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2006年10月26日

『ラッキーマン』マイケル・J・フォックス(入江真佐子訳)(ソフトバンクパブリッシング)

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「喜劇俳優からストーリー・テラーへ」

著者のマイケル・J・フォックスは、テレビドラマ『ファミリー・タイズ』と映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で大ヒットをとばした喜劇俳優です。その彼が、1998年11月、『ピープル』誌のインタヴューでパーキンソン病であることを公表し、大きな反響を呼びました。この本は、1990年に彼が症状である左手小指の振るえを最初に意識するようになってから、俳優を退いて「マイケル・J・フォックス パーキンソン病リサーチ財団」を設立し活動するようになるまでの経緯を綴った自伝になっています。

パーキンソン病は、中脳の黒質というところの変性によって、ドーパミンという神経伝達物質が不足する難病です。これによって、手足が振るえたり、歩くときの第1歩が出なくて固まってしまったり、顔の表情が乏しくなったり、字がうまく書けなくなったりといった様々な症状が表れます。なぜ黒質の変性が起こるのかは不明で、根治療法は確立されていません。

この本の第1章冒頭は、1990年にフォックスの左手小指が「反乱」(=振るえ。半身に現れる振るえはパーキンソン病に特徴的な初期症状)を起こしているのに気づいた出来事から、診断を受け絶望するころまでが綴られています。第2章からは、自分が生まれ育ったカナダの町と両親のことから始まる長い回想録です。第5章になると、話はようやく1990年に戻ってきて、彼の病いの物語が本格的に始まります。診断を受け容れられない主人公はアルコールに溺れ、どうしようもない状態へと転落していきますが、「あえて身分を明かし合わない新しい友人の輪」(本書259ページ)――これはおそらくセルフヘルプ・グループのことでしょう――に助けられて断酒し再生します。それでも彼はパーキンソン病のことを愛妻トレーシーにさえ語ることをしませんでした。後に、カウセラーのジョイス、神経科医ロッパーとの出逢いを通じて、主人公はそうした態度を改めるようになります。

 この病気を治すことができないのなら、そのことについては話したくない。個人的な主義としても、この考え方は重大な問題を抱えている。だが、これを結婚生活の中に持ちこんでしまうのは最悪だった。悲しいことに、ぼくはトレイシーのためを思っていると思っていたのだ。結局のところ、彼女がぼくの病気のためにできることはなにもないのだし、それだったらそのことを話して彼女に重荷を背負わせることもないだろう、と。だが、問題があまりに大きいために、そのことを話さないとなるとほとんどなにも話せなくなった。ちょっとしたおしゃべりでも危なかった。だって、そのことからどんな大問題に発展していくかわからないのだから。ぼくがパーキンソン病に振り回されているだけでもひどいことのなのに、黙りこむことによって――つまり妻と家族をこの経験から切り離すことによって――ぼくは彼らをもパーキンソン病の奴隷にしてしまっていたのだ。ぼくの状況がどれほど過酷なものであったとしても、トレイシーにはトレイシーの悩みや苦しみがあったのは明らかだった。それなのにトレイシーは自分が直面している問題について、ぼくに相談することもできなかったのだ。(本書287~288ページ)

この記述は、病いの経験が純粋に個人的な経験ではなく、家族を含めた他の人々を巻き込む社会的な出来事であることを、改めて気づかせます。それと同時に、「語らない」ということも何らかのメッセージ――このケースでは「君の聞き手にはならないよ」という家族へのメッセージ――を持っていることがよく分かります。これらの点で、病いの物語の語り手(ストーリー・テラー)になることは、重要な意味を持っているといえます。(ただ、どのような場合でも病いのストーリー・テラーになるべきだ、とまでは私は主張しません)。

フォックスがストーリー・テラーになるこの部分を境に、彼の生活の仕方は大きく変わっていきます。かつてハリウッドで得た栄光を追い求め、振り回されるような仕事の仕方ではなく、自分が本当によいと思う作品に集中することで喜劇役者としての人生をまっとうしよう、という生き方に変わってくるのです。第8章では、彼がパーキンソン病であることを公表してから、社会的な活動を行なうようになるまでの経緯が語られています。この病気の治癒もそう遠い将来のことではないと彼は信じ、資金不足を変えるために陳情運動に奔走し、財団を設立して有望な科学者に資金を提供します。

日本においては、パーキンソン病は「特定疾患」のひとつとして認定され、医療費助成の対象になっています。医療機関でヤール度(症状の進み具合を5つに区分する尺度)が3以上と診断された人は「特定疾患医療受給者証」の交付を受けることができ、治療にかかった費用の一部(収入に応じて異なる)が公的に助成されるのです。

ところが、現在、厚生労働省では、この助成の基準を厳しくしようと動いています(具体的には、ヤール度4以上への対象の限定)。この動きの背景には、どうやら、限られたパイを難病同士で奪い合うという悲しい構図があるようです。つまり、「特定疾患医療受給者証」の交付を受けるパーキンソン病者の数が増え(注)、医療費助成に要する金額もかさむ一方で、医療費助成を望みながらなかなか得られない他の難病者グループによる政治的な運動がおこります。結果的に、パーキンソン病を持つ人々のうち比較的軽度の人たちが、恩恵からはじき出されようとしているのです。

(注)財団法人 難病医学研究財団 難病情報センターによれば、初年度(昭和53年)の3,263人から平成16年度には75,026人になっています。

しかし、「比較的軽度」と言っても、事はそれほど単純ではありません。先にも述べた通り、フォックスの情熱にもかかわらず、少なくとも現時点ではパーキンソン病の根治療法は確立しておらず、辛うじてドーパミンの不足を補う新薬の開発が進展してきている情況です。パーキンソン病を持つ人々にとっては、症状をおさえる薬に関してよりよい選択肢が広がった、ということにはなります。しかし、これらの薬の中には非常に高価なものが含まれており、さらに、年月とともに効力が薄れ、増量を余儀なくされるのです。今、恩恵からはじき出されようとしている人々の多くが、このようにして高額な医療費を抱え込まざるをえなくなった人々なのです。

私たちは、こうした病いをめぐる情況を知る必要があると思います。しかし、多くの人にとっては、そもそもパーキンソン病の経験とはどのようなもので、どのような苦悩があるのか、ということさえ縁遠いことでしょう。この本は、誰もが知っている喜劇俳優フォックスの人生を通して、読者をパーキンソン病の経験へと橋渡ししてくれるはずです。


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