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2011年03月25日

『<当事者>をめぐる社会学――調査での出会いを通して――』宮内洋・好井裕明編著(北大路書房)

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「「当事者」を語ることの意味」

「この苦しみは体験した者でなければわからない」。これは、私が研究の過程で知り合ったある難病を持つ方が、専門職を前に体験談を語った中で出てきた言葉です。一瞬、「あなたたちは『非当事者』であり、私の気持ちなんかわからない」を言われているようで、ドキリとします。しかし、そう言いながらも、その人は専門職に語りかけており、決して(少なくとも全面的な)拒絶は感じられない――ここでは、「当事者」という言葉に、軽微な断絶とともに「もっと関心をもって見てほしい」というつながりの要求が潜んでいるように思われます。もちろん、別の場面、たとえば「この場の議論には『当事者』不在だ!」と言われるとき、そこでは「当事者」と目される人の声が十分に聴かれていないこと、そしてそのことが何らかの損害につながっていることが告発されています。

このように考えてみると、「当事者」という言葉は、なかなか奥が深い、とても単純なようで、それでいて考えれば考えるほど複雑な言葉であるように思えます。

この本は、そうした「当事者」の奥行きと複雑さについて考えさせられる本です。執筆陣は、気鋭の社会学者たちによって構成されており、扱われる領域は、性風俗店で働く「おんなのこ」たち(第1章 熊田陽子)、性同一性障害のカウセリング場面(第2章 鶴田幸恵)、環境運動(第3章 西城戸誠)、農業(第4章 松宮朝)、移民経験者(第5章 樋口直人)、障害者の家族や支援者(第6章 中根成寿)、認知症の人とケア労働者(第7章 天田城介)、テレビメディア(第8章 石田佐恵子)、そして差別(好井裕明)とバラエティに富んでいます。どの執筆者の調査体験も非常に興味深く、また、読んでいて、自分自身が研究の中で知り合った方たちとのさまざまな場面が、頭の中に浮かんできます。

たとえば、私は吃音(きつおん=どもること)のセルフヘルプ・グループに2002年以来参加させてもらって論文を発表したことがありますが(現在でも時々参加させてもらっています)、ふりかえってみると、集会の最初の方で参加者が自己紹介する場面では、そこに居るのが常連メンバーだけという場合でなければ、「私自身は吃音ではありませんが…」とはっきり言うようにしているようです。いつもこの台詞を口にする瞬間、なんだか必要以上に「私とあなたたちとは違うんだよ」ということを強調しているかのような軽微な気まずさを感じながらも、何かはっきり言う必要もあるような気がして、何とはなしに続けてきた習慣です。しかし、この本を読みつつ考えてみると、そこではっきり言っておくことによって、私のことをよく知らない参加者が「あの人は、とても吃音には見えないけど、本当のところはどうなんだろうか」という疑問を悶々と抱いたり、ある時思い切って「伊藤さんは吃音なんですか」と聞いてみて「違うよ」と言われたときの気まずさ(あるいは「裏切られた」とか「だまされた」と思う)危険をあらかじめ防いでいると考えられます。また、少し世知辛い言い方をすれば、「私は当事者でないから、グループの関心や運動に100%同一化できないかもしれない」とあらかじめ断っている、という見方もできます。一方、聞く側に「なんだか冷たい言い方だな」という印象を持たれて、近寄りがたい奴だと思われる危険もあります。

このようにしてみると、「当事者」という言葉は、ある体験への近さについて「当事者/非当事者」という線引きを行なう行為の産物としてとらえられるように思います。この言葉を使うことで何かが行なわれ、それに伴って、発話者やその他の人に何らかのメリット・デメリットが生じます。そうすると、「当事者」を何か固定的・実体的なものとして考えるよりも、もう少し動的なものとして、つまり、ある場面では「伊藤は非当事者だからわかるまい」と思われるかもしれないし、別の場面では「伊藤は傍観者よりもずっと近い、ほとんど『当事者』と変わらない」と思われるかもしれない、そういう<たえず線を引かれ直されうる>ものととらえた方がよいのではないか、と思います。

改めてこのように述べてみると、何だか当たり前のことを確認しただけのような気もするのですが、私のような質的調査研究(フィールドワークやインタヴュー調査)を行なう者にとっては、定期的につい点検してしまう、そしておそらくその必要があることなのだろうと思います。なぜなら、調査の過程では、強い思いを持った人や、いわゆる重たい現実に直面することが多々あり、特にメンタル・コンディションが悪い時などは、「非当事者」である自分の無力に打ちひしがれてしまうので、その状態を相対化し、自分を立て直し鼓舞する作業が必要になってくるからです。そのためには、自分が徹頭徹尾「非当事者」と決めてかかるような発想は正しくないし有害である、ということに改めて気づく必要があるのです。

ですから、質的調査研究を行なっている人で、「当事者」との関係の作り方、維持の仕方に悩んでいる人にとっては、この本は有意義な刺激を与えてくれる一冊になると思います。どこから読み始めても最初はつかみどころがないように感じるかもしれませんが、少し我慢してすべての章を読んでみていただきたい。単純に「研究対象者」イコール「当事者」といえないことや、「当事者に近いほどよい研究ができる」というわけではないことなど、さまざまな発見が得られると思います。


*この本の書評に関しては、もう少し専門家向けの内容の書評が近々『社会学評論』に掲載される予定です。購読されている方は、是非そちらも併せてご覧ください。


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