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2012年11月29日

『コルシア書店の仲間たち』須賀敦子(白水社)

コルシア書店の仲間たち →bookwebで購入

「「せつなさ」の溢れるエッセイ」

 本に関してはどうも時々天の邪鬼な癖が出る。人が良いといったのに、なかなか手に取ることができない。そして、後でとうとう読み始めた時に後悔する。何故もっと早く読まなかったのだろう、と。須賀敦子は私にとってそんな作家の一人だ。イタリア文学に詳しい友人から以前勧められたことがあるのだが、何となく出会いがなかった。須賀敦子には熱心なフアンがいると聞いたのも、一因となっている。誰かが夢中になっていると、そこに入っていけないのだ。

 『コルシア書店の仲間たち』を始めて書店で見たとき、何故か「コルシカ」書店と勘違いしてしまった。フランス人が「美ヶ島」(île de beauté)と呼ぶあのコルシカ島を舞台としたものかと思ってしまった。酷い話だ。『コルシア書店の仲間たち』は全く違う話である。戦後カトリック左派の拠点として存在した、コルシア・デイ・セルヴィ書店を舞台にしたエッセイである。

 詩人で司祭のダヴィデ、寡黙なカミッロ、作者の夫となるペッピーノ等が中心になり、カトリックの枠を越えた知的で過激な空間がそこにはあった。書店に集まる人々を描写したのが、この作品だ。そして、出てくる人々が何とも魅力的なのだ。仙女のような落ち着きを見せ、書店のパトロンでもあるツィア・テレーサは言う。「いちどでいいから、はじめからおわりまで、アイスクリームだけっていうディナーを食べてみたいわ。」

 ダヴィデは強烈な個性の持ち主(教会で「インターナショナル」を歌ったエピソードが出てくる)だが、その自信と過激さゆえに教会当局から忌避され、ミラノを追われる。悪性腫瘍によるダヴィデの訃報を作者が聞くのは、彼女が東京に戻ってからだった。上流社会出身のフェデリーチ夫人にかかるとルキーノ・ヴィスコンティも「あの男のつくる映画は、どうもしちめんどうくさくて。子供の頃は、あんなじゃなかったのだけれど」と片づけられる。

 アフリカ出身の貧しいミケーレは、せっかく勤め口を紹介してもらっても三日とたたないうちにペッピーノに電話をしてくる。「こんなところにいたら、ぼくは死んでしまいますよお。ぼくは、屋根のあるところでは働けない。空が見えないと、息がつまって死にそうです。」アルバイトをしても、夏のスーツを2着買ってしまい、暖房のための石炭を買う金がなくなる。絨毯売りという、太陽の下での仕事を楽しんでいたのに、或る日忽然といなくなってしまう。

 17歳のニコレッタは親の反対を押し切ってドイツ人のベルトと結婚するのだが、彼女の父親はユダヤ系ハンガリー人で、ベルトの顔はヒットラーそっくりである。ガッティの悩みは、70歳近い父親が、自分より年下の女性と結婚すると言うことだが、しかも彼女は妊娠しているのだ。とは言え、小さな妹が生まれると、ガッティはその子の世話に夢中になる。
 
 もちろんこの作品は、ミラノの特殊な知的社会の記録としても読めるし、ある種の階級に属する人々の構図も見えてくる。だが、『コルシア書店の仲間たち』の何よりの魅力は、描かれている人々の姿だ。決して妥協せず、頑固なまでに自己の生き方を貫く様子は清々しい。元気な時だけではなく、亡くなる人、いなくなる人、没落する人、終焉までもがきちんと描かれているが、この哀切は美しい。人が人として生きていくことの美しさも哀しさも、見事に顕現されている。


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