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2011年12月26日

『私にとっての20世紀』加藤周一(岩波書店)

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「20世紀を理解するために」

 年の瀬は一年を振り返る事が多い。ついでに前世紀を振り返ってみるのも悪くない。歴史が「現在」である時はその姿を現しにくいが、それが「過去」となってきた時に、初めて我々にも理解できる形で見えてくる。もちろんそれでは少々遅いのだが、それとても凡人たる我々には簡単なことではない。慧眼の士の力を借りて、ようやく視界が開けてくる。

 加藤周一の『私にとっての20世紀』はそのための良い道標となる。戦争を体験した加藤は、戦争に無条件に反対する。「私の友達を殺す理由、殺しを正当化するような理由をそう簡単に見つけることはできない。だから、戦争反対ということになるのです。」偶然友人は死に、偶然加藤は生き残った。その友人を裏切ることだけはしたくない。一見個人的な理由に見えるが、子どもを殺す戦争は悪い、故に反対する、と彼が述べる時、それは普遍性を持つ。

 日本の国民が「民主主義に対してあまり熱心では」なく、戦争批判もしないことについて、現在が大衆的な意味で「戦前的な状況」であると分析する。新ガイドライン法案を成立させ、その先には憲法改正と徴兵が待っている。ヨーロッパ追随ではなく日本が独自の道をたどるきっかけの一つは「軍事力に頼らないこと」である。そして日本が他の工業国よりも環境破壊に考慮して、国際的な「南北関係にみられる豊かな工業国と貧しい南の非工業国、その格差を縮めることに経済力を使えば、新しい形の経済的な大国ということに」なると主張する。

 大震災と原発事故という二重の課題を抱えている日本にとって、重要な提言に思える。それを実現するためには、過去と向き合おうとしない姿勢を変えるべきであり、日本にしっかりと根付かなかった「自分自身の意見を主張することと、ほかの個人の意見を尊重する態度」が大切だと言う。

 知識人はそこでどのような役割を果たすべきなのか。ヴェトナム戦争時におけるカナダでの教職体験から、戦争批判の先頭に立つのは自然科学者、文学者、それに若干の社会学者であって、国際関係論者、歴史学者、政治学者たちは最後になったと証言する。戦争に反対する目的においては「その目的を達成するために科学的知識を、客観的知識を利用すべきであって、科学的知識のために倫理的判断を犠牲にすべきではない。」と述べる。「専門化が進んでいけばいくほど判断停止になる。判断停止は、政治社会問題については現状維持に傾く、だから保守主義が強くなる。」科学者である加藤故の発言であるが、今回の原発事故を巡る知識人の発言にもあてはめることができそうだ。

 社会主義の分析も非常に興味深い。ソ連の崩壊の後に生まれた現在の若者たちにとっては、ユーゴスラビアの内戦についての考察も含め、貴重な資料となっている。また加藤は「ナショナリズムはなくならない」と断言する。問題は「ナショナリズムと、広い視野からの国際的な協力関係を作り上げていく動きとはどういうふうに融和できるか」ということだ。そのために必要なのは、人種、宗教、言語等の要素を含む「それぞれのナショナリズムを平等に扱うこと」だ。

 文学の役割は、人生や社会の「目的を決める」ことだと言う。そして「その目的を達成するための手段は技術が提供」する。また文学は「価値体系を転換する事業」だとも言う。「感覚的直裁的なある経験を通じて価値の転換を行う」のが文学の特徴だとも。ならば、人生の価値を見つけられず、孤独に苦しむ人々が激増しているこの21世紀初頭で、映像文化の反乱による危機が叫ばれながらも、人々に価値を発見させてくれるものの一つが文学であるのかもしれない。今世紀のための課題と希望の書である。


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『稲垣足穂』稲垣足穂(筑摩書房)

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「星とヒコーキをこよなく愛した男」

 稲垣足穂の作品と出会ったのは高校生の頃だから、かなり前になる。しかし、時々無性にあの独特の文章に触れたくなる。疲れた時や、雑然とした世の中に倦んだ時など最適だ。特に『一千一秒物語』などは、大震災や原発事故によって疲弊しきった人々の心にとって、一服の清涼剤となるのではなかろうか。

 冬空は星がきれいだ。タルホは月や星との不思議な物語を紡ぎ出す。メルヘンの一種になるのだろうが、「メルヘン」というイメージはない。月と喧嘩したり、星を食べたり、荒唐無稽な話が多く、意味も分からない。強いて言えば、夢の中での出来事に似ているだろう。夢で起きることは、その時は普通だと思っていても、後から考えると不可思議なことが多いものだ。しかし、夢の中ではそれは何の不思議さもなく進行する。タルホの物語はそんな感じだ。

 次の一篇が全てを語っている。
A PUZZLE
— ツキヨノバンニチョウチョウガトンボニナッタ
— え?
— トンボノハナカンダカイ
— なんだって?
— ハナカミデサカナヲツッタカイ
— なに なんだって?
— ワカラナイノガネウチダトサ

 タルホはヒコーキと星に夢中だった。『横寺日記』には星座への想いが満ちている。「花を愛するのに植物学は不要である。昆虫に対してもその通り。天体にあってはいっそうその通りでなかろうか?」道の途中で星を見上げて飽きないタルホの姿が髣髴としてくる。博識ながらも、純粋に星との交歓を楽しむ姿でもある。「ただ綺麗なものとして花を見るのと、何属何科においてそれを観るのと、どっちが正しいのであろう?」「吾々の純粋経験はもともと翻訳不可能なものでないのか。どうせこうであるなら、ひと通りのことは心得た上で、『知識とは見掛けのものに対する説明に過ぎぬ』と思う方が賢明かもしれぬ。」

 芸術を論じても潔い。芸術至上主義を標榜し、高踏派であることを宣言する。「われらは何のためにというさもしいことで成立している空間ではなく、それはただそれだけであることで無限に開展してゆく時間であるからしていつにおいても芸術至上主義である。しかもわれらの望みは昇天にあるからしてあくまで高踏派である。」タルホはこれを日本人の美学とも結びつけている。「能楽、芝居、清元、角力」から「お寺の塀のそばのさむらいたちの切り合い」まで
「耽美の心意気」だと言う。

 『少年愛の美学』のA感覚V感覚という語彙も懐かしい。輪郭の明確なものも、ちょっとオブラートに包むだけで、神秘性を獲得する。女性も宗教も皆そうやって神秘性を保ってきたのではなかったか。それが何でもあるがままに描かれるようになってきて、物事が明確になったかというと、そうではない。却って表面が明瞭になった分、本質が見えにくくなってきている。

 タルホの文学は曖昧かもしれないし、中途半端だと考える人もいるだろう。だが、「虚実皮膜論」を持ち出すまでもなく、人や物事の真の姿は、二元論の境界にある仄かな、かそけき光の中に存在するのではなかろうか。タルホはそんな世界の住人なのだ。


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2011年12月18日

『小説の方法 ポストモダン文学講義』真鍋正宏(萌書房)

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「読んで楽しい文学理論書」

 文学の理論書というと、堅くて、難しいことが書いてあって、睡眠導入剤にはうってつけだが(失礼!)一般の読者が読んでも面白くないと思われがちである。高校生に文学を教えている手前、そのような本も結構読むのだが、真鍋正宏の『小説の方法』は面白く、楽しい。種々の理論も紹介されているし、真面目な理論書なのだが、一冊の小説を読むように一気に読めてしまう。
 真鍋は序章で読書の意義を「文学によって、体験しえない超世界を疑似体験し、想像力を鍛えるというような効用を挙げることができよう。」と述べている。これは少し前までは当然のことであって、誰でもそう考えていたのではないだろうか。しかし、コンピューターの発達によって、多くの人がそこから情報を得るようになり、映像文化が私たちの視覚を席巻した今、当たり前の読書の意義が忘れられてきているように思える。

 この作品は第一部が「小説を読む楽しみ」、第二部が「小説を書く楽しみ」となっている。「楽しみ」などという語を使うところが、理論書らしくなく、誘われる。まずは「テクスト」の概念について説明がある。「テクストは、書かれただけでは存在しえず、読者に読まれることによって、初めてこの世に産声を上げるものと考えるのである。」この後主に西洋を中心とした文学者の理論が紹介されるのだが、全ては私たちの「読み方」へのアドバイスであり、「楽しみ方」のヒントとなっている。

 結局の所、私たちは作家が明確な形として書き上げた一つの「作品」を理解しようと読むのではなく、作家がたたき台として提出した「作品」未然のものを、私たちが読むことによって完成させるのである。「読む」という行為無しに文学作品は完成しない。幾通りもの読みがあれば、幾通りもの作品が現出する。読者は受動的に作品と関わるのではなく、能動的に作品を完成させる存在となる。ここに読む楽しみが現れてくる。

 第二部では、小説の種々の要素—ジャンル、時間、人物造形等についての解説がある。第一部同様、一般読者が持っている読書行為に対する概念を変えてくれるような、西欧の文学理論が紐解かれる。ここでも強調されることは「想像力」の問題である。映像文化に対抗するために、小説は「想像力を楽しむ部分を拡張すべき」であると述べ、「小説は、想像力を楽しむ分野であり、決して映像化できないものなのだ」と断言する。ヒットした小説の映画化が小説ほど面白くなかった、という例は枚挙に暇がないのだから、うなずける。

 この一冊が文学理論書であるのにもかかわらず面白いのは、大学での講義を元にしていることや、真鍋が西洋の文学理論書を原書ではなく翻訳で読んでいることにも理由の一端はあるだろう。だが、それよりも、自己の想像力を使用する力が衰えてきている現代人に、想像することの楽しさを再認識させてくれる事が大きい。さらに、一部の専門家だけが読んで理解するであろう「文学理論」なるものを、分かりやすい言葉で説明し、一般読者と文学研究者との溝を埋めてくれたことも、重要な要素であるに違いない。


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