状況劇場には5年ほど在籍したのですが、ピットインや紅テントを通じて、瀧口修三さんや澁澤龍彦さん、土方巽さんらとのつながりができました。よく考えてみれば同時期に一斉にいろんな才能が芽吹いた不思議な時代ですね。熱くて、濃い時代。その、ぐつぐつ煮えたぎる時間の坩堝のなかにたまたまいたお陰でぼくの人生も決まったわけです。
ぼくはやっぱり、<表現>する運命だったんだと思います。そしてその表現の場が<新宿>だった。ただその運命に従って生きてきたという感じですね。唐十郎がヘアピンを差し出さなかったら、そのヘアピンがたかだか2、3本だったら、今の自分はありません。新宿という、台風の目のような文化的磁場力のなかで青春時代を過ごすことができて、ほんとうに幸せだったと思います。
その後30代になってからは人形づくりを教えるようになり、紀伊國屋画廊で展覧会をやるようになりました。それが27年間毎年続いているのも、不思議なご縁ですね。新宿本店のように、一等地にあって画廊やホールという文化的なものが備わっている場所というのはすごく大事。ひとも街もどんどん様変わりしていく中にも、新宿本店のように、昔のままの風景があるのはうれしいですね。(談)


四谷シモン

四谷シモン (よつや・しもん)
1944年、東京生まれ。1978年原宿に「エコール・ド・シモン」開校。2000年回顧展「四谷シモン人形愛」が全国を巡回。紀伊國屋書店画廊において、27回の教室展を開催。
著書に『四谷シモン――人形愛』(写真・篠山紀信、美術出版社)、『人形作家』(講談社)、『四谷シモン前編』(学習研究社)など。
>>人形愛/四谷シモン公式サイト
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2008年08月22日

唐十郎 「新夜よ」

夕立ちが来ると、新宿風月堂にとび込んで、その二階からコーヒーを注文する。二階はガランとしていて、そこで濡れた服を脱ぎ、ランニングシャツになる。晴れてきた頃合いにノコノコ出て、アートシアターの映画館の前に行き、観ようかどうしようかとためらい、やっぱり辞めて、もっと暗くなるまで、あちこちの横丁路地を歩き回り、しゃがんだりもする。その時の自分の顔を、ショーウィンドォやガラス窓に映して見ると、やや焼けっぱちで、せせら笑ったりしている。余りにも不甲斐なくて、その顔に向かって「ワァッ」と吠えたりした。

それは1960年代の頃の、新宿を歩いていた時の話だが、平成20年の夏になって、また新宿の路地を巡ってみたくなった。貧亡たらしさとは縁が無く、若やいだ、なんでもあり色の人々の、街々の中に立って、せせら笑う自分の顔を、ショーウィンドォに映そうとすると、鏡の壁はゆっくりと遠のいていく。代りに人々のお尻が前に出てきた。


唐十郎

唐十郎 (から・じゅうろう)
1940年、東京生まれ。作家・演出家・俳優。
1963年「劇団状況劇場」を旗揚げ、1967年新宿花園神社にて初めて紅テントを建て、『腰巻お仙』を上演。
2003年『泥人魚』で、作・演出・演技において、第38回紀伊國屋演劇賞個人賞、第7回鶴屋南北戯曲賞、第55回読売文学賞受賞。
2007年、自身と唐組を追った映画『シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録』(監督・大島新)が第17回日本映画批評家大賞ドキュメンタリー作品賞を受賞。
劇団唐組主宰・近畿大学教授。
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>>唐ファン(公認サイト)
>>西堂行人氏書評
  唐十郎『唐十郎-紅テント・ルネサンス!』
  扇田昭彦『唐十郎の劇世界』

2008年08月20日

秋山祐徳太子 エッセイ

50年代後半、私は美術学生であった。戦後の状況がそのまま残っているような復興に活気あふれる新宿、友人たちと帰りに立ち寄るのが風月堂で、広い店内には新鋭画家の絵がかけられ、あちらこちらで文学論や社会分析に熱気ある議論が響いていた。我々も芸術論に唸りをあげ、しかもここは何時間居ても文句を云われることもなかった。それに劇団の新人の女性たちがアルバイトでウェイトレスをしているので、何とも居心地が良かったのである。夜になれば、バラック建ての酒場で安い酒を飲んでは、議論のつづきをしたりして、若き青春の熱を発散していたものである。そのころ新宿には売春街があって、合法的な「赤線地帯」、非合法的な「青線地帯」と称されていた。それらも売春禁止法によって、まもなく廃止されてしまった。そして、「あの青線地帯」が新宿ゴールデン街となって生まれ変わり、文化発信の地ともいえるようないろいろな文化人たちが真夜中まで飲み歩いては、派手なケンカ騒ぎも日常で、60年代から70年代にかけては、新宿フォークゲリラやついにはデモ隊が新宿駅を占拠して機動隊との激しい攻防となり、「新宿騒乱罪」が発令され、過激の街というのが定着してしまった感がある。75年、79年には政治のポップアートをかかげて、東京都知事選に立候補した私も、新宿が拠点だった。ついた名前が夜の東京都知事だった。
あれから33年、今ではなんとあのポスターが国立の美術館に収集されている。昔は新宿での待ち合わせの場所は東口二幸が多かったが、二幸がなくなった後は紀伊國屋書店前にしている。新宿唯一の知的なところだから。新宿も安全な街になった。しかし、私の心の底では、血気あふれる街を期待している。


秋山祐徳太子 (あきやま・ゆうとくたいし)
1935年東京生まれ。美術家・ライカ同盟総督。
著書に『天然老人』(アスキー新書)、『ブリキ男』(晶文社)など。

秋山祐徳太子

>>R70 秋山祐徳太子氏の“過激な”天然老人生活
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2008年08月18日

赤瀬川原平 「文化と冒険」

新宿はいちばん出やすい町だ。若いころ中央線の武蔵小金井や阿佐ヶ谷というところにずっと住んでいたので、出るとしたらまず新宿。あのころ紀伊國屋書店は一階か二階の低い建物だった。若者のサロンみたいな喫茶店の風月堂があったし、新宿第一画廊や椿近代画廊も懐しい。はじめて上京したころは都電も走っていたし、駅からほど近くに赤線地帯もあったのだ。

歌舞伎町に映画街ができて、その一館に、何か複雑な通路を通って、何かにぶら下がったり飛び降りたりしながら忍び込んだ記憶がある。その冒険がジュールス・ダッシンのギャング映画「男の争い」みたいで、どきどきした。でも上映していたのは別の映画だったと思う。

それにこじつけるわけでもないが、新宿は文化的冒険の町だ。新宿からたくさんの冒険が生まれて出ていった。


赤瀬川原平

赤瀬川原平 (あかせがわ・げんぺい)
1937年、横浜生まれ。ポップアートの先駆的活動を展開し、のちイラストレーターに。『肌ざわり』(中央公論新人賞受賞)で作家活動も開始する。『父が消えた』で1981年に芥川賞、『雪野』で1983年に野間文芸新人賞受賞。近著に『昭和の玉手箱』(東京書籍)など。
>>著作一覧(尾辻克彦)
>>著作一覧(赤瀬川原平)
近代ナリコ氏書評:『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 岩波写真文庫再発見』