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2013年04月30日

『神の手』久坂部羊(幻冬舎文庫)

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「安楽死は必要か?」

 安楽死を見届けた人を二人知っている。一人はご主人の、もう一人は友人の安楽死を経験していた。もちろん合法化されているオランダでの出来事だ。それを話してくれた二人の表情に曇りはなかった。家族や友人を招いて、楽しい食事をし、好きな音楽をかけて、皆に囲まれて旅立つ。ある意味理想の死に方かも知れない。しかし、全てがそのようなケースとは言えないだろう。家族の意見が割れたり、本人の意思の確認が難しかったり、種々の状況が考えられる。

 久坂部羊の『神の手』は、安楽死法制定をめぐる物語である。医療問題を扱う作品はフィクション、ノンフィクションを問わず多いが、この作品は作者が現役の医師であり、しかも老人医療や終末期患者の専門家であるので、非常に臨場感に満ちている。フィクションでありながらも、現実を見事に反映している部分が多い。

 主人公は白川という外科医で、21歳の末期癌患者、古林章太郎の見るに見かねる苦痛と、忙しくて殆ど来られない母の代わりにずっと付き添っていた叔母のたっての頼みのせいで、章太郎を安楽死させる。ここから全てが始まる。医師、政界、官界、ジャーナリスト、メディア等が安楽死法推進派と反対派に分かれて、権謀術数の限りを尽くす。推進派は、医師会を解体し、新たな組織を作り、政界に働きかけて、法案を通そうとする。その陰には、政界の長老が存在し、彼を動かしているのは「センセイ」と呼ばれる謎の人物。

 このように書くと、いかにも典型的なエンターテインメント小説のように見えるが、そうではない。もちろん、「センセイ」の正体は最後までなかなか分からないし、後半における事態の展開の早さには、推理、サスペンスの要素も見られるが、白眉は主人公の設定方法だ。白川は、安楽死が必要な場合があると言うことは認識している。だが、簡単に安楽死法の成立に賛成できない部分もある。逆に阻止派からも接触を受ける。何はともあれ、安楽死を実施した医師だからだ。

 白川は迷う。章太郎を安楽死させた判断は決して間違っていないと信じながらも、阻止派から心の底では厄介払いという意識がなかったかと責められ、真摯に自己と向き合うと、その疑念を払拭できない。家族の判断も絶対とは言えない。「安楽死を考えるとき、この遺族の気持のぶれがもっとも厄介な問題だ。患者が苦しんでいるときには、見るに堪えないから早く楽にしてくれと懇願し、患者が死ぬと、あれで良かったのかと悩みだす。安楽死を求めるならあとで悔やまない。後悔するなら安楽死は求めない。どちらかにしてほしい。」現実そのものではないか。

 白川は活躍する「主人公」ではない。時として殆ど忘れられていることもある。だが、常に安楽死に対して全身全霊で考える姿勢を崩さない。この白川の姿勢は、作者の考えそのものではないだろうか。安楽死は必要な場合がある。しかし、それを安易に考えてはいけない。行政も医師も家族も、決してそれを利用してはいけない。そのためにはどうすれば良いのか。安楽死にまつわる根本の問題を、白川は考え続ける。

 「子どもを苦しませるのもいや、死なせるのはもっといや」ここで思考停止し、当てのない治療を続けるのは親のエゴか。「この国を律しているのは、正義でも理念でも経済でもない。ただの”空気”だ。古くは戦前の軍国主義から、最近の自己責任論やグローバリズムまで、日本を動かしてきたのは、常に社会を覆う”空気”だ。」KYなどという言葉が流行る国だから、言い得て妙だ。白川と久坂部が我々に突きつける課題は重いが、一刻を争う問題でもある。


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2013年04月27日

『天安門』リービ英雄(講談社文芸文庫)

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「「かれ」は何者なのか?」

 リービ英雄はアメリカ人だが、長年日本に住んで日本語で作品を書いていることは知っていた。だが、彼が少年期に台湾に住んでいたことは知らなかった。『天安門』は5つの短編が載っている作品集だ。私小説的作品が多いが、種々の意味で非常に興味深い。アメリカ国籍を持ち、今は日本に住んでいる「かれ」が、中国を訪れる。少年期を過ごした台湾にとって「大陸」は特別な存在だ。「かれ」の意識は、アメリカ、日本、台湾、中国を彷徨い出す。

 「越境」という言葉で語られることの多い作者だが、越える境は国や言葉だけではないだろう。「かれ」と自己の境、過去と現在の境、事実と虚構の境、エッセイと小説の境、数々の境をリービ英雄は越えていくようだ。

 「天安門」で台湾時代の回想が描かれる。後ほど父が再婚することになる女性との出会い。紹介された瞬間に「かれ」は、お母さんはどこにいるのかと気になる。その後母を探しに行き、母の寝室の「フスマにノックしようと」するのだが「先に黒髪の女と握手をさせられた指がフスマに当たる直前に、かれがその手をひいて」しまう。これは事実だろうか。大きくなった「かれ」が母に対する罪悪感により作り出した偽の記憶ではないのか。だがそれも一つの「真実」ではあるだろう。事実は一つしかないが、真実はいくらでもあるのだから。

 「光復大陸」、大陸を回復せよ、と聞いて育った「かれ」が大陸へ行き、毛沢東の遺体を見る。父の所に来ていた老将軍達を島に追いやった毛主席。老人達が焦がれていた大陸を我が物にした男。「光復大陸!」の30年後にやっと到達した大陸の象徴。見物人の流れを滞らせて「かれ」は「マオ」と叫ぶ。「責めているとも、乞うているともつかない、英語にも北京語にもなっていない、単なる名前を叫びだした。」「かれ」の半生の凝縮である。

 「満州エクスプレス」では「安部先生」の遺族と、安部先生がかつて満州で暮らした家を探す旅が描かれる。かつて安部先生の芝居の翻訳を手伝ったのが縁である。もちろん安部先生は、安部公房のことである。安部先生の弟が、かつて住んでいた家を発見した後、遺族は日本へ戻る。しかし、「かれ」はカメラマンと共に『終わりし道の標べに』の冒頭に現れる「まがりくねった粘土塀」を探しに行く。不機嫌な運転手をなだめすかしながら探し回り、最後にはその風景と出会う。『赤い繭』の文章をちりばめながらの旅は、安部公房フアンには、作家の原点を視覚的に捉えることのできる、貴重な体験となっている。

 「ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行」では、作者同様ユダヤ人の血が流れているヘンリーが、大陸の西方で、一千年前にユダヤ人が住み着き中国人と化してしまった話を聞く。その痕跡を見つけたいと、古い都を訪れる。方々で尋ね歩き、最終的に「シナゴグの井戸」の跡と出会う。周りは中国語を話している台湾で宣教師の授業を英語で受け、日本では「がいじん」と囃し立てられ、中国人になったユダヤ人の存在を知る。ヘンリーは日本語で思う。「がいじんが、がいじんではなく、なった。」だがヘンリーは最後に子供から「What’s your name?」と聞かれ、「答えよう、と一瞬思った。が、喉から何のことばもでなかった。」何か明確なものになりたいという、切ないまでの想いが伝わってくる。

 「自分探しの旅」と言葉でいうのは簡単だ。だが、実際はそれほど簡単なものではない。国際的と言うと聞こえは良いかも知れない。だが無国籍というとどうだろうか。いくつかの国の中で揺れている場合はどうか。中国語、日本語、英語が錯綜するリービ英雄の『天安門』は、ITの発達によりある意味「国境」という概念が薄れていき、新たな世界の誕生を予感させる今世紀にふさわしい一冊である。


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2013年04月21日

『充たされざる者』カズオ・イシグロ(ハヤカワepi文庫)

充たされざる者 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「「充たされない者」は誰か?」

 「才能」という言葉が好きではない。これは「才」ある者の真の価値を隠してしまうからだ。あの人は才能があると言った時点で、何か納得してしまい、その人の能力に関しそれ以上考えることをやめてしまう。そう、「才能」はある意味で思考停止を導く言葉だ。だが、カズオ・イシグロの『充たされざる者』を読むと「何という才能だ!」という言葉が漏れてしまった。彼の作品を全て読んでいるわけではない。だが、数冊読んだそれぞれが全く違った構想の下に書かれ、それが見事な仕上がりとなっている。この発想の多彩さと筆力は見事というしかない。

 新しい作品を読むと、頭の中の引き出しに入っている、既に親しい作家達の筆致と比較してしまいがちだ。知っているどんな作家達とも違った作品に出会うとわくわくするし、似た作品だと比較しながら読む楽しみがある。しかし、似ているようで違う作品というのは、どうにも落ち着かない。『充たされざる者』の主人公ライダーがなかなか目的地に着かないあたりは、カフカの『城』を思わせるし、町に流れる倦怠感や諦念はジョイスの『ダブリン市民』の持つ空気と共通している。しかし、それらの比較はこの作品の理解を助けてはくれない。

 語り手のライダーは世界的に有名なピアニストで、中欧のある町に招待される。その町は何か大きな問題を抱えていて、ライダーの来訪が解決の切っ掛けとなることを期待している。だが到着当初から違和感に満ちている。ライダーは予定通り着いたつもりだが、どうやら遅れたらしい。初めてのホテルのつもりが、その部屋は「その昔、イングランドとウェールズの境にあったおばの家で両親と一緒に二年間暮らしていたとき、自分が寝室として使っていた部屋ではないか。」と思い出す。

 老ポーターのグスタフに頼まれて会いに行った女性ゾフィーと、少年のボリスは、記憶がよみがえってくると、ライダーの妻と息子らしい。街や建物や人々も、見覚えがあるものもあるが、時により記憶が定かではない場合もある。これはライダーの記憶が曖昧なせいか、それとも彼が疲れすぎていて、状況をきちんと整理できていないのか。ライダーは自分の予定を確認し、重要なものから片づけようとするが、次から次へと別の用件が入り、思うようにいかない。
 
 ホテルの支配人のホフマンが中心となり、アル中のブロツキーの再起とライダーの招聘により、この町にカンフルを打とうとしていることが分かってくる。だが最後までこの町の問題が何であるのかは分からない。ライダーはそれを見つけようとしたり、話を合わせようとしたりするが、全ての事は順調に進まない。貴賓として招待されているはずのライダーの両親も来ない。錯綜したライダーの記憶が描く妄想世界なのか、ライダーがパラレルワールドに迷い込んだのか・・・・・・

 この作品に関し、評論家は賛否両論のようだし、訳者は非常に訳しにくい部分があったと告白している。だが、文庫本で1,000頁近い量の作品なのに、飽きさせない麻薬のような魅力がある。『充たされざる者』とは、読後の読者自身であるかも知れない。種々の読み方ができようが、私たちが「充たされる」ためにはどうすれば良いかを考えさせてくれる「反面教師」と読むのは、穿ちすぎだろうか。


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