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2011年05月30日

『アスペルガー症候群』岡田尊司(幻冬舎新書)

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「アスペルガー症候群は天才予備軍」

 ある時、試験問題を作っていると、学校のスクールカウンセラーからメールが届いたことがあった。ある生徒の試験問題について、白い紙ではなく黄色い紙に問題をプリントして欲しいというものだった。白い紙に黒字で印刷されたものは集中できないが、黄色い紙だと大丈夫だというのである。私の生徒ではないが、これは初耳だったので尋ねてみると、アスペルガー症候群の一つの特徴らしい。自閉症とも違うようだ。

 そこで、岡田尊司の『アスペルガー症候群』を読んでみた。言葉は聞いたことはあっても、明確な知識はなかったが、驚く事が多かった。この症状の特徴を持っている人物が、ビル・ゲイツ、ジョージ・ルーカス、ウィンストン・チャーチル等だと示されると、これは天才症候群なのかと疑いたくなってしまう。アインシュタインやヒトラーの名前を挙げる人もいるようだ。実際自閉症との大きな違いは「言語と智能の発達に遅れがないこと」だという。

 ではどういう特色があるかというと、コミュニケーションが苦手、狭い領域に深い興味を持つ、人間より物に関心を持つ、運動が苦手、抜群の記憶力、繊細な感覚、ルールを好む等がある。これらの特色のいくつかがあてはまる人間などいくらでもいそうである。岡田は現在の診断基準や考えられる原因をきちんと示しているが、それは専門家に任せるとして、興味深いのは有病率の急増である。もちろんこの障害の認識が進んだ事もあるだろうが、「それを差し引いても、有病率が増加している」のである。

 多くの実例が紹介されているが、ドイツで発見されたカスパー・ハウザーという青年の例は興味深い。「幼い頃から塔に幽閉され、食べ物だけを与えられて育った」のだが、元々智能に恵まれていたため、後に高等知識も身につけることができた。しかし、彼がどうしてもできなかったことがある。それは「その場の空気を読んだり、相手の気持ちを推し量ったり、ユーモアを解すること」だった。

 これはアスペルガー症候群の特徴と見事に一致する。ここから判断して岡田は「どんな子どもも、人と滅多に顔を合わさず、表情のないロボットや画面に囲まれて育てば、間違いなくアスペルガー症候群になるだろう。」と結論付ける。テレビ、パソコン、携帯電話等、現代の日常生活は画面だらけである。さらに、マニュアル通りの言葉しか話さないロボットのような店員たち。有病率が増加するのは当然と言える。

 我々はこのような状況にどう対応していけば良いのだろう。ヒントは「アスペルガー症候群の遺伝形質は、強く集中しすぎると障害となるが、ほどよくあると、むしろ非常に強みを発揮する才能や特性となる」ことだろう。子供ならば、その子の才能や特質を良く見て、良い点を褒めながらゆるやかに方向を示してやることができる。大人の場合は、日本型会社人事を考え直す事だろう。一般の会社では、不公平をなくすために種々の配置転換が行われるが、これはアスペルガー症候群の才能を潰してしまう。適切な部署で一つの仕事に長く取り組んでこそ、他者の追随を許さない才能を発揮する可能性があるからだ。

 近年、友人知人等に鬱病を発症する人が増えている。これもやはり日本型会社人事や仕事の特色が原因の事が多い。経済的には素晴らしい先進国でありながらも、国民の幸福度が低い日本。原発も含め多くの事を考え直さなくてはいけないこの時期に、一読の価値がある一冊と言える。


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2011年05月10日

『天空の蜂』東野圭吾(講談社文庫)

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「蜂の教訓は何か?」

 「想定外」という言葉が随分目に付く。津波の被害の「想定外」は天災だが、原発の「想定外」は人災だとも言われている。私たちの想像力はそれ程衰えているのだろうか。だとしたらどうすれば「想定外」などという語が氾濫しないような状況が訪れるのだろうか。自分たちの力に限界があるならば、想像力豊かな人々の力を借りるのは悪い方法ではないだろう。そして、科学者よりも芸術家や小説家が往々にして見事な想像力を見せてくれる場合が多い。

 私が勤務する高校をまもなく卒業予定の生徒の一人が、先日一冊の本を持ってきて読んで欲しいと言った。東野圭吾の『天空の蜂』である。読み始めた頃、あるご夫婦に夕食に招待された。銀行を退職し、日本とパリに家を持ち、時々パリにいらっしゃるご夫婦だが、ワインを通して知己を得た。そのご主人が食事の時に、一冊の本を紹介したいと言い出し、東野圭吾の本だと仰る。まさかと思ったが、同じ本だった。「今読んでいるところです。」と答えると、ご主人も驚いていらっしゃった。不思議な偶然である。

 自衛隊と民間会社で共同開発した最新鋭の大型ヘリコプターを遠隔操作で盗み出し、それを原発の高速増殖炉の炉心の真上で止める。ヘリコプターには爆発物も積んでいて、いずれ燃料が切れると炉心に墜落する。犯人の要求は日本中の原発を使用不能にすること。こう書くと、原発反対派のプロパガンダ小説かと思われるかもしれないが、全く違う。もちろん推進派のための作品でもない。作者の意図は別にあると思われる。

 荒唐無稽と取るか、「想定外」と取るかは自由だが、読み進めていくと奇妙な現実感がある。それは作者の詳細な科学的知識とその記述のみによるのではない。犯人は単なるテロリストではないのだ。それどころかテロの思想からは最も遠い所にいるのかもしれない。手違いから子供が一人ヘリに紛れ込んでしまうというハプニングの対処方法からも、当事者たちの(犯人を含む)人間味ある表情が、臨場感に溢れているのだ。どんな人も一冊の小説を書けるだけ、人生のストーリーを持っている。それがこの作品に現実味を与えている。

 警察、消防隊、自衛隊、政府関係者、地方自治体の役人、企業人等の性格が分りやすく書かれているのも面白い。無理に戯画化しようとしない所が、リアリティに繋がり、会話の端々に人間性が現れるのは読み応えがある。犯人像が簡単に明確にならないのも興味深いし、動機にいたってはある意味それこそ「想定外」とも言える。「真実」とは言えないかもしれないが、「事実」の持つ重みのようなものを、この虚構作品は持っているのだ。

 作者の意図はどこにあるのか。それは犯人が最後に送るメッセージに現れているようだ。犯人は原発を指し、「彼等は様々な顔を持っている。人類に対して、微笑むこともあれば、牙を剥くこともある。微笑だけを求めるのは、傲慢である。」と述べる。原子爆弾を落とされた日本人には当然だと思えるだろう。しかし、次の言葉はどうだろう。「沈黙する群集に、原子炉のことを忘れさせてはならない。常に意識させ、そして自らの道を選択させるのだ。」私たちははたして、核武装を放棄した日本に「核爆弾」に成り得るものが存在するという意識を持っているだろうか。15年以上前の東野圭吾の警鐘を、現在の状況と共に私たちは再考するべきであろう。


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