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2008年02月28日

『ろう文化の歴史と展望――ろうコミュニティの脱植民地化――』パティ・ラッド(森壮也監訳)(明石書店)

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「「聞こえない」から「ろうである」へ」

今回は、病い研究に隣接する、ろう研究に足を一歩だけ踏み入れてみます。
著者パディ・ラッド(Paddy Ladd)は、1952年生まれ、イギリス育ちで生来のろう者です。彼女は、大学で最初の学位を取得するまで他のろう者と特に交わることもなく成長しました。順調に学業を修めてろう教育の職を得ようと就職活動をすると、「聞こえないから」という理由で断られてしまいます。彼女によれば、この出来事が、それまで自分が従ってきた口話主義教育にはっきりとした疑問を持つきっかけとなりました。

「口話主義」とは、ろう者を<聞こえない>者として、つまり、本来あるべき聴者の能力が欠けている者としてとらえる見方を指します。欠けているものを埋めるべく、1980年代には人工内耳(手術によって電磁気装置を頭蓋骨の内部に埋め込む技術)が開発されます。ろう者は、何よりもまずこうした医療技術によって<治されるべき>存在とみなされたのです。また、ろう児たちの受ける教育については、まず何よりも<聴者になるための>ものでした。手話は読唇術習得の妨げになる、と教師たちは考えました。ラッドがインタヴューした女性(イングランド南西部在住、年齢は二十代半ば)は、教室での体験を次のように振り返っています。

先生は「名前は? どこから来たの?」と、すべて口でしゃべったの。こちらへやって来たので、わたし、指文字で自分の名前を綴ったのよ……えっ、何――わっ! 先生がわたしを担ぎ上げたの。教室の前で、わたしは抱き上げられたままの状態。「何なの、それは? それじゃあサルじゃない!」。先生はそう言ったけど、わたしは事態が呑み込めないまま、ただそこに立ち尽くした。そして先生は「出て行きなさい」って……クラスメートたちはただ座って震えてた。(『ろう文化の歴史と展望』469ページ)
このような教育をしても、ろう者を本当に聴者のようにすることができるなら、問題は少なかったかもしれません。しかし、多くのろう児たちは読唇術を中途半端にしか会得できず、成績も遅れがちでした。
優等生と見なされた人たちでさえ、このプロセスを苦しい闘いと表現した。何人かはしゃべり方を褒められたが、外界に出た途端、教師が嘘をついていたことに気づくという屈辱を味わった。これに気づいた時、学校で全歳月をかけて自分を守るために築いてきたセルフイメージは粉砕された。(同書472ページ)
ここの部分からは、優秀な学生だったラッドが就職活動で挫折した上記のエピソードが思い浮かびます。

ラッドがこの本全体を通じて主張するのは、<聞こえないこと(デフネス)>ではなく<ろうであること(デフウッド)>なのだ、ということです。つまり、ろう者たちは本来あるべきものが<欠けてしまった>存在なのではなく、独自の言語(手話)を含む文化を持った存在として聴者と等しい尊敬を受けるべきだ、ということです。第7章以降では、ろう者たちへの聞き取りから、彼・彼女たちがどのように学校時代を過ごし、ろうクラブでどんな体験をしたのかが描き出されます。それを通して、ラッドは、一枚岩ではないけれども独自に存在するろう文化の存在を浮かび上がらせようとしています。ここがこの本の読みどころではないかと思います。

さて、この研究と、現在私が行っている病いの語りの研究とを比べると、共通点も相違点もあるように感じます。

セルフヘルプ・グループに集まる人々の語りを聞いていると、「回復の物語(the restitution narrative)」(2006年6月の当ブログを参照)の限界面、つまり、医学や心理学などの知(もしくはそれに基づく技術)によって病いを治すことができないという現実の中で、どのように生の意味を切り開くのかというテーマに出会います。そこにあるのは、「病気が治らないことには何も始まらない」という思い込みから距離をとって自らの生の物語を紡ぎ出す、という生きるための課題です。このようにみると、病いに直面する人々がセルフヘルプ・グループに集まってくるという現象と、「ろうは治すべきもの」という固定観念からの解放を求めて独自の文化とアイデンティティを確立しようとする動きとは、通じる部分があるのではないかと思います。

しかし、その一方で、対口話主義と比べられるような対「回復の物語」が観察できるかというと、そうでもないように思います。むしろ、たとえどれほど「回復の物語」の限界が明らかであっても、「治って欲しい」という感覚は、ごく自然なものとして人々の中に留まり続けるように見えます。また、専門家がすべて目的としての「回復(restitution)」に凝り固まっているわけではなく、中には、「回復(restitution)」が望めない現状を受け入れたうえでの支援を考える人もいます。このように対抗する相手との関係が明確に図式化できない情況では、アイデンティティ確立という動きもそれほど顕著にはならないのではないかと考えられます。しかし、だからといって、「回復の物語」の限界において生の意味を切り開くという課題の重要性と切迫性が減ることにはなりません。

このように考えると、私がろう文化研究に今後関心を寄せたいのは、対口話主義という社会的文脈が曖昧になったときに、どのように研究の戦略が変化しうるのかということです。このことについて著者ラッドも、非常に短い部分ですが、口話主義による抑圧が軽減するにしたがって「ろう者」の集合的自己も崩壊することになるのかもしれない、とふれています(本書644~645ページ)。しかし、集合的自己の「ある/なし」という二値の間には、対抗的なアイデンティティ確立の動きが盛り上がるわけではないけれでも、かといってさまざまな問題が消失したわけではないという、いわば「グレイゾーン」があるはずです。そのようなグレイゾーンにおいて、対抗的なアイデンティティ確立という研究戦略はどのような練り直しを迫られるのでしょうか。

この本は、質的調査研究の一例としても参考になりますし、上に述べたように、ろう研究という領域を越えた関心を喚起します。何らかの意味で劣勢な人々に質的調査でアプローチしようと考えている大学院生や、そういったトピックに関心を持つ向学者にお勧めできます。少々高価なので、各研究室や図書館に備えてほしい一冊です。


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