連続ブックフェア 「紀伊國屋書店と新宿」


Vol.1 「モダン都市文化」
2008年7月7日(月)~8月7日(木)
Vol.2 「〈熱き時代〉の新宿、新宿の〈いま〉」
2008年9月16日(火)~11月30日(日)
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2008年09月16日

本間健彦 「新宿プレイマップ」

あの時代の新宿は燃えていた。1960年代の新宿である。都市の歴史にも青春時代があるとすれば、あの頃の新宿はまさに青春期だったのだろう。

1972年当時の新宿地図
当時の新宿地図
(クリックすると拡大)
「新宿プレイマップ」34号
(1972年4月号)より

当時、新宿は<若者の街>と呼ばれていた。新宿が青春時代だったから若者が集まったのか、若者が集まったから新宿の街が青春期に突入したのか、そこのあたりの相関関係は私にはよくわからない。ただ時に、「海も、スキー場もないのに、なぜ、新宿にはこんなに大勢の若者が集まるのだろう?」と、ぼんやり考えたものだ。
私自身も、学生の頃から新宿にはよく出かけていた。50年代末から60年代初期頃で、主たる目的は、その頃仲間うちでイキがって呼んでいた「ダンモの店」――モダンジャズのレコードを専門に聴けるジャズ喫茶――に出かけるためだった。ちょっと解説が必要だろう。当時の平均的な学生の小遣いでは最新輸入版レコードを手に入れることがなかなか大変だったこと。ましてやジャズ喫茶の音響設備のような高性能なアンプやスピーカーを、安アパートの四畳半などに導入するなどということはほとんど実現不可能な夢だったからだ。それが当時、ジャズ喫茶が都内の主だった盛り場や地方の中心都市などに輩出した背景なのだ。と言っても、一つの盛り場にせいぜい一~二軒に過ぎなかった。ところが、新宿には最盛時ジャズ喫茶が10軒位あったのだ。
私のよく通った店は、靖国通り厚生年金会館対面の新宿二丁目特飲街に入る角地にあった「きーよ」、歌舞伎町に入る側の都電通りと呼ばれていた靖国通り沿いにあった「木馬」、要町の寄席末広亭近くにあった「ヨット」、武蔵野館前の路地を入ったと所にあった「汀」という店だった。ジャズ喫茶は穴倉のような店が多かった。客は滝に打たれる修行僧のように大音量で流されるジャズに打たれていた。コーヒー一杯で何時間も・・・。
「きーよ」は終夜営業のジャズ喫茶で、一階奥のカウンター席には常連客や立川基地からやって来る黒人兵がたむろしていたが、二階席はダンモ店では珍しい大きな窓のある開放的な店だった。私は二階の窓際のテーブルに陣取り、ジャズ・メッセンジャーズの<モーニン>という曲などを聴きながら、夜通し走り続ける車の流れや怪しい二丁目特飲街の女たちや酔いどれ男たちのどうって事もない街路芝居を眺めて夜を明かし、始発電車が走り出す時刻に店を出るといった利用の仕方もしていた。この種の店が効率の悪い商売であることは歴然としていた。それを容認していたのは、ジャズ喫茶の主人達が変わり者揃いで、客達以上にジャズ狂であり、商売というより、それぞれ自分好みの、こだわったジャズ喫茶であり続けることに情熱をかたむけるという経営者だったからだろう。そんな店がその頃の新宿には多かった。そんな点なども、それから数年後に、新宿が、<若者の街>として脚光を浴びるようになる下地だったのであろう。

「新宿プレイマップ」創刊号(1969年7月号)表紙
「新宿プレイマップ」創刊号
(1969年7月号)表紙

新宿のタウン誌『新宿プレイマップ』は、1969年6月に創刊された。雑誌発行の慣習で月号は一月先の7月号だったが。発行元は、新都心新宿PR委員会(委員長田辺茂一)というところで、新宿の商店街・百貨店・有力企業等によって前年に結成された団体であった。この新団体は、団体名に一目瞭然のように「新都心新宿」を目指すという趣旨で結成されている。「新都心新宿」の目玉は、西口にあった旧淀橋浄水場跡の広大な敷地にニューヨーク・マンハッタン地区の摩天楼街みたいな超高層ビルの林立する新しい街を造るという副都心計画だった。それまで銀座の後塵を拝してきた新宿の商業資本家が「好機到来!」と、この開発計画に色めき立ったことは言うまでもない。委員会結成の仕掛け人は、四谷にあった文化放送開発課のスタッフだった。仕掛け人の企画書には、まず手始めの仕事として雑誌の発行が盛り込まれていて、『新宿プレイマップ』という誌名も提案されていた。
また、この新宿で発行する新雑誌の編集を請け負ってくれないかという話が、文化放送を通して『話の特集』の矢崎編集長に持ちかけられていた。『話の特集』に白羽の矢が立ったのは、同誌が1965年12月の創刊当初から斬新な誌面づくりで脚光を浴びていたからだろう。だが、評判の良さとは裏腹に経営は思わしくなく、その頃、『話の特集』は創刊から数えると三人目の経営者にギブ・アップ宣言を受け、新経営者を探すか、廃刊か、それとも独立経営の道を模索するかという岐路に立たされており、矢崎編集長はそれどころではなかったのだ。で、「きみ、やってみる気ある?」と、編集部員のひとりだった私に話を振ったのだろう。
その話に私は二つ返事で乗った。「舞台が新宿なら面白い!」と直感的にひらめくものを感じたからだった。が、不安がないわけではなかった。たとえ新宿の街の雑誌であるにしても、単なる新宿のPR誌を作れということなら、やっぱり辞退するしかないかな、とも内心腹を決めていたからだ。「いや、それはない。新宿のイメージアップを図れるセンスのいい街の雑誌を創って欲しい。そういうことで『話の特集』に編集制作の要請があったのだから」と、矢崎編集長は強調した。「ならば、やってみる手だ」と話に乗ったのだった。

60年代中頃から末にかけての新宿は、アングラ演劇、ゴーゴーダンス、ジャズ、ロック、フォーク等の若者音楽、フーテン風俗、ヒッピームーブメントなど、サブカルチャー(先端的台頭文化)の坩堝であり、若者文化の一斉蜂起した街として知られていた。ところが、その末年には、新宿の状況が大きく変わろうとしていた。それは次に挙げる当時の代表的な<新宿事件>の顛末に象徴的に認められるだろう。

★ 1968年6月 状況劇場の花園神社での赤テント公演、追放される。座長唐十郎の捨て台詞に曰く<新宿見たけりゃ今見ておきゃれ、じきに新宿原になる。>
★ 1968年10月21日 <国際反戦デー>の集会に参加した反日共系全学連各派による新宿デモに騒乱罪適用。街の“自警団”も組織され大活躍。
★ 1969年5月 新宿西口広場で毎週末行われていたべ平連主宰のフォーク集会が機動隊の出動により解散を命じられる。5月、「西口広場」は「西口通路」と改称。

では新宿は何処へ向かおうとしていたのか。言うまでもなく<新都心新宿>を目指し驀進しようとしていたのである。それは、フォーク集会の若者が追われ、<広場>が<通路>に変わってしまった元新宿西口広場のことなど何処吹く風という勢いで、すぐ目の前の副都心計画地に一番手として建設が着手された京王プラザホテルの巨大な鉄骨の骨組みが毎日急ピッチで天に向かって伸びていく光景を眺めれば、誰の目にも明らかであった。
『新宿プレイマップ』の創刊された1969年6月という時は、そんな時代・そういう時節であったことを、ご記憶いただけたら、と思う。紙数がないので、時代考証はそのへんにして、創刊までの楽屋裏を簡単にご紹介しておこう。

私は、その前年暮に『話の特集』編集室を離れ、年明けには雑誌発行元の新都心新宿PR委員会に入った。入社という感じではなかった。なぜなら、その時にはまだ事務所も編集室もなく、スタッフもおらず、一応編集長という肩書きの私ひとりが、四谷の文化放送の廊下の片隅に机を与えられ、いるだけという状態だったからだ。あの伝説の、『新宿プレイマップ』はこういうところからの出発したのだった。一般的には極めて惨めなスタートだったわけだが、私自身は創刊号の編集企画と準備に孤軍奮闘して没頭していたので、そんなことにはあまり気にもならなかった。そんなことより新都心を目指して立ち上げたはずの団体の実体のない空洞ぶりや、資金の目途が立たないためにいつになっても雑誌発行の運びにならず、待ちぼうけを喰わされていることに苛立ち、これはとんだところへ来てしまったな、と後悔したのを覚えている。
4月に入り、新宿大通りの外れ、二丁目の特飲街に入る角地(先にふれたジャズ喫茶「きーよ」のあった反対側だった)の時計屋の二階に事務所兼編集室が決まり、初めて事務局長のY氏にも紹介された。このY氏がいわば私の直接の上司だった。また、新卒の田家秀樹君(現在、音楽分野のライターとして活躍)が入社し、『新宿プレイマップ』第一号の編集部員になった。それともう一人若い女性が事務員として入社した。私を含めた以上四人が創刊号発行前後の体制だった。こうしてようやく6月創刊の緒に辿りついたのである。

『新宿プレイマップ』とは、どんな雑誌だったのですか?と訊ねられても、一口で説明するのは難しい。で、創刊号の主要記事がどんなものだったか、そのことについて簡単に紹介することで説明に替えたいと思う。
目玉の一本は、野坂昭如と矢崎泰久の「焼け跡派の“じゅく”望郷」と題した対談で、戦後の闇市時代の新宿で野坂青年が女をたぶらかしたり、かっぱらいや飲み逃げをしていたなどいう無頼の青春を語った痛快な記事だった。だが、この対談を見学したいと立ち会っていた新都心新宿PR委員会の委員の一人の某氏は、憤然とした面持ちで中座すると、私を別室に呼び出し、「あんな酷い話を雑誌に載せるのか。話題を換えさせなさい」と激怒して帰ってしまった。けれども私は、話題を換えて欲しいとも要望しなかったし、対談の内容はダメだしのでた部分もノーカットで掲載した。
二本目は、田中小実昌の「星のきれいな新宿」と題した短編小説で、「ある夜、ぼくはこの路地に迷いこんだ。さがして見つかる路地ではない。気がついたら、この路地にいた。(中略)入口のガラス戸にはガラスはなく、ベニヤがうちつけてあって、なかは見えない。だけど、なかから、酒を飲んでいるひとたちの声がきこえた。ぼくはその戸をあけ、たいへんおセンチな言い方だが、ぼくの新宿にめぐりあった。」といった独特の文体の好短編だったが、やはり焼け跡闇市時代の新宿を舞台にした物語だった。
三本目は、編集長の私が担当した「アソビ人間研究」と題したインタビュー記事で、“三文役者”として人気のあった殿山泰司がゲストだった。たしか二丁目の「ユニコン」という酒場でのインタビューだったと記憶するが、殿山泰司は「女には言葉は通じない。論理的に説得しようとしても、かえって話がこじれるだけ。別れの理由を女に聞かれたら、“お前のモノが悪いからだ”の一言に限る」といった調子の天衣無縫のタイちゃん説法を語ってくれ、滅法面白い記事に仕上がった。

創刊号は読者や取り上げてくれたマスコミなどでは大変評判が良かったが、版元のPR委員会の合評会の席で、編集長の私はこっぴどく吊るし上げをくった。特に婦人専門店系の委員からは「こんな内容の雑誌は恥かしくてお客様に渡せない」と厳しい叱声を受けた。創刊号から危うく飛びそうだった編集長のクビが免れたのは、「でも、うちではとてもよく売れているんだよ。街のPR誌が書店で売れるなんて凄いことなんじゃないかな」という田辺茂一委員長からの援護射撃があったからだった。紆余曲折はあったにせよ、編集長の私のクビが飛ばず、『新宿プレイマップ』の発行が三年近くまで継続できたのは、田辺委員長の存在-――紀伊国屋書店の創立経営者であり、新宿を代表する文化人であり、そして大きな自由人であった田辺さんの無形の擁護があったからなのである。
とはいえ、号を追うごとに版元側委員からの検閲の目は次第にきびしくなった。写真グラビヤやイラスト・ルポの内容にクレームが付けられ、ボツになったものもあった。『新宿プレイマップ』は、新宿のPR誌だったのだから、そのような検閲や弾圧が編集部に下されるのは当然の話だった。けれども、私たち編集部は、<誌上広場を創ろう!>という旗は決して降ろさなかった。私は新人編集部員の田家君に「遺書を書くつもりで、毎号、一冊、一冊創って行こう!」と檄を飛ばしていたらしい。それは確信犯としての覚悟が常に求められていたからなのだろう。
五木寛之の『金沢望郷』という小説に、金沢でタウン誌をやっている主人公が「かつて一時期、私たちを夢中にさせたのは、<新宿プレイマップ>だった。1960年代の幕が降りる頃に登場したこのメディアによって、<タウン誌>という言葉がひろく市民権をもつようになった」と回想するシーンがある。たしかに、<タウン誌>という呼び名をひろめたのは、『新宿プレイマップ』であった。それは前述したように<誌上広場>を、街のPR誌という足枷の中で実現したかったからのだ。そのために私たちは、新宿の商業資本家たちが“副都心”を“新都心”とすり替えたように、街のPR誌を<タウン誌>という名のジャーナリズムの未開拓領域のニューメディアとして世間にアピールしてきたのだった。
そういう姿勢に賛同してくれたのか。あるいは新宿の強い磁力ゆえだったのか。『新宿プレイマップ』編集部には、「編集に参加したい」という若者が大勢集まって来た。ほとんどは正規の編集部員として雇われたわけではなく、いわば自主参加だった。個性的で、自己主張が強く、扱い辛い連中がすくなくなかったけれど、みんなそれぞれいい仕事をしてくれた。新入りの街のPR誌にもかかわらず、たくさんの新鋭の作家・写真家・イラストレーターたちの応援・協力も得られた。これもひとえに新宿の、街の雑誌であったがゆえの恩恵だったのだろう。

『新宿プレイマップ』は創刊一周年を迎えた1970年7月号で「満一歳記念特集号」を組んだ。私は編集後記に「“満一歳”を迎えることが、これほど大変なことだとは、不覚にも想像しておりませんでした」と記している。今では懐かしい思い出のひとつだけれど、あの時はやっぱりしんどかったのだろう。この特集号では寄稿者・読者からたくさんのメッセージが寄せられ、特集号の記事の一つとして掲載しているが、その中からSF作家山野浩一の一文を紹介しておきたい。

都市というものは機能的に発展するほど人間を疎外するものであり、もともとそういうものに“人間的”なものを求めること自体欺瞞である。新宿がそうした欺瞞を脱し、高層ビルの立ち並ぶ“本来の”都市の姿になりつつあることは大いに喜ばしい。今後更に人間疎外の街として発展してほしいと思う。
私は新宿へ疎外されに行き、大いに復讐心を燃え立たせ、いつか訪れる廃墟を想像しながら楽しみたいと思う。新宿万歳!
付け加えるなら『新宿プレイマップ』は都市としての新宿へのレジスタンスを貫くべきである。新宿の街が出している雑誌だけに街の発展と同じ方向へ向うのでは意味がない。私が自己存在へのレジスタンスとして小説を書くのと同じようなものであるべきである。新宿プレイマップ万歳!

さすがはSF作家の優れた遠視力というべきか! 山野さんの都市観は今もそのまま通用するものだろう。

「新宿プレイマップ」34号(1972年4月号)表紙
「新宿プレイマップ」34号
(1972年4月号)表紙

『新宿プレイマップ』は、山野さんに代表された声に応えるべく、都市としての新宿へのレジスタンスを貫き、よく健闘したという自負はあるが、やはり力不足だったということも否めない。その結果が1972年4月号をもっての廃刊であった。
想えば、『新宿プレイマップ』は、1969年5月新宿西口広場のフォーク集会が機動隊により駆逐され、「広場」が「通路」と改称された、その直後に誕生し、70年代初頭頃から「新宿はもう面白くないよ」と新宿離れを始めた若者たちが吉祥寺や下北沢に流れて行った頃に終幕したことになる。そんな時代・そんな状況の新宿での2年10ヵ月だった。私たちはもっと早期の廃刊を覚悟していたのだが、新宿が燃えていた時代の若者文化の余熱が通巻34号までの刊行をバックアップしてくれたのだと思う。

『新宿プレイマップ』とは、何だったのか?
そんな質問を受けても、老兵は沈黙するしかない。
バックナンバーをぱらぱらとめくっていたら、筒井康隆の「新宿博物誌」と題したエッセイに、『新宿プレイマップ』について次のような定義をしているのに再会した。筒井さんらしい諧謔心溢れた面白い評価なので紹介しておこう。

しんじゅくぷれいまっぷ[新宿Play Map]
 遊び半分で新宿の街を掃除している、巨大なゾーキン。

めくるめくような日々だった。辛いこと、悲しいこと、悔しいことも沢山あったけれど、私たちはツアーライブでもやってる感じで雑誌作りを愉しんで来た。毎日が移動祝祭日みたいだった。あの頃は、<新宿の青春時代>だったのだろう。

新宿関連推薦本

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