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2006年06月27日

『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理――』アーサー・W・フランク(鈴木智之訳)(ゆみる出版)

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「病の物語への視座」

初めて読んだときは、何のことを言っているのか分からなかったけど、読み返してみるにつれてピン!と来た――こんな経験は誰しも持っているでしょう。本を読む醍醐味ですよね。
私にとって、そんな経験を与えてくれた重要な本がこの一冊です。

この本を理解するには、「回復の物語(the restitution narrative)」が鍵概念となります。この「回復(restitution)」という言葉は、私たちが日常的に使う「回復」よりも限定された意味で用いられるので、注意が必要です。この物語は、「昨日私は健康であった。今日私は病気である。しかし明日には再び健康になるであろう」という基本的な筋書きを有する、とされています(p.114)。さらに説明を加えますと、

(1)中間部をなす「病気」の状態は、あくまでも一時的な中断ないし脱線として描かれる。
(2)物語の結末が元の状態に戻ることとして描かれる。それによって、病は、ちょうど機械の故障がなおるように、医薬品や医療技術などによって修復されるものとして描かれることになる。
(3)主人公がどう病に対処したのかよりも、むしろ、専門技術を持つ他者ないし治療を可能にする他者の能力と活躍の方が、雄弁に語られやすい。

これら三つの特徴を持つ物語が「回復の物語(the restitution narrative)」です。フランクによれば、近代社会においては、この物語が、臨床の現場から市販薬のコマーシャルに至るまで溢れており、病はかく語られるべきだという雰囲気を産み出しています。

実際、私たちにとって「回復の物語(the restitution narrative)」はごく身近なものです。例えば、私たちはよく風邪をひきますが、たいていは苦しむといってもごく短期間で、最終的にはまったく元通りの状態に戻っていきます。このとき、風邪の経験は「回復の物語(the restitution narrative)」で問題なく語ってしまえるものです。

しかし、「回復の物語(the restitution narrative)」がうまく機能せず、それゆえに人々が生き難さを感じてしまう経験もあると考えられます。慢性の病や死に至る病、あるいは境界的な病の場合です。このような病に直面して、人々の語りは、物語の体裁を失い、ひどく混乱した様相を呈するでしょう。これが、「混沌の物語(the chaos narrative)」です。一方、人々の中には、ただ混乱するだけではなく、苦しみつつも新しい生を探求する人も出てくるでしょう。このような人によって語られるのが「探求の物語(the quest narrative)」です。

この本の問題提起は、「混沌の物語」や「探求の物語」といったごく大雑把な類別を足がかりにしながら、「回復の物語(the restitution narrative)」の外側にある経験に目を向けよ、という点にあります。私は、この本を読み返すうちに、自分が研究しているセルフヘルプ・グループをとらえるには、彼の問題提起が非常に重要だと考えるようになりました。というのも、セルフヘルプ・グループでは、参加者が混沌とした話をしたり、あるいは、新しい生を探求しようと試行錯誤して自己物語を書き換えたりするような例が、見受けられるからです。そのようなセルフヘルプ・グループの一面を、意味あるものとして認識し、それを大切にするように今後のセルフヘルプ・グループを構想することが、「病に付き合える社会」(2006年5月のこのブログを参照)への一歩になるのではないか、このように私は考えています。

私にとっては、出会いを最も感謝している一冊といって過言ではありません。一見難解かもしれませんが、含蓄ある著者の言葉に直接ふれることを是非お勧めします。


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