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2014年03月29日

『一色一生』志村ふくみ(講談社文芸文庫)

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「一色に込められた一生の姿」

 いつだったか、京都の湯葉作りの名人と呼ばれる人のインタビューを読んだことがある。何十年となく毎日湯葉を作り続けている人だったが、今までどのくらい満足のできる湯葉ができましたかと問われたとき、まだ一枚もありませんと明確に答えていた。気負っているわけではない。読者を意識した言葉でもない。逃げでもない。心の底から出てきた素直な感情である。それが凄いと思う。 

 染織家の志村ふくみの『一色一生』は染と織にまつわるエッセイであり、彼女の半生記でもある。家庭を捨ててまでして何かに打ち込んだ人の半生には、学ぶものがあり、感動する部分もある。だがしかしそれは質の良いドラマを見て感動することと似ている。あくまでも他者の世界であり、自分は傍観者に過ぎない。ところが、志村の草や木との対峙の仕方、彼女の道を照らしてくれる人との出会いは、読者を引きずりこみ、作者との干渉作用をもたらす。

 『一色一生』というタイトルは、彼女が「かつて一色に十年と思っていたが、この頃は一色一生と思っている。」と述べる通り、一色を生み出すための難しさを語っているのだろうが、別の意味も込められているようだ。ある日彼女は見知らぬ人から連絡をもらう。道路拡張のために切り倒された榛の古木の知らせだった。すぐに現地へ飛び、皮をはぎ、木の皮を湯で炊きだす。「木の精」が現れてくる。

 「榛の木が長い間生きつづけ、さまざまのことを夢みてすごした歳月、烈しい嵐に出会い、爽やかな風のわたる五月、小鳥たちを宿してその歌声にききほれた日々、そして、あっという間に切り倒されるまで、しずかに、しずかに榛の木の生命が色になって、満ちていったのではないでしょうか。」

 一本の木が一生をかけて培ってきた生命が、一つの色に変化する。これもまさに「一色一生」ではないだろうか。

 志村は多くの「師」にも出会っている。商売を維持していくのが困難で化学染料に流れてしまう紺屋が多い中で、伝統を守り続ける片野元彦が言う。「化学染料と薬品は従来の方法からみれば百歩を一歩にかえてしまう簡便さを持っているが、生命ある色を染めることは不可能であり、生命ある色は生命あるものから生まれて来るものである。」

 二人の子がいるのに離婚して、織物で生計を立てたいと思ったときに、陶芸の河井寛次郎に言われる。「この道は厳しく生半可な決心でやっていける仕事ではない。子どもを抱えながらの片手間では材料の浪費、時間の浪費。創作の道は間口は広いようにみえるけれど、一歩踏み入れれば、大変なものだから」だが、木工の黒田辰秋が「私はあなたに織物をすすめることもやめさせることも出来ない。ただ、もしこの道しかないとあなたが思うなら、おやりなさい」と言ってくれる。

 ある意味、志村にとって最大の出会いは、母だと言えるだろう。結婚して子どもを得てから織物に目覚めた。だが、幼い子ども、医家の煩雑さ、種々の桎梏により諦めざるを得ない。その想いがふくみに伝わったのか。黒田は、工芸の仕事は「運・根・鈍」だと言う。「運」は「自分にはこれしか道がない」と思うこと。「根」は粘り強さであり、「鈍」は材質を通しての表現である工芸のことだと志村は解釈する。他に道はないという覚悟が出来たとき、道は極まる。そこから本当の道が始まるのであろう。


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