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2013年10月25日

『歴史をかえた誤訳』鳥飼玖美子(新潮文庫)

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「一語の誤訳が世界を変える!」

 「もしたった一語の日本語を英訳する仕方が違っていたら、広島と長崎に原爆が投下されることはなかったかもしれない」
 歴史に「〜たら」や「〜れば」は禁句だと言われるが、この一文の持つ重みと恐ろしさは、想像を絶するものがある。数十万人の命を奪い、過去、現在、未来において人々を苦しめている原爆が「たった一語」の英訳のせいで落とされたのならば。

 鳥飼玖美子の『歴史を変えた誤訳』では、興味深いどころか、恐ろしい「誤訳」の例が豊富に紹介されている。前記の例で言うと、これは当時の鈴木貫太郎首相のポツダム宣言に対する発言のことだ。鈴木は「静観したい」と考えていたようだが、戦争を完遂する雰囲気の元、もっと強い言葉が必要だった。それで「黙殺」を使った。これを日本側が「ignore」と訳し、連合国側がそれを「reject」と解釈したらしい。

 もちろん、この微妙な訳語がなくとも、他の多くの理由があり原爆が落とされたのかもしれない。だがそれでも、例え数パーセントの確率でも、落とされない可能性があったのならば、どんなに悔やんでも悔やみきれないだろう。それほどに通訳、翻訳は難しい。同じ言語を使用していても解釈に齟齬が出るのは珍しいことではないのだから、2言語間の意思の疎通となると、気の遠くなる話である。

 「善処します」(いかにも日本のお役人的言語だが)との発言に対し「I’ll do my best.」と通訳したり、「ハリネズミ」を「賢いネズミ」と通訳したりして、大変な外交問題となった例。「オフレコ」の解釈の違いや、英語のキーワードの翻訳にまつわる難しさ等、様々な例を挙げて、綿密な調査や判断と共に、鳥飼独自の見解が示されている。

 笑い話としか言えないような例も紹介されているが、とても笑えない話もある。私たちの世代にとっては非常に懐かしい、反戦歌手のジョーン・バエズが来日した時、コンサートで彼女が「ナガサキ・ヒロシマ・・・・・・」と発言したのに、通訳は「この公演はテレビ中継されます」と訳し、「私は自分の払った金をベトナム戦争をまかなうために使われたくないので、税金を払うのを拒みました」と言うと「米国では税金が高い」とやったそうだ。しかもこれがテレビで流れたらしい。

 結局のところ通訳者の取るべき立場は二つあるようだ。発言者に寄り添い、言わんとしているところを最大限読み取り、それを伝える。この場合、逐語訳とはならず、意訳することとなる。もう一つは、例え通訳者がどう思おうとも、発言者の言葉をそのまま伝える立場だ。例えその一言によって戦争になろうとも、発言されたことを明確に伝えるという考え方だ。

 鳥飼の立場は、通訳者というのは「発言者になりきるのが通訳の厳然たる使命」であり、「そこにいても、じつはいない、透明な存在なのである。」と考える。それが嫌になったら「通訳をやめるしかない」という厳しい倫理観を示している。ここまで考えなければ、迷いが出て中途半端な通訳になってしまうのかもしれない。

 種々の形でグローバリゼーションが進む中、この本は多くのことを示唆してくれる。だが私にとっては、著者の以下の言葉が最も説得力を持って響いてくる。「通訳にせよ翻訳にせよ、最終的には母語の能力が決定的な要素を持つ」


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2013年10月13日

『ロスト・トレイン』中村弦(新潮文庫)

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「幻の廃線跡を走る汽車」

 中村弦の『ロスト・トレイン』を読み終えた時、宮崎駿の引退が悔やまれた。まだ「風立ちぬ」は観ていないが、宮崎は種々の作品で、人と自然との関わり方について、問題を提起してきた。『ロスト・トレイン』も現代文明と自然とのあり方を私たちに考えさせてくれるし、何よりも「向こう側」の汽車の映像は、アニメーションにこそ相応しいと思えてならないのだ。   主人公の牧村は、幼い時に暮らしていた街の面影を追いかけ、次に廃墟を訪れ始める。最終的には鉄道の廃線跡に興味を持ち、時間ができると廃線跡を歩いている。そんな時、年季の入った鉄道ファンである平間と出会い、鉄道や廃線について色々と教えてもらう。平間は一つの伝説を語る。「日本のどこかにまだ誰にも知られていない、まぼろしの廃線跡がある。それを見つけて始発駅から終着駅までたどれば、ある奇跡が起こる。」

 ある日平間は忽然と姿を消してしまい、牧村は平間を捜し回る。その途中で知り合った倉本菜月と共に、平間の痕跡を追い求める。鉄道に関する知識が至る所にちりばめられていて、鉄道ファンのいわゆる「テツ」にとっては、たまらない作品であろう。私自身は鉄道にそれほどの思い入れはないが、それでも小さい時にトンネルに入る前に窓を閉め忘れてワイシャツに煤が着いてしまったり、通路に新聞を敷いて座ったり、蒸気機関車に乗って学校に通ったりした記憶は懐かしい。

 平間の足跡を探し求める内に、牧村たちは平間が伝説の廃線跡を発見し、「奇跡」を見に行ったに違いないと確信する。やがて彼等も東北地方にあるその幻の廃線跡を発見し、歩き始める。そこで「向こう側」の汽車と出会い、終着駅では「奇跡」を目撃し、彼等もその汽車に乗り込んでしまう。終点まで乗ると、向こう側に行ってしまい帰って来られなくなるが、手前の駅で降りるとこちら側に戻ってこられるという、究極の選択に迫られる。

 「奇跡」とは何であり、彼等の選択が何であったかは、書かないのがマナーであろう。東北地方の片田舎を走るこの幻の汽車は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を連想させる。だが賢治の作品の汽車は「死者を運ぶ」ものである。それ故にカンパネルラは降りることができずに、ジョバンニは降りてしまうのだ。だが『ロスト・トレイン』は死者を運ぶ汽車ではないようだ。平間は確かにこの列車に乗っているのだが、悲しい様子は見られない。廃線跡のトンネルでこの汽車とすれ違う時、牧村は平間と話をする。平間によると「向こう側」の世界は一種のパラレルワールドであり、彼はこちら側の現実に何か違和感を感じていて「自分がほんとうの自分でいられる場所が、どこか遠くにあるような気がして、そこへ行くことができたらと無意識のうちに望んでいた」そうである。つまり平間は今幸せなのである。それ故に牧村や倉本の選択は難しくなる。

 登場人物の心境描写に浅い面があり、最終決断のシーンも少々安易に見えるが、資料を駆使した臨場感のある構成は楽しいし、ジブリの森を散策するような廃線歩きも五感に訴えてくるものがある。秋の夜長に、本書で旅を楽しんでみるのも悪くない。


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