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2008年04月30日

『医師アタマ――医師と患者はなぜすれ違うのか?』尾藤誠司編(医学書院)

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「これからの「医師」像はどこへ?」

何度見ても可笑しい駄洒落のようなタイトルと、非常に重く大きな問題をストレートに表したサブタイトルとのコントラストが印象的です。この本は、プライマリ・ケアやへき地医療を経験した医師、そして医療倫理研究者などが執筆陣となり、患者-医療者間のコミュニケーションに関する文章を集めています。そのねらいは、患者-医師間のコミュニケーションの問題を考えていくにあたって、まずは、しばしば医師自身が自覚せずに凝り固まっている認識や思考のあり方(「医師アタマ」)を解剖してみよう、という点にあります。文献註とリストが付けられており、論文の体裁を整えていますが、文体はむしろエッセーに含まれる、悩みや迷いも率直に語るようなものです。

興味深い例の一つとして、医師の「引き算」思考を取り上げてみます(『医師アタマ』、62~69ページ)。ここでいう「引き算」とは、疑いの強い、あるいは重大な結果(生命の危険など)につながりやすい疾患を除外してゆく思考形態を指します。この思考形態を誠実に開陳しようとすれば、患者が訴える不調に対して、「○○である怖れは非常に少ないと思います」という答え方をすることになります。しかし、患者の側は、自分の不調がなぜおこりこれからどうなってゆくのかという物語(ストーリー)を組み立てたがっており、しかも多くの場合、ちょうど故障した機械が治るように悪い部分が突き止められ元の状態に修復される「回復の物語(the restitution narrative)」(2006年6月の当ブログを参照)を期待しているので、そうした医師の回答に物足りなさを感じてしまいやすいと考えられます。

近年、医師の経験と勘による判断ではなく科学的根拠(エビデンス、evidence)に基づく医療が推奨され受け入れられてきています。ここでいう「エビデンス」というのは、調査対象となる集団の中で治療的効果を測定できた人がどれぐらいいるか(あるいは、治療を受けなかった集団よりどれぐらい高まるか)といった疫学的な根拠を指します。この根拠を誠実に開陳しようとすれば、「○○人に○○年間この薬を飲み続けてもらうと、発生頻度は○○%減ります」という言い方になります。しかし、多くの患者にとっては、このような言い方をされたうえで「さあ、どうするか決めてください」と迫られても、それだけでどう考えてよいかわからないと困るのではないでしょうか。「○○%」という数字を「回復(restitution)」の実現可能性(「私が元に戻る可能性は○○%」)と読みかえれば、まだしも態度を決めやすくなるかもしれませんが。

このようにしてみると、どうやら医師が自らの科学的思考に忠実であろうとすればするほど、病いの物語を希求する患者の思考との間にギャップが生じるようです。病いの意味づけを丸ごと医師に託して結果に決して文句を言わないような患者の場合は、問題は生じないかもしれません。しかし、病いの意味を希求し、そうしたプロセスの中で近代医療の権威さえも相対化するような患者の場合は、そうはいかないでしょう。慢性の病いへのクローズアップ、インターネットなどによって素人も医療情報へアクセスしやすくなったこと、医療過誤への厳しい視線――こうした社会の動きは、患者-医師間のコミュニケーションを、ますます退っ引きならぬものにしているように見えます。

こうした情況の中で、どのような「医師」像がありうるのでしょうか。一つ考えられるのは、科学的思考の守備範囲を忠実に守る「医師」像です。つまり、「○○である怖れは非常に少ないと思います」とか「○○人に○○年間この薬を飲み続けてもらうと、発生頻度は○○%減ります」といった答え方に対して患者がどんなに不満であろうとも、そこから一線を越えることを基本的には例外とするような医師です。患者の側から見ると、医師は科学的な情報を誠実に提供してくれる(そして患者の判断に従って何らかの治療手段を講じる)存在であるが、それ以上の存在としては最初から期待すべきではない、ということになります。これはこれですっきりした割り切り方のように思えます。

ただし、そのようなイメージを敢えて踏み越えた「医師」像もあるのではないかと思います。多くの患者は、上に述べたような割り切り方をするわけではなく、自らの病いを何とかしてくれる人として医師をイメージして不調を語り出すと思われます。そのとき、医師はどうしても物語の希求の一コマに巻き込まれてしまうことになります。また、患者の語りや、観察される様子、あるいは自らの臨床経験などを拠り所にして、例えば何か思い切った忠告を医師が行うとき、その医師は科学的な情報の誠実な提供者という役割を越えて、患者の人生に大きく関わってゆきます。これらは、物語の聞き手としての「医師」像としてとらえられます。

これらの「医師」像は、それ自体が新しいものではなく、いままでの医療実践の中にも、いわば成分として既に含まれていたものでしょう。それが、社会の動きの中で、これまで以上に鋭く問い返さざるをえなくなっているということではないでしょうか。『医師アタマ』の著者たちの率直な悩みや迷いの吐露は、そのような社会の情況を示しているように見えます。


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