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2012年04月18日

『とどめの一撃』マルグリット・ユルスナール(岩波文庫)

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「命と愛の緊張関係」

 一冊の本の記憶というのは、どのようなものなのだろうか。ある人にとっては、それはいくつかの印象に残る文章で表されるかもしれない。またある人にとっては、プルーストの『失われた時を求めて』におけるマドレーヌのように、ある懐かしい(または忌まわしい)情景を呼び覚ますものとして存在しているかもしれない。私にとってある種の本は、色や皮膚感覚と密接に結びついている。

 1981年に初めてパリを訪れた時、偶然入った映画館でゲオルギー・シェンゲラーヤ監督の「ピロスマニ」を見た。グルジアの画家ニコ・ピロスマニを描いたものだったが、マルグリット・ユルスナールの『とどめの一撃』を読んで思い出したのはこの映画だった。記憶が似ているのである。読後に感じたのは雨色であり、寒いのか生暖かいのか分からない、まるで母ではない女性の羊水の中にいるような、心地よいながらも奇妙な違和感だった。

 「ピロスマニ」は静謐な作品ながらも、何かのメッセージというより、ピロスマニという人、いや彼の命そのものが伝わってくるような映画だった。『とどめの一撃』も舞台は第一次世界大戦とロシア革命下のバルト海沿岸地方という、政治的、歴史的要素の強い背景があるが、強く伝わるのは主人公たちの人生と命の切なさであり、運命に翻弄されながらも一瞬の輝きを見せる生の「人」である。

 主人公エリックの一人称で回想されるのは、彼の親友コンラートとその姉ソフィーとの物語である。エリックを愛するソフィーと、その愛情を素直に受け止めることのできないエリック。それが絶望的な戦いの中で展開する。エリックはシニカルで天の邪鬼な存在で「人がもっとも強く自分を拘束するのは、かならずしも美徳を目ざす方向へとはかぎらない。」と考える男である。「人間の優しさは、その周囲に孤独を必要とするものだし、不安定の中にも最低の平静さが必要だ。」というエリックに反比例して、ソフィーは異状と言えるほどの精神的昂揚と衰退を繰り返す。

 人は愛を失ったから絶望するのだろうか。それとも愛を得ることができないから絶望するのだろうか。それは現実的に愛を得たと思える瞬間があったかどうかの違いであろう。だが、手を伸ばしさえすれば簡単に愛を得られる可能性があることを嫌悪しながら、偶然愛に触れてしまった時にはその瞬間から愛を暴力的に忌避する関係からは、一体どんな種類の感情が生まれるのだろうか。いや、感情というよりは「絆」と言うべきか。ユルスナールは序で以下のように述べている。

 「書物の末尾でエリックとソフィーが再会するとき、彼らにとって交わす価値のあったごくわずかな言葉を通して私が示そうと努めたのは、官能的情熱や政治的忠誠の葛藤よりも強い、いや、満たされなかった欲望や傷ついた虚栄心からくる恨みよりもなお強いあの親密さ、あの類似、さらには、彼らがなにをしようとあれほど固く二人を結びつけ、それだけに彼らの受けた痛手の深さをよりよく説明するあの兄妹のような絆なのである。」

 そうなのだ、文学作品の末尾は間違いなく大切なのだが、この作品の結末においてユルスナールが言う「絆」の意味は重い。日本の2011年を象徴する漢字であった「絆」に、全く別の方向から光を当ててくれるのが『とどめの一撃』であり、タイトルの意味もここにおいて明確に理解されるのである。


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