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2007年10月30日

『病いの語り――慢性の病いをめぐる臨床人類学』アーサー・クラインマン(江口重幸・五木田紳・上野豪志訳)(誠信書房)

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「「病いの語り(illness narrative)」研究の産声」

この本は、「病いの語り(illness narrative)」研究の道を切り開いた記念碑的な一冊です。著者は1941年生まれで、研究者であると同時に精神科医としての臨床経験を持っています。真に人間的な患者への関わりを問いかけるこの本は、医療人類学において病いの「意味」に着目する伝統を生み出しました。

クラインマンがこの本で述べている最も中心的なことは、病いに対する患者独自の意味づけに耳を傾けることが重要である、ということです。このことを彼は「説明モデル(explanatory model)」という概念で説明しています(第7章)。「説明モデル」とは、「患者や家族や治療者が、ある特定の病いのエピソードについていだく考え」(p.157)を指しており、障害の本質は何であるか、なぜ自分がその病いに冒されてしまったのか、どんな経過をたどるのか、どんな治療をしてほしいと思っているのか、自分がこの病いと治療についてもっとも恐れているものは何か、等々を含んでいます。しかし、患者の説明モデルは、生物医学的な見地からすると、しばしば余計なもの、あるいは攪乱する要素として見られてしまい、診療室では抑制されてしまいます。しかし、医師の見方と患者の見方とは、前者が真理であり後者が誤りというものではなく、あくまでも、それぞれの説明モデルであるということにすぎないのです。

第7章に出てくるスティール氏の例を取り上げてみましょう。スティール氏は42歳の白人弁護士で、喘息を2年間患っていましたが、約4年後にはすべての症状が消失します。スティール氏の語りによれば、喘息はさまざまな心理・社会的な理由によって生じたもので、特に、40歳の時から自分に向いていないのではないかと思い始めていた弁護士を辞めて、父と兄がやっていた魚の卸売の仕事を始めたことが、症状の消失に大きく関わっています。一方、主治医はこの説明を受け入れていません。彼は、喘息が心理・社会的な理由で生じたり消えたりすることはなく、何らかの一過性の(特定はできない)アレルゲンがあったのだろう、と病いを説明します。スティール氏の語りを聞き出した精神科医は、スティール氏が言うようなストレスの軽減などが関わっていることは認めたうえで、他の生理学的な変化も起こったのではないかと考えます。スティール氏と確執のある義父母は、カトリックのある宗派に属していましたが、喘息は同情を引き家族をコントロールしたりするための意図的なものと見ており、スティール氏は自然食や宗教的な治療によってまず彼自身の問題を解決すべきだと考えていました。症状の消失は、神の御業だと義父母は確信しています。

このように、病いにはさまざまな説明モデルが多元的に存在し、どれが正しいのか必ずしもわかりません。スティール氏の場合は、めでたく症状が消えたので、そもそもどれが正しいのかを問題にする必要がないわけですが、かりに症状が消えていない状態であったとしても、生物医学的なモデルが常に正しいとはいえず、どの説明モデルが患者にとってどのように有用か、という観点から考えていかなければなりません。このことは、患者の側からすると、医師の提示するモデルが無条件に自分を何とかしてくれるだろうと盲目的に寄りかかるのではなく、自分自身にとっての有用性を問いかけるだけの足場を持たなければならないということを意味しています。

私たちがクラインマンの見解を受けてさらに考えていかなければならないことは、この点にあるのではないかと思います。患者が病いについてあれこれしゃべるということと、「説明モデル」という言葉から想像されるような、一定の明確な意味内容をもったものとして表現できることとの間には、かなり距離があると思います。医師の説明モデルを相対化するほどの自信は、いったいどのようにすれば獲得できるのでしょうか。

「病いの語り(illness narrative)」研究の出発点として、私たちにさまざまなことを教え、考えさせてくれる一冊です。非常に長いので、要点を大急ぎでつかみたい方は、第7章を中心に読むのがよいでしょう。ただし、人々の経験するさまざまな痛みや苦しみを描いた他の各章も、私たちを引きつけるものがあります。


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