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2006年03月13日

『エキスパートナースとの対話――ベナー看護論・ナラティブス・看護倫理――』パトリシア・ベナー(早野真佐子訳)(照林社)

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「物語の共同体としての看護師集団」

私は現在、東京で定期的に行なわれている「セルフヘルプ・グループとナラティヴ研究会」で、いわゆる世話人の役割をしています。研究会といっても数人のこじんまりしたものなのですが、自分の研究上最も関心のある部分で議論したり刺激を受けたりする場としては、むしろ少人数の研究会の方がよいかもしれません。とはいえ、この研究会を通じてさまざまな関心を持っている方と交流できたらいいなと思います。
今回は、この研究会で話題にあがった本をひとつご紹介します。著者のパトリシア・ベナーは、カルフォルニア大学バークレイ校看護学部の教授で、主に終末期ケアやクリティカルケア(例えば集中治療室など生命危機状態にある患者へのケア)などを中心に、洞察力に富んだ看護論を展開しています。

この本が私たちの研究会で話題になったのは「患者の物語(ナラティヴ)に耳を傾けましょうという内容かと思いきや、看護師が物語を語りましょうという話だった」というふうにでした。つまり、医療人類学や医療社会学、あるいはナラティヴ・ベイスト・メディスンやナラティヴ・ベイスト・プライマリケアといった研究・実践においては、病を持つ人、あるいは援助の受け手と考えられる人が物語の語り手として注目されるのですが、ベナーの看護論においては、看護の専門家の側が物語の語り手としてとらえられているのです。これは、看護師の物語を(うまくいった話が中心ですが、うまくいかなかった話も含めて)収集し開示することが、ケアの経験的学習の基本である、とベナーが考えているからです。したがって、この書の第一部では、そのような趣旨で集められたエキスパートナースたちによる15の物語が並べられており、それぞれにベナーのコメントが付されています。第二部は、物語を収集し経験的学習に役立てることの重要性などを論じた部分で、第三部は終末期ケアあるいはクリティカルに関するいくつかの論稿が収められています。

おそらく、看護師たちが自分の行なった看護について物語を語るという営み自体が(少なくとも「ある患者の物語」という形でならば)新奇だとは考えられず、それらは何らかのインフォーマルな場でなされていたのではないかと思います。ただ、ベナーの看護論は、それを明確に看護師集団のコミュニケーションのあり方として定式化しようとしているところが興味深いところです。これは、別の言い方をすれば、看護師集団を物語の共同体とする見方が現れてきた、ということになります。

しかし、なぜ物語がこのようにクローズアップされるのでしょうか。決して充分とはいえないと思いますが、私がこの本を読んで考えたことを述べてみます。

ひとつは、「ケアリング実践と治癒との関係性は命題化できない」(138ページ)と述べられている部分がポイントだと思いました。例えば、この本の中には、交通事故で昏睡状態になった患者のために、地域の人々による励ましのメッセージをテープに録音して聞かせることを思いついた看護師の物語があります。患者はやがて意識を取り戻しますが、そのテープを聞かせたのが患者の治癒とどう関係があったのかは、医学的には謎のままです。しかし、物語の形でなら、そうしたケアリング実践がきっと意味のあることだったのではないか、と語ることができます。このように、援助者のアクションがしばしば根拠の曖昧な直感によって開始されたり、あるいは科学的には掴みどころがなかったりする場合には、ケアリング実践と治癒との関係は因果的に立証したり記述したりするのは困難ですが、物語という形でならばそれを説得的に提示することができます。そうすると、物語という方法が明示化されるということは、これまで医療の周辺に押しやられていたそれらのケアリング実践の重要性をクローズアップしようとする動きとしてとらえられるかもしれません。

また、この本は、看護師が一人称で語ることがたいへん重要だと述べています。つまり、「患者にとっての潜在的危険性を分析し、その危険性を最小限にする行動をとった」とか「情緒的支援を提供した」といった記述ではなく(170ページ)、看護師が一人称で登場し、何を考えて、具体的にどのように行動したのかを記述することが求められるのです(だから、ここでいう「物語」は「自己物語」の色彩が強いといえます)。これは、「どんな事業者・専門職者であれ、その人が実践の世界で有能になると、その状況には、パターンの数と同じほど多くの『危険』と『チャンス』があることに気づく」(164ページ)と言われていることとも関係があるようです。つまり、あまりにも多様な状況の中で、時には自分の直感に頼ってどのようなケアをするかを決断しなければならないような現場では、そうした決断は常に患者のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)に決定的な影響を与えるチャンスにもなるかわりに、常にさまざまなリスクとも背中あわせだと考えられます。そうした状況の中で看護師が自分の経験以外に頼りにできるものがあるとしたら、それは他のエキスパートナースが似たような状況の中で何を考え、どのように振舞ったかという物語ではないでしょうか。ただし、そもそも状況が多様なのに、そううまく「似たような状況」の物語が思い浮かぶかというと、少々疑問も残ります。むしろ、そうした緊迫した状況でも物語の主人公のように自分自身を見られる(つまり、語り手の視点という少し離れた位置から冷静に見られる)というところに鍵があるかもしれません。ともかく、ここからは、医療の周辺に押しやられていたケアリング実践の重要性がクローズアップされるとともに、ケアリング実践がますます緊迫したストレスを与えやすいものとして認識されるようになってきている時代の変化が垣間見えるように思えます。

そして最後に、この本に収められている物語には患者が亡くなる物語が一定の割合で収められています。そこでは、結末は治癒ではなく死です。しかし、終着点こそ違っても、ケアリング実践とクオリティ・オブ・ライフとの関係が焦点になっている点では変わりないように見えます。つまり、死にゆく人へのケアリング実践としては、例えば「静かに傍に居る」といった(ある意味では)とらえどころのないことも多いと考えられますが、そうした実践も患者にとってはよかったのではないか、と語り手が納得する作業として物語が産み落とされるのです。詳しい話は別の機会に譲りますが、近代社会においては、人々にとっての「良き死」の実現に際して、例えば神のような超越的な視点との関係よりも、個別的で具体的な周囲の他者との相互作用の方がウェイトを増しています。このような変化の中で、死を看取る専門家もまた、個別的な相互作用について「あれでよかったんだ」という納得を調達する作業が必要になると考えられます。そうした看取りの物語としての側面も、この本に収められた物語たちには含まれているようです。

われわれの社会におけるケアや物語のあり方について深く考えさせられる一冊です。


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