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2013年01月29日

『医療におけるナラティブとエビデンス:対立から調和へ』斎藤清二(遠見書房)

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「医療者と患者の新しい関係に向けて」

以前の当ブログで(2008年04月30日)、近年、医師の経験と勘による判断よりもむしろ疫学的根拠(エビデンス(evidence):詳しくはさきほどの2008年04月30日のブログをご覧ください)を重視する医療が推進されつつあることを述べました。これは、1990年代からまずカナダやイギリスで興隆し、その後日本にも入ってきた考え方で、エビデンス・ベイスト・メディスン(Evidence-Based Medicine:略称EBM)と呼ばれます。実は、これと名前の似た別の流れがあり、ナラティブ・ベイスト・メディスン(Narrative-Based Medicine:略称NBM)と呼ばれます。「ナラティブ(narrative)」は、「語り」あるいは「物語」と訳される言葉で、患者が病いを何らかの意味あるものとして語ること、もしくは語られた言葉たちを指します。わかりやすい例として、「私は昔からストレスの多い仕事をしていたから、今こんな病気になっていたのではないか」というナラティブを語る例が考えられます。また、やはり以前の当ブログで、患者がもつ「説明モデル」(2007年10月30日)や「物語」(2007年12月25日)に着眼した医療人類学の研究をご紹介しましたが、医学においても、1990年代末のイギリスで、患者を物語の語り手としてとらえることで、患者が持っている世界を尊重しながら医療を行なっていこうという機運が盛り上がってきます。

このように対になる言葉が出てくると、私たちはついついそれらを対抗的な図式でとらえてしまいがちです。エビデンスは「客観的」で「科学的」であるのに対して、ナラティブは「主観的」で「非科学的(よくいえば“職人技”的)」というふうに。しかし、これは必ずしも適切なとらえ方ではありません。何らかの疫学的な情報が得られたとして、それをどう患者に伝えればよいのか、患者がそれをどう受け取るのかといったことを気にした時点で、EBMの関心は患者とのコミュニケーションの問題へと接続し、そしてこのコミュニケーションの問題こそが、NBMがスポットをあてるところに他ならないからです。(さきほどの2008年04月30日に取り上げた本は、このようなコミュニケーションの問題に直面する医師たちの戸惑いを率直に表現するものでした。)

EBMとNBMは対立物ではないということ自体は、当初からずっと指摘されていたのですが、それでは、そこからもう少し踏み込んで両者を統合的に論じた文献はあるのかと言われると、これまで私は「特にこれ」というものを挙げられないでいました。それはおそらく、これまでの時期が、EBMとNBMを海外から導入することや、その際の国内でのさまざまな(反発を含む)反応に対応することなどに主眼がおかれた時期だったからではないかと思います。しかし、今回取り上げるこの本を読んで、いよいよEBMとNBMの第2ステージへ、つまり両者を結びつけた枠組みのもとでよりよい医療を探求する試みが行なわれる時期へと入ってきているのではないかと感じました。

著者の斎藤清二さんは、富山医科薬科大学(現在の富山大学医学部)第3内科助教授を経て、現在は富山大学保健管理センター長・教授を務められています。NBMを日本に積極的に紹介してこられた一人であり、関連著書は多数あります。それらの中でもこの本は、2006年11月から2007年9月にかけて行なわれた月刊誌『理学療法』(メディカルプレス社)への連載をもとに加筆修正されたもので、EBMとNBMとにバランスよく紙幅を割きながら、両者を結びつけた視座を整えようと試みています。あくまでも医療者向けの文章なので専門用語なども出ては来ますが、理学療法士という医師とは異なった集団を読者として想定した文章をもとにしているからでしょうか、専門外の人でも少なくともある程度は読解可能ではないかと思える、比較的平易な文章だと思います。

著者の考えでは、EBMは、NBMを基本的なスタンスとして据えたうえで、その中での重要なツール(道具)として位置づけられます(本書128~129ページ)。NBMは、患者を病いを意味づける者として尊重しますから、医療者はその語りに対して、まずは十分に耳を傾けます。しかし、その際、文字通りただ黙って聴くだけではなく、ある時には、患者にとってありうる物語を、時には医療者個人の見解も交えながら提示したり、会話を通して何らかの働きかけを行なったりすることもありえます。このとき、医療者は話題となっている疾患に関するエビデンスの有無を調べておき、状況に応じて提供できるストックとして備えておきます。具体例として挙げられている急性腰痛の場合、かっては有効と考えられてきた治療法(筋弛緩薬、運動療法、安静、牽引、腰椎の支持、マッサージ、温熱や冷却などの物理的療法)のほとんどにおいて、有効性のエビデンスが否定されるか、もしくは明瞭なエビデンスが未だ得られていないといいます。しかし、例えば「活動性を維持すること」の有効性は確からしいというエビデンスは得られている。したがって、患者に「日常生活を続けることで治癒が遅れることはないということは、これまでの研究でわかっていますよ」と言うことは、しっかりとした根拠に基づく助言といえます。また、上に挙げた諸々の治療法については、「少なくとも害にはならない治療法」として選択肢とすることは許容されるだろう、と著者は述べます。私なりの理解では、それらの治療法は、有効性のエビデンスは伴っていないけれども、患者が作ろうとする物語の中において機能し、主人公(患者)の士気を高める可能性に照らして選択されうる、ということではないかと思います。

上の具体例に表れていたポイントのひとつは「エビデンスがないのにあるかのように語ることは避けるべきだ」という点にあります。しかし、ポイントはもうひとつあって、「エビデンスがないからダメというわけではない」という点も重要です。エビデンスは、あくまでも治療選択のための材料であって、有効な治療を一義的に決定するものではない、ということです。この本の最後の方(第10~11章)では、臨床心理学など周辺領域において、EBMに触発されたEBP(エビデンス・ベイスト・プラクティス(Evidence-Based Practice))の興隆の一部分について取り上げられています。著者は、そこではどうしても治療法の優劣に関心が限定されてしまい、「エビデンスのない治療法を排除する」という方向性が前面に出てしまう危惧をぬぐえないと論じています。私が思うに、エビデンスの重視が、根拠があいまいな治療法を問いなおす有効な手段となる可能性は、確かにあるのではないかと思います。ただし、やり方を間違えると、専門家集団内での分裂や混乱(エビデンスを得られない治療方法を支持する専門家は、「エビデンス・ベースト(Evidence-Based)」という機運それ自体に反発を覚え、議論の<土俵>に上がらないかもしれない)や、あるいは、専門家-クライアント関係において改善すべきパターナリズムに関して何ら変化をおこさない(エビデンスがあるからといって、事実上その治療法が優先的に押し付けられる事態になれば、「クライアントにとってよいことは専門家が知っている」という意味でのパターナリズムは変わっていないことになる)といった問題につながってしまうかもしれないと思います。

EBMとNBMは、それ自体としては異論の余地のない内容を主張しているように見えますが、一歩踏み込んでみると、このように難しい部分とも背中合わせであり、今後も注視が必要です。そうした中で、この本は、あるべきEBMとNBMの統合を標榜しながら、医療者と患者との関係を望ましいものに変えていこうとする(道のりは遠いかもしれないが)希望をもたらす一冊だといえます。私たちの社会の将来を考えたとき、これは単に「医療者の患者に対する接し方」という問題としてだけではなく、患者の側が医療者をどう扱うかという問題としても考えていく必要があると思います。つまり、ひどく落ち込ませる病いに遭遇したときに、すぐに治してはくれない医療者に対する複雑な気持ちをいったんは抱いたとしても、それでも、自らの病いの物語を作っていく際の聞き手として、あるいは可能的な物語の提案者として医療者を遇するようになれる可能性はどの程度広げられるか。このような課題が21世紀社会に課せられていると思います。


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