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2011年02月28日

『ねむれ巴里』金子光晴(中公文庫)

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「巴里の光と影」

 今パリには旅行者を除いても、常時2万人以上の日本人が滞在しているらしい。在仏日本人会も機能しているし、日本料理店は1千軒ほどもあるようだ。最もその9割以上は、日本食ブームに乗りたい輩の経営する「和食もどき」を提供しているが。金子光晴の『ねむれ巴里』は、1929年から2年間に渡るパリ滞在記である。日本人会も無く、和食など炊いた白米に生卵があれば上等といった時代の、はぐれ者たちのパリ生活は非常に興味深い。

 先にパリに着いている妻の三千代に合流するために、何とか船賃を手に入れて乗船する。船の中も面白いが、パリでの破天荒な生活は見事だ。ほぼ文無しなので、金を手に入れるために何でもやる。会費の取立て、額縁作り、論文代作、大使館員への詐欺……そしてパリ、フランス人に対する強烈な悪罵。「頭を冷やしてながめれば、この土地は、どっちをむいても、むごい計算ずくめなのだ。」「フランス人一流の、じぶんたち以外のものに対する常識のないことにはおどろかされる。」

 金子の周りに存在する日本人たちも、はぐれ者だが憎めない連中だ。日本画家の出島はやくざまがいに、ゆすり、たかりを繰返しているが、それも皆フランス人の愛人のためだ。しかし、彼女には別な男がついていて、出島の稼いでくる金は、右から左へとその男へつぎ込まれる。日本からの送金をすぐにバカラ(賭博場)で使い果たし、いつも文無しの男。餓えていた街娼を連れて帰り、面倒を見ていたら、全財産を持ち逃げされた男。

 「シャンジュ・シュバリエ」は元々踊りでパートナーを変える時の用語なのだが、パリに来てパートナーを変えるカップルが多いという。金子が見たのは最初に武林無想庵と文子のカップルであり、次に装飾画家夫妻、そして「旅費をもってパリまで着けば、あとはなんとでもなると、じぶんたちの能力に一度もそろばんを置いてみたことなしに、がむしゃらにやってきながら、アルバイト一つできない文学青年の夫婦」。多くは金のせいで、パートナーを変えてしまう。

 芸術や文学関係者に会う事を好まない金子だが、藤田嗣治にも会っているし、岡本かの子や深尾須磨子も知っている。しかし、金を借りるには不都合なので、深い付き合いは無い。藤田から紹介状を貰って、高級避暑地のドーヴィルでひと稼ぎをしようとするが、何にせよ資金が無いので不可能となる。丼物屋を始めようとするが、これも同じ。妻もささやかなアルバイトをしながら、二人でダゲール街22番地のアパートで生きている。

 悲哀に満ちた話もあり、惨めな苦労話も多い。しかし、金子自身の像にはぶれが無い。というより、表層は常に振動しているが、遠くから見ると動かないように見える。諦念ではない。人に対する適度な好奇心と、鋭い観察眼が、この作品を面白くしている。一見今のパリ事情とはかけ離れているように見える。しかし、本当にそうだろうか。

 パリでは二人の父と二人の母を持つ子供が多い。子連れ再婚のせいだ。やはり「シャンジュ・シュバリエ」は続いているのだ。20年ほど前、毎月の収入の全てを博打場ですってしまう、腕の良い料理人がいた事を知っている。知人は和食ブームにあやかって丼物のレストランを開いたが、結局上手く行かなかった。私自身も、1983年に家内と二人でパリに着いた時、仕事があったわけではなく、日本での仕事を辞めてゼロからの出発だった。太田博昭医師の書いた『パリ症候群』にも見られるとおり、パリで発狂する日本人は異常に多い。

「パリじしんは自堕落ではなく、そこをあくがれてくるもののこころだけを放恣にするとしたら、まことにパリは残酷なところということになる。」金子が観察したパリは多分今も変わっていないに違いない。だが、そのパリに魅力を感じる者は後を絶たない。時々夜遅くタクシーでセーヌ河畔の自動車道路を通る時、対岸の建物の幻想的な美しさは、追随を許さないものがある。パリの光と影は今も変わらない。


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2011年02月21日

『アフリカのひと 父の肖像』ル・クレジオ(集英社)

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「父の肖像に見る自己の姿」

 まだフランス語もできなかった頃、なぜかフランス文学が好きだった。シュールレアリストたちや、アラン・ロブ・グリエ、フィリップ・ソレルス、ミシェル・ビュトール等のヌーヴォー・ロマンの作家たちの作品をよく読んだ。もちろん翻訳でだが。ル・クレジオも好きだった。『調書』が面白く、『発熱』、『大洪水』、『物質的恍惚』等を読んだ記憶がある。

 しかし、ル・クレジオには何か他の作家たちとは別のものを感じていた。フランス語に「dépaysement(デペイズモン)」という言葉がある。ある種の戸惑いや違和感をさすのだが、まさにそのような感じを受けたのだ。「pays」は国や故郷を指し、「dé」は「反対」や「分離」等を表す接頭辞。つまり慣れて親しんだ環境から離れて、未知の環境に置かれた時の、いたたまれなさを表している。決して居心地が悪いとは限らないのだが、どうも落ち着かない空間に置かれている。

 当時はそれが何だか分らなかった。フランス人特有の何かなのかと思っていた。しかし、パリに30年近く住んでみると、ル・クレジオの持つ不思議な雰囲気は、一般的なフランス人の持つ香りではないことが分った。一体何なのだろうと思っていたが、その秘密が、この『アフリカのひと 父の肖像』を読んで良く理解できた。

 「私は長いこと母が黒人であればいいのにと望んでいた。」ル・クレジオの母はフランス人で父はイギリス人である。しかし、父は医療将校として22年間アフリカに勤務した。ル・クレジオも8歳の時に父の元を訪ねて、一年余りアフリカで暮らしている。そして、これが彼の主要部分を作り上げている。「感覚が多様になり」、「形容詞から、また名詞からとても遠く離れて」いた。「アフリカ、それは顔よりは身体だった。」

 アフリカ人たちは「人間は母の胎内から出てくる日からではなくして、孕まれた場所と瞬間から生れてくる」という。ル・クレジオは自己の体内に目を向ける時に、「懐妊の瞬間」どころか「懐妊に先立ったものすべて」が「アフリカについての記憶のなかにあるものすべてなのだ」と言う。しかも、それが「観念的な記憶ではない」と断言する。彼は自己を物理的に構成しているものがアフリカであると理解し、それは彼にとって余りにも確かなことなのである。

 この作品は確かに彼の父ラウルの物語である。もちろんそれはラウルとル・クレジオとの関係を確かめるものでもあろう。しかし、これはル・クレジオ自身の物語でもある。父の足跡をたどりながら、彼は自身の存在、そのよって来る所を一緒に探し続けている。「私が絶えずもどりたいと思いつづけているのはアフリカであり、私の子供のときの記憶である。」と彼が述べる時、それは決して甘いノスタルジーなどではない。自分の存在そのものなのに、絶えず失われて、絶えず遠ざかり続けるもの、それが彼にとってのアフリカであり、彼が心から渇望しているものなのである。そして、それこそが彼の持つ、他の作家には無い「raison d’être(存在理由)」なのである。

 この作品の原題は「L’Africain」(アフリカ人)である。「父の肖像」という副題は、訳者の菅野昭正が付けたものだ。訳者はフランス文学の大家であり、訳も非常に読み易い。しかし、私にとってはこの作品は「父の肖像」であるより、ル・クレジオ自身の「肖像」であるように思われてならない。


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