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2010年11月30日

『無名』沢木耕太郎(幻冬舎文庫)

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「父と息子との補完関係」

 親と子というのはどのような関係の存在なのだろうか。親が子を生むというのは、自己の分身を生産する事なのかもしれない。しかしその分身は、親が自己の中の異質な部分を「排除」しようとしたものだとしたら、子が親を求める行為の意味合いは変わってくるだろう。子は自己の中に生まれながらに失われた部分があるのを感じて、親にそれを求めるのかもしれない。子が親に似てくるというのは、その行為の結果であるかもしれない。沢木耕太郎の『無名』を読んでいて、そんな事を考えてしまった。

沢木はノンフィクション作家として知られているが、この作品も脳出血で倒れた父が死去するまでの看病記となっている。入院している父の病床に夜付き添いながら、父の事を考える。祖父は一代で財を成し、何不自由なく育った父だったが、戦後没落し40代になってから工員として働き始める。そんな父の楽しみは食事時の一合の酒と食後の一冊の本。沢木は酒を買いに行った事、父が好きではなかったはずの太宰の作品を買ってくれた事、高校生の時に一緒に酒を飲んで酔った事等、種々の思い出が浮かび上がってくる。

沢木が大学を卒業し大企業に就職し、入社一日目で退職したエピソードは有名だ。しかし、両親の反応は中々興味深い。母は「そう、あなたが決めたことだから」と言ったが、父は何も言わなかった。しかし、母親には「よかった」と言っていたという。就職初日に退職した息子に関してこう言う父親がはたして何人いることだろうか。息子に対する心からの思いやりなのだろうか。それとも自分の中に存在した意識が、息子にも存在しているのを感じて、それを認めているのだろうか。

筆者は父に尋ねる。「どうしてもわからないことってあるの?」父は「あるだろうね」と答え、「わからなくても、いいんだよ」と加える。大江健三郎の『個人的な体験』の中で主人公の鳥(バード)は、6歳の時に父親に「お父さん、ぼくは生れる百年前どこにいた? 死んで百年後、どこにいる? お父さん、死んだあとのぼくはどうなるの」と尋ね、父親に思い切り殴られる。その父親は三ヶ月後ピストル自殺する。答えのない質問に父はどう答えるべきなのだろうか。どちらの父も優しさの表現に見える。

父は一時期俳句に凝っていた。作品の至る所にそれが引用されていて、父の輪郭を映し出す。
  ひっそりと秋の立木のひっそりと
  菜の花の宙に浮かびて蝶となる
  鰭酒や古き馴染みのまた欠くる
  この路のつづくかぎりのコスモスぞ
沢木は父の句集を出そうと考える。句の選択をしながら、種々の父の姿と出会う。 

 沢木は父と喧嘩をした事がなかったという。それどころか父に反抗した記憶が無いのだ。それは父が恐いからではなく「むしろ私は、幼い頃から、父を守らなくてはならない人と感じていたのだ。そう、私にとって父は守るべき対象だった。」と言う。もし父が沢木に、世の中と戦う武器を、人と共存していく方法を与えてしまって、自身が丸裸になっていたのだとしたら、息子が父を守るのは当然の事だ。自己防御もできなくなるほど惜しみなく全てを息子に与えてしまう父。幼い時から父を無意識に守ろうとしていた息子。どのような形であっても、親子というのはある種の補完関係にあり、それが鎖のように繋がっていくのが、家族の姿なのかもしれない。


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