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2013年02月28日

『サードカルチャーキッズ』デビッド・C. ポロック、ルース=ヴァン・リーケン(スリーエーネットワーク)

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「二つの文化の狭間で揺れる子どもたち」

 サードカルチャーキッズ(TCK・Third Culture Kids)という言葉をご存知だろうか。「第三文化の子ども」とは「発達段階のかなりの年数を両親の属する文化圏の外で過ごした子どものこと」である。ただし「第三文化」とは「第三世界の文化」のことではない。例えば私の勤務しているパリのインターナショナルスクールには、常に日本人生徒が数十名在籍している。彼らの両親が共に日本人だとすると、日本の文化が「第一文化」で、現地のフランスの文化が「第二文化」である。そしてその「二つの文化の間の文化」で育つ子供たちが「第三文化の子供たち」であるというのが、社会学者のウシーム博士の定義である。つまり私の教え子たちのほとんどがTCKであるということになる。 

 彼らはどのような特徴を持っているのか。豊富な異文化体験のおかげで世界観が広がる一方、自国の文化を知らず、忠誠心が無いという点も持ち合わせている。新しい環境に適応する能力があり、偏見にとらわれない反面、周囲との違いを意識し、不信感を持ち続けるTCKがいる。本書にはそのような例が豊富に引用されている。

 ソフィーの育ったアフリカのマリの村では、通りすがりに男女の区別無く挨拶をすることが礼儀だ。NYの大学に入学したとき、警察によるレイプ防止セミナーが開かれ、警察官が「他人と眼を合わせてはいけません。暴行した後、犯人は女性が目で誘ったと言うことがあります」と言う。しかし、ソフィーはそれまで行き交う見知らぬ男性一人一人に微笑みかけていた!
 
 シンガポールで育ったアメリカ人のエリカは、アメリカに戻ったときに違和感を感じる。「なぜみんなアメリカンフットボールでどのチームが勝ったかなどということばかりに騒ぎ立て、ボスニアやルワンダで起こっているような政治不安や暴力に無関心であられるのだろうか?」焦燥感がつのり、大学院をやめて「故郷」であるシンガポールに帰る。だが、仕事にしろ生活にしろ、駐在員の両親と共に暮らしたときとは環境が全く違う。結果的にエリカはアメリカの両親に泣きながら電話する。「二つのかけ離れた世界があって、私、その間で育ってしまったみたい。やっとわかったの、両方とも私の属する世界じゃないってことを」

 インドで育ったドイツ人のマリエラは、ガーナのNGO系病院で働いているとき不思議な事に出会う。ドイツから派遣されてきた新しい医師の書く処方箋を、診察室から出ると皆捨ててしまうのだ。医師は処方箋を渡すときに、空いている左手を使っていた。マリエラはインドでの経験を生かし、ガーナでも同じではないかと判断し、医師に向きをかけて右手で処方箋を渡すように勧めた。インドでは左手は不浄の手だからだ。すると、処方箋を捨てる患者はいなくなった。

 他にも数多くの興味深い実例が紹介されている。そして、不均等な成熟、思春期の遅滞、反抗期の遅滞等もTCKの特徴であると言う。だがこれは帰国子女だけに関することであろうか。前述したウシーム博士は、近年の研究でTCKの定義を「親に伴って別の社会に移動する子どもたち」とした。ならば、関東圏から関西圏に移動した子どもや、青森から鹿児島に移動した子どもたちも、ある意味TCKではないのか。さらに、一つの学級の中でも、スポーツ得意組と芸能関係得意組の二つの「文化」の狭間で悩む子どもまでもその範疇に入れられるのではないか。

 何故なら、本書の後半に書かれているTCK問題の種々の対処法は、これらの子どもたちにも応用できると思えるからだ。例えば「もし子どもが人権を侵されていたり、またその危険性があると告白したら、仕事上の経歴にどんな影響が出ようとも、親はそれに介入する心構えを持たなければならない。」というのは、いじめ対策にも有効な考え方だろう。TCK体験を持つドイツ人のダークは、人生で一番良かったことはと聞かれて「こんな人生を送れたってことさ」と答えている。このような子どもを一人でも増やすためにも、本書は役に立ちそうだ。


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2013年02月11日

『文学フシギ帖』池内紀(岩波新書)

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「作家の「フシギ」満載の楽しい一時」

  本好きの者にとって、楽しい一冊だ。池内紀はドイツ文学者だが、エッセイストとしての方が名が通っている。エスプリの利いた、軽妙洒脱な文を書くが、この『文学フシギ帖』には彼の文学的趣味が存分に生かされている。北海道新聞に連載されたものに修正を加えて「─日本の文学百年を読む」という副題をつけて出版された。短いエッセイの集まりにしては、大きな副題だが、読んでいくと結構納得できる。明治から現代への流れが、しかも、私たちが文学史などで習うものとは違った流れが感じられるからだ。

 「はじめに」で池内は「この『文学フシギ帖』は、いつのころからかフシギをつくり出す研鑽にはげんできた人物の覚え帖である。」と述べている。「不思議」という言葉に不思議はない。しかし「フシギ」には不思議がある。聴覚では捉えられない、書かれて初めて分かる、言霊の持つ微妙な違和感が、私たちに何かを期待させてくれる。エッセイのタイトルを見るとその期待は更に高まる。「鷗外と高利貸」、「杢太郎のエロス」、「藤村と道化役」、「宮沢賢治の広告チラシ」・・・何とも興味をひかれる題が多い。

 今では読む人も少ないであろうと思われる作家たち、田澤稲舟、中里介山、平野万里、尾形亀之助、織田作之助、梅崎春生などが取り上げられているのも面白い。また、皆が良く知っている作家たちの、余り知られていないエピソードが楽しく、作家像の奥行きが出てくる。例えば、夏目漱石に「吾輩は狸である」という作があるらしい。何と『吾輩は猫である』と同時期に書かれているという。本当のタイトルは『琴のそら音』というらしいが、事実を知らない私たちは池内狸に化かされているような気になってくる。

 「高村光太郎の贖罪」では、『智恵子抄』の「抄」にこだわる。何故光太郎がわざわざタイトルに「抄」をつけたのか。光太郎と親しかった詩人の草野心平は「智恵子の『凶暴性を発揮した場合』の詩がないのを惜しん」だ。もしそれがあれば「更に残酷で凄烈な美」を加えたからだという。光太郎は智恵子と自分の日常に「狂気をもたらした何かのあることをよく知っていたのではあるまいか。」と池内は考える。「その贖罪の意識が哀しく美しいアイドル的智恵子をつくり上げた。」のではないかと。光太郎の心の襞に一歩近づけたような気がする。

 得意の池内流エスプリも充分に利いている。「ダメ男、尾形亀之助」では、尾形のダメ男ぶりを述べながらも、日本が「息あらく軍国主義へと駆け出していた時代」に、彼が詩の中で為政者を風刺しているのを見て「そこに語られているのは、文明によって文明が脅かされることのオカシサであり、『人のゐない街』は、ひたすらケータイに見入っている人たちの住む街とも、ぴったりかさなるだろう。このダメ男の詩は時代をするどく洞察して、予見性にあふれている。」と喝破する。

 全部で53名の作家が取り上げられているが、人口に膾炙した作品のみならず、日記や書簡等を読み込まないと分からない知識を惜しげもなく披露してくれるのは嬉しいことだ。また、現代作家の選び方には脱帽だ。池波正太郎、三島由紀夫、渋澤龍彦、手塚治虫、須賀敦子、開高健、寺山修司、村上春樹。何とも本好きの琴線に触れる選択である。作家も人間であるという、当たり前のことをしっかりと教えてくれる作品だといえる。


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