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2011年10月21日

『永遠の0(ゼロ)』百田尚樹(講談社文庫)

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「痛切なる愛の物語」

 先日知人から熱心に紹介された本を借りて読んだ。タイトルが『永遠の0(ゼロ)』であり、第二次世界大戦の名機である零戦にまつわる物語であることは知人から聞いた。だが作者の百田尚樹を知らなかったし、戦争物はそれほど好きではなかった。純粋に歴史書ならばかまわない。中途半端な「歴史風読み物」はよほど作者の力量がないと、心に残らないからだ。

 結果から言えば、この作品は面白かった。というより、ずいぶんと泣かされた。先日惜しまれながらも鬼籍に入ってしまった児玉清が、解説で「僕は号泣するのを懸命に歯を喰いしばってこらえた。が、ダメだった。目から涙がとめどなく溢れた。」と書いているのも頷ける。

 ストーリーの基本は、フリーライターの慶子と、その弟でニートである健太郎が母のために、特攻隊で亡くなったと聞いている実の祖父(つまり母の父親)宮部久蔵の生前の姿を探すために、生き残っている人々に会いに行くというものだ。苦労して探し出した人々の証言は信じられないほど矛盾している。臆病者、天才的な技術を持った飛行士、命の恩人、残虐、優秀な教官……

 二人はこの矛盾した情報に苦しむ。だが、読み進めると、矛盾していた宮部久蔵の姿が、明確な焦点を結び始める。その先には、ほとんど一緒に生活できなかった妻と子への愛がある。証言してくれた人々にも、それぞれに切ない愛の物語がある。複雑に絡み合ったそれらの要素が、祖母の再婚相手である現在の祖父と宮部久蔵の関係を発見することにより、最終章で見事につながってくる。

 良い作品としての一つの条件が、多角的な読みを許容することであるならば、この作品は間違いなく良作であるだろう。飛行機が好きな人は、零戦の栄光と滅亡を読むことだろう。歴史に興味のある人は、第二次世界大戦の一つの姿を明確に読み取ることだろう。ドラマが好きな人は、戦時中の様々な人間模様を感動と哀切と共に読むだろう。反戦主義者ならば、無知蒙昧な高級参謀たちによってどれほど被害者が増えたのか、憤りをもって読むに違いない。

 しかし、『永遠の0(ゼロ)』はやはり愛の物語なのだ。家族に対する宮部久蔵の愛の強さと大きさに、心を打たれない者はいないだろう。インターネットやメール等で人とつながる手段が増えた現代において、人とのつながりが減少しているように思えるのは私だけではないだろう。人が人を愛することの大切さという、口に出すのも必要ないような原則が忘れ去られているように見える今。そんな時こそ、この作品は間違いなく一服の清涼剤としての価値がある。


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2011年10月09日

『風のCafé アラブの水音』西野鷹志(響文社)

風のCafé アラブの水音 →bookwebで購入

「洒脱なフォト&エッセイ」

 西野鷹志さんと初めてお会いしたのは、20年ほど前だろうか。日本に一時帰国した際に、当時パリで親しかったファッションジャーナリストの竹花さんの縁で、FMいるかというラジオに出演したことがあった。その関係で一度お会いしたのだが、明るく、どこか人を引きつける魅力的な印象が残っていた。

 今夏、函館の市会議員を3期務めて引退した竹花さんが、パリと縁のある人たちをお誘いして私たちのために夕食会を企画してくれた。そこに西野さんもいた。パリ好き、ワイン好きの皆さんと楽しいひとときを過ごしたが、翌朝西野さんが突然宿泊先に訪ねて来られた。ちょっとはにかみながら手渡していただいたのが『風のCafé アラブの水音』と『風のCafé 木漏れ日 函館』というご自身のフォト&エッセイ集だった。

 好きな作品を前にした時によくあるように、読むのがもったいないという感がして、パリに戻ってからゆっくりと鑑賞した。まずは写真が素敵なのだ。写真は一瞬の芸術と言われるし、確かにある「瞬間」を捉えるという面はある。だが、西野さんの写真は少し違う。ストーリー性があるのだ。一枚の写真が何かを語っているというより、前後にあるストーリーが一枚の写真から溢れてくる。

 ライカ片手に世界中を巡って撮った写真だが、例えばプラハの夜の街角。アンティックな街灯を背に歩く二人の男。どこかの酒場で一杯やってきて、自宅へ戻るところであろうか、何か楽しそうだ。彼らの話し声が聞こえてくる。話題は、酒場の看板娘の美しさか、帰りの遅い亭主に怒っているであろう女房の御し方か。とにかくこちらの想像力を刺激してくれる。『ハリーポッター』の中に、動画写真(?)のようなものが登場していたが、あれを思い出させる。とは言え、西野さんの写真の動きは、もっと繊細で幻想的だが。

 エッセイも面白い。彼の人柄が思う存分に味わえる。ミラノからヴェネツィアに発つ時にホテルのクリーニングが遅れ「洗ったばかりのパンツを振りまわして水を切り」ドライヤーで3分ほど乾かした。だが「綿パンの尻にうっすらと地図模様が浮かびあがっている。バッグで尻をかくし、蟹のような横歩きでファッションの街から水の都へ機上の人となった。」。その後に「ウィーン三百九十円、ミラノ二百三十円、ダブリン二百二十円、西安百三十円、札幌三百円。」とパンツのクリーニング代を比較し、「高いウィーンを別にすれば、国際相場は三百円以下だ。」とする。こういった良質のユーモアには、なかなか出会えない。

 コペンハーゲンでモディリアーニの肖像画「アリス」に出会い「見たい見たいと願っていた画に思いがけず出会うのは、滅多にないほどのいい女に会ったごとくで、生きるのが楽しくもあり、ちょっぴり切なくもある。」と思う。香港の蚤の市で掘り出し物をあさり「土地の本来もっている匂いにふれ、歴史的にも文化的にも何らかの手掛かりを得ることがある。」と考える。蚤の市あさりの趣味がない私でも納得させられる。

 反骨精神もある。ザルツブルク音楽祭で小澤征爾指揮、ウィーンフィルのシューマン交響曲第二番を聴き「万雷の拍手が鳴りやまぬが、いまひとつ物足りない。小沢の熱演はオーバーで派手、作曲家の苦悩と別世界にあったと思う。棒ふりも時には控え目に。」と断ずる。付和雷同せず、自己の感覚を大切にする。小気味の良い情景だ。

 写真もエッセイも良いが、その両方を鑑賞していくと、楽しみが倍加する。下世話な例えで申し訳ないが、美味しいご飯と美味しいおかずのようで、ご飯を一口食べて味わい、それによりおかずの美味しさが引き立つ。さらにご飯が美味しくなる、という関係のようだ。楽しいひとときと満足感を間違いなく与えてくれる作品である。


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