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2012年10月29日

『血液と石鹼』リン・ディン(早川書房)

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「エスプリの利いた大人の寓話」

 ブラックユーモアとも風刺とも違う。文学作品をジャンル分けすることが無意味だということを、見事に思い知らせてくれるのが、リン・ディンの『血液と石鹼』だ。40近い短編が収められているが、冒頭の作品では、一冊の外国語の辞書だけが置かれている牢獄に、一人の若者が放り込まれる。

 もちろん彼はこの外国語の知識は全くない。千ページにわたる辞書をいくら読もうとも、何も明確にならない。しかし、時間はいくらでもある。定義から定義へと言葉を渡り歩いているうちに「ある単語のおおまかな感触がわかったという確信が訪れることが」あった。「『父親』はいかにもよるべない、そして苛立った響きがするので、何か死んで腐ったものを思い浮かべた。」「『殺人』は花の名前だと推測した。」「『七月』は『八月』の意味だと思った。」結局「言うまでもなく、彼の推測はつねに間違っていた。」

 新しい言語を習得すると共に、彼は母国語を忘れていく。母国語は全て「おぞましい体験や屈辱」と結びついていたのだ。自分は新生し、全てを手に入れつつあると考えた。だが数十年に及ぶ精神活動から得られた確かなもの、それは「ただひとつ『辞書』だけだった。」その単語が表紙に印刷されていたからである。リン・ディンはこの小編を次のように終える。「結局のところこの囚人は、『囚人』という言葉の定義の上に指を滑らせ、それをまるごと暗記しているさなかにも、自分のことを読んでいるにすぎないことさえわからなかったのである。」

 一見するとばかげた作り話に見えるかもしれない。しかしよく考えると、言語と人間の関係を鋭く表現している。人が作り上げた言語が、人を作り上げていく。“ ! ”と名づけられた作品では、英語を一二度聞いただけのホー・ムオイが、その音だけをメモして、自己の英語を体系的に作り上げていく。be動詞もdoも知らないし、過去時制も知らないが、「発音はきわめて微妙な陰影に富み」、「痛みと竹についての語彙は膨大」で、「形容詞はすべて動詞として使うことが」できる。「I will hot you」とか「Don’t red me」というように。

 ホー・ムオイは偽教師ということで逮捕されるが、その時は「毎週三晩、何百人もの生徒を相手に、初級、中級、上級の英語クラス」を教えていた。教師歴は25年になる。この作品は次のように終わる。「インチキの英語でも、英語なしよりはいい。いや実際、本当の英語よりいいくらいだ—それはイギリスだのアメリカだのの現実なんかに対応していないのだから。」

 風刺が利いた作品ばかりではない。ある種の映画やハードボイルド物の名台詞を思わせる表現も頻出する。「ホテルの部屋に泊まる最初の晩はつねに浮き浮きするものである。何しろこっちは家を逃れてきたばかりなのだから。最後の晩もやはり(同様に)浮き浮きする。もうじき家に帰れるのだから。」、「結婚式の食事というのは概して失望させられるものであり、一方葬式の食事は期待以上のことが多い。」このような文を読むと、一人でほくそ笑んでしまう。人生の機微を言い表した箴言のようでもある。

 リン・ディンは1963年、ベトナムのサイゴン生まれであるが、1975年に偽名を使って国外脱出し、アメリカに移住している。種々の職業を経験し、詩や小説を書いているが、このような人生体験が彼に与えたものは何だったのだろうか。欧米人とも日本人とも違うこの作家の作品は、まるで大人のための寓話のような、不思議な空間に私たちを誘ってくれる。


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2012年10月09日

『原発アウトロー青春白書』久田将義(ミリオン出版)

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「原発作業員の証言」

 「福島」は「Fukushima」になってしまった。1945年に「広島」や「長崎」が「Hiroshima」、「Nagasaki」になったように。今も世界中が「Fukushima」に注目している。だが私たち日本人は何を通して「福島」を見ているのか。多くの人はメディアを通して福島を見る。少数の人たちは、現地まで足を伸ばすかもしれない。その度に主観的な「真実」を垣間見ることができるかもしれない。しかし、客観的な「事実」はなかなか見えてこない。久田将義の『原発アウトロー青春白書』は、そんな見えにくい事実を見ようと試みている。

 ここに登場するのは、福島県の相双地区、つまり「原発が日常にある街」で生まれ育ち、事故以前から原発作業員として働いている20代の若者たちの証言である。勉強に関心があるわけでもなく、本物のヤクザになるわけでもなく、地元で適度の悪さをしながら、金のために原発作業員として働く彼らゆえに、語る言葉には高級なレトリックなどはなく、却ってこちらの心に響いてくる。

 彼らは地震の直後、自分たちの経験から、原発で起こっている「事実」をかなり正確に把握している。仲間との情報交換により、すぐに避難する必要性を認識し、爆発を予想し、汚染水の垂れ流しを確認している。だが、メディアに頼る家族達はその緊急性を理解できない。健一は友人に電話で語る「ニュースで何言ってるかわからないけど、(親は)被曝する被曝するって言ってるけど、もう被曝してるって」政府や東電の対応が遅れ、メディアの流すニュースも後手後手へと回っている時に、彼らは正確に現状を把握している。そう、多くの人がもう被曝していたのだ。

 被曝の恐ろしさを知りながらも、彼らはまた原発へ戻っていく。もちろん金のためでもあるが、先輩の心に響く一言もある。「うちらは原発で仕事してたじゃん。原発作業員が原発の仕事しねえでどうする。訳のわかんない奴がやって何年もかかるんだったらうちらが行って早くやった方がいいぞ」メルトダウンを否定する報道に対し「『飛行機がぶつかっても大丈夫』とかウソでメルトダウンもウソで。全部ウソじゃねえか。」と憤る。

 作業前教育で放射能は怖くないと教えられ、事故後ただちに健康に害はないと言われ、被曝許容上限が変わり・・・彼らは何も信用できなくなる。ツイッターで情報開示していた作業員が解雇されたことや、彼らの複数が目撃した福島第二原発の爆発跡に関し著者が東電に尋ねても、回答は「そのような事実は把握していない。」、「そういったことは確認が取れない」だけだ。政府は昨年末に「収束」宣言を出す。彼らの仕事には何の変化もなく、何が「収束」なのか分からない。

 いったい「アウトロー」は彼らなのだろうか。確かに多少悪さもすれば、タトゥーを入れている者もいる。しかし、被曝を認識しているがゆえに、将来生まれてくるかもしれない自分の子どもの心配をし、避難したせいで死んだ飼い犬に涙を流し、自分たちは「使い捨て」ではないかと悲しむ彼らの姿を見ると、自分たちの利権や選挙のみを考え、原発をあくまでも残そうとし、未だに多くの人たちの不幸を創出している政財界の大人達こそ、文字通り「アウトロー」ではないかと思える。著者がこの書に「白書」(政府の公式の調査報告書)と名づけたのも、強烈な風刺ゆえか。

 健一の次の言葉を、高級なスーツに身を包んで国会議事堂の絨毯を踏んでいる人たちに聞かせたい。
 「政治とかわかんないけど、自民とか民主とかそんなのやってる場合じゃないよって思う。意味わかんないべ。それこそ一つしかないじゃん、やる事って。復興でしょ。それ、みんなでやればいいんじゃないかって思う。」


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