連続ブックフェア 「紀伊國屋書店と新宿」


Vol.1 「モダン都市文化」
2008年7月7日(月)~8月7日(木)
Vol.2 「〈熱き時代〉の新宿、新宿の〈いま〉」
2008年9月16日(火)~11月30日(日)
(会期は売場によって異なります)
紀伊國屋書店 新宿本店 3階・5階・6階
紀伊國屋書店 新宿南店 3階・5階・6階

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2008年08月29日

鴻上尚史 「売店のおばちゃん」

紀伊國屋ホールのロビーの片隅に、売店がありました。一人のおばちゃんが(と言うのも失礼なのですが、でも僕たちは愛着を込めて、『売店のおばちゃん』と呼んでいました)が、飲み物を売っていました。

一坪のスペースもないような小さな売店でした。けれど、売店の壁一面には、びっしりといろんな芝居の『大入り袋』が貼られていました。僕はウーロン茶を注文して、おばちゃんがビンから紙コップに移しかえてくれている間に、いつも、その『大入り袋』の文字を猛烈な速度で読んでいました。袋に書かれた公演のタイトルは、そうそうたる伝説の名前がびっしりとありました。

『第三舞台』の公演の時も、僕はウーロン茶を買いました。その後、他の芝居を見に来た時も必ず寄りました。おばちゃんは、いつも、にこにこと「内緒だよ」と言いながら、50円、おまけしてくれました。

何百枚も貼られた『大入り袋』を見るたびに、僕は、「演劇の歴史」の中で公演をしているんだと実感したのです。


鴻上尚史 (photo: Yuki Sugiura)
photo: Yuki Sugiura

鴻上尚史 (こうかみ・しょうじ)
1958年、愛媛県生まれ。1981年に劇団「第三舞台」を結成。『朝日のような夕日を連れて』『天使は瞳を閉じて』『スナフキンの手紙』など、作・演出家として多彩な活動を展開。今年12月に紀伊國屋ホールで自身主宰の「虚構の劇団」第2回公演を予定。
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2008年08月27日

宇野亜喜良 インタビュー

1955年にぼくが上京したのは、知り合いの紹介で、恵比寿にあったカルピスの宣伝部に入るためでした。けど、一年近く待たされたかな。この浪人時代、コルゲン・コーワがカエルのシンボルマークのデザインを募集しているのを見つけて、応募したりしていました。それで特選をとったんだけど、もうひとりが和田誠さん。のちに一緒の仕事をするようになるんだから、不思議なものですね。

上京した翌年に売春防止法ができたので、いまのうちに赤線を見ておかないと……と出かけたのが「新宿」との付き合いのはじまりでした。原宿のセントラルアパートに事務所を構えた60年代中ごろには、「ナジャ」に遊びに行ったり、アートシアター新宿文化で寺山修司さん演出の「アダムとイブ―私の犯罪学」の舞台美術を手がけたり……と「新宿」との縁も深くなっていった。

あのころの新宿は混沌として、犯罪都市のようなんだけど、状況が違っても、それぞれがつながって仲間や大家族のようになる……不思議な街でしたね。(談)


宇野亜喜良

宇野亜喜良 (うの・あきら)
1934年、愛知県生まれ。デザイン・イラストレーション・舞台芸術の世界で活躍。著書に『上海異人娼館』(原作・寺山修司)、『美女と野獣』『エスカルゴの夜明け』(文・蜂飼耳)、(すべてアートン)、『サロメ』(文・蜂飼耳ほか、エクリ)、エッセイ集『薔薇の記憶』(東京書籍)など。
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2008年08月25日

四谷シモン インタビュー

新宿は、20代の頃から「自分の街」という自負がありました。
それ以前からきーよとか風月堂とかヨットなどのジャズ喫茶にはよく出入りしていたんです。コシノジュンコや金子國義と知り合ったもの新宿。
ある日、面白い芝居があるからということで、金子國義に連れられてピットインに出かけました。そうしたら、小太りのタコ入道みたいなヤツが「ちょっと頭にピンを打ってくれないかな」と言って、両手一杯のヘアピンを差し出してきました。やっとこういう変な人がいた! それが唐十郎との出会い。芝居もとてつもなく可笑しくて、まさに前代未聞。いっぺんにファンになり、いっぺんに友達になっちゃった。それから状況劇場の稽古場に遊びに行くようになって、芝居に出演するようにもなりました。ぼくの濃厚な時代のはじまりです。初めは『ジョンシルバー新宿恋しや夜鳴編』。その後ちょっとパリに行って、戻ってきてからは『由井正雪』。花園神社を追い出されて新宿西口公園で強行してテントを立てたら、状況劇場の主だった連中が逮捕されてしまった事件もありました。その時は田辺茂一氏の口添えをいただいて釈放されたんですよ。結局状況劇場には5年ほど在籍したのですが、ピットインや紅テントを通じて、瀧口修三さんや澁澤龍彦さん、土方巽さんらとのつながりができました。よく考えてみれば同時期に一斉にいろんな才能が芽吹いた不思議な時代ですね。熱くて、濃い時代。その、ぐつぐつ煮えたぎる時間の坩堝のなかにたまたまいたお陰でぼくの人生も決まったわけです。
ぼくはやっぱり、<表現>する運命だったんだと思います。そしてその表現の場が<新宿>だった。ただその運命に従って生きてきたという感じですね。唐十郎がヘアピンを差し出さなかったら、そのヘアピンがたかだか2、3本だったら、今の自分はありません。新宿という、台風の目のような文化的磁場力のなかで青春時代を過ごすことができて、ほんとうに幸せだったと思います。
その後30代になってからは人形づくりを教えるようになり、紀伊國屋画廊で展覧会をやるようになりました。それが27年間毎年続いているのも、不思議なご縁ですね。新宿本店のように、一等地にあって画廊やホールという文化的なものが備わっている場所というのはすごく大事。ひとも街もどんどん様変わりしていく中にも、新宿本店のように、昔のままの風景があるのはうれしいですね。(談)


四谷シモン

四谷シモン (よつや・しもん)
1944年、東京生まれ。1978年原宿に「エコール・ド・シモン」開校。2000年回顧展「四谷シモン人形愛」が全国を巡回。紀伊國屋書店画廊において、27回の教室展を開催。
著書に『四谷シモン――人形愛』(写真・篠山紀信、美術出版社)、『人形作家』(講談社)、『四谷シモン前編』(学習研究社)など。
>>人形愛/四谷シモン公式サイト
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2008年08月22日

唐十郎 「新夜よ」

夕立ちが来ると、新宿風月堂にとび込んで、その二階からコーヒーを注文する。二階はガランとしていて、そこで濡れた服を脱ぎ、ランニングシャツになる。晴れてきた頃合いにノコノコ出て、アートシアターの映画館の前に行き、観ようかどうしようかとためらい、やっぱり辞めて、もっと暗くなるまで、あちこちの横丁路地を歩き回り、しゃがんだりもする。その時の自分の顔を、ショーウィンドォやガラス窓に映して見ると、やや焼けっぱちで、せせら笑ったりしている。余りにも不甲斐なくて、その顔に向かって「ワァッ」と吠えたりした。

それは1960年代の頃の、新宿を歩いていた時の話だが、平成20年の夏になって、また新宿の路地を巡ってみたくなった。貧亡たらしさとは縁が無く、若やいだ、なんでもあり色の人々の、街々の中に立って、せせら笑う自分の顔を、ショーウィンドォに映そうとすると、鏡の壁はゆっくりと遠のいていく。代りに人々のお尻が前に出てきた。


唐十郎

唐十郎 (から・じゅうろう)
1940年、東京生まれ。作家・演出家・俳優。
1963年「劇団状況劇場」を旗揚げ、1967年新宿花園神社にて初めて紅テントを建て、『腰巻お仙』を上演。
2003年『泥人魚』で、作・演出・演技において、第38回紀伊國屋演劇賞個人賞、第7回鶴屋南北戯曲賞、第55回読売文学賞受賞。
2007年、自身と唐組を追った映画『シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録』(監督・大島新)が第17回日本映画批評家大賞ドキュメンタリー作品賞を受賞。
劇団唐組主宰・近畿大学教授。
>>著作一覧
>>唐ファン(公認サイト)
>>西堂行人氏書評
  唐十郎『唐十郎-紅テント・ルネサンス!』
  扇田昭彦『唐十郎の劇世界』

2008年08月20日

秋山祐徳太子 エッセイ

50年代後半、私は美術学生であった。戦後の状況がそのまま残っているような復興に活気あふれる新宿、友人たちと帰りに立ち寄るのが風月堂で、広い店内には新鋭画家の絵がかけられ、あちらこちらで文学論や社会分析に熱気ある議論が響いていた。我々も芸術論に唸りをあげ、しかもここは何時間居ても文句を云われることもなかった。それに劇団の新人の女性たちがアルバイトでウェイトレスをしているので、何とも居心地が良かったのである。夜になれば、バラック建ての酒場で安い酒を飲んでは、議論のつづきをしたりして、若き青春の熱を発散していたものである。そのころ新宿には売春街があって、合法的な「赤線地帯」、非合法的な「青線地帯」と称されていた。それらも売春禁止法によって、まもなく廃止されてしまった。そして、「あの青線地帯」が新宿ゴールデン街となって生まれ変わり、文化発信の地ともいえるようないろいろな文化人たちが真夜中まで飲み歩いては、派手なケンカ騒ぎも日常で、60年代から70年代にかけては、新宿フォークゲリラやついにはデモ隊が新宿駅を占拠して機動隊との激しい攻防となり、「新宿騒乱罪」が発令され、過激の街というのが定着してしまった感がある。75年、79年には政治のポップアートをかかげて、東京都知事選に立候補した私も、新宿が拠点だった。ついた名前が夜の東京都知事だった。
あれから33年、今ではなんとあのポスターが国立の美術館に収集されている。昔は新宿での待ち合わせの場所は東口二幸が多かったが、二幸がなくなった後は紀伊國屋書店前にしている。新宿唯一の知的なところだから。新宿も安全な街になった。しかし、私の心の底では、血気あふれる街を期待している。


秋山祐徳太子 (あきやま・ゆうとくたいし)
1935年東京生まれ。美術家・ライカ同盟総督。
著書に『天然老人』(アスキー新書)、『ブリキ男』(晶文社)など。

秋山祐徳太子

>>R70 秋山祐徳太子氏の“過激な”天然老人生活
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2008年08月18日

赤瀬川原平 「文化と冒険」

新宿はいちばん出やすい町だ。若いころ中央線の武蔵小金井や阿佐ヶ谷というところにずっと住んでいたので、出るとしたらまず新宿。あのころ紀伊國屋書店は一階か二階の低い建物だった。若者のサロンみたいな喫茶店の風月堂があったし、新宿第一画廊や椿近代画廊も懐しい。はじめて上京したころは都電も走っていたし、駅からほど近くに赤線地帯もあったのだ。

歌舞伎町に映画街ができて、その一館に、何か複雑な通路を通って、何かにぶら下がったり飛び降りたりしながら忍び込んだ記憶がある。その冒険がジュールス・ダッシンのギャング映画「男の争い」みたいで、どきどきした。でも上映していたのは別の映画だったと思う。

それにこじつけるわけでもないが、新宿は文化的冒険の町だ。新宿からたくさんの冒険が生まれて出ていった。


赤瀬川原平

赤瀬川原平 (あかせがわ・げんぺい)
1937年、横浜生まれ。ポップアートの先駆的活動を展開し、のちイラストレーターに。『肌ざわり』(中央公論新人賞受賞)で作家活動も開始する。『父が消えた』で1981年に芥川賞、『雪野』で1983年に野間文芸新人賞受賞。近著に『昭和の玉手箱』(東京書籍)など。
>>著作一覧(尾辻克彦)
>>著作一覧(赤瀬川原平)
近代ナリコ氏書評:『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 岩波写真文庫再発見』