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2010年02月21日

『決壊』平野啓一郎(新潮社)

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「ITは世界を救うか?」

 教育の世界にも、確実にIT化の波は押し寄せている。私の勤務するInternational School of Parisでも、授業の出欠はパソコンだし、教材や授業計画等も学校が選択したシステムにパソコンで書き込む。私は使っていないが、スマートボードと呼ばれる電子黒板を使う教師が増えている。だが、このような世界のデジタル化は一体何を生み出すのだろうか。時にはこのような怪物を生むのではないかと思わせるのが、平野啓一郎の『決壊』に出てくる「悪魔」だ。

 平野は『日蝕』で衝撃的なデビューを果たした作家だが、『日蝕』、『一月物語』、『葬送』等、決して私の肌に合っているとは言えない作品であった。『決壊』を読み始めた時も、冒頭部の「ホームに降り立つと、待ち構えていたかのような熱気に出迎えられて、その飼い犬めいた、馴れ馴れしく執拗な纏わりつき方に家族三人ともが閉口させられた。」や「佳枝は、いつの間にか車中を領していた沈黙に気がついて、それに指先でそっと触れ、動かしても大丈夫かどうかを確認するかのように、小さく鼻を鳴らした。」という表現に出会い、戸惑いを感じた。何か落ち着かないのである。

 とは言え、読み進めると、ストーリーの面白さと共に、表現も落ち着いてきて、先を読ませる力がある。主人公は国会図書館勤務のエリート、沢野崇。両親、弟夫婦に甥が一人いる、どこにでもあるような家庭なのだが、弟がバラバラ遺体となって発見されるという事件が起こり、崇は事件直前に弟の良介と会っていたために、犯人であると疑われる。と書くと、何だか良くある事件物のような感じだが、そうではない。

 良介が殺されるまでに、かなりの紙面を割いて、良介と崇の内面が間接的に描かれている。二人とも具体的ではない何かの不安を抱え、自己の存在と現世界との間の「ズレ」を感じている。この二人の不協和音のような通奏低音が交わる時に、世界は「決壊」する。それが良介には残虐な殺人として表れ、崇は最終的な崩壊への一歩をふみ出すことになる。事件は二人の人生を促すための(とは言っても良介はこの時点で死んでいるが)触媒に過ぎない。

 犯人は「悪魔」、「離脱者」と呼ばれるが、社会のセキュリティ・システムのエラーを自ら演出している。「9・11のあと、航空機のセキュリティ・システムは一定の改善を見た。テロリストのお陰で、社会は一歩、より良い方向へと進んだわけだ。」と語り、エラー(この場合は良介の惨殺)の増殖を予言する。彼は「幸福」の欺瞞性を暴こうとし、良介を責めるが、良介は幸福と愛への信頼を捨てずに殺される。

 「決壊」とは堤防などが切れて崩れる事である。何かを守っているものが、破壊される事と同じだ。ITの世界は人類を守っているのだろうか。それとも人類を破滅へと導くまやかしの福音なのだろうか。崇はその答えを出せずに滅びていく。この世界の「決壊」を防ぐのは、彼らが感じていた「ズレ」を認識し、確かな現実を把握する、いかにも日常的な稚拙な歩みであると実感する。


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2010年02月19日

『生きながら火に焼かれて』スアド(ソニー・マガジンズ)

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「名誉の殺人とは何か」

 交通手段が発達し、インターネットで世界中の情報が手に入るようになったが、一体我々は世界の事をどれほど分っているのだろうか。「事実は小説よりも奇なり」とは言うが、スアドの『生きながら火に焼かれて』を読むと、「事実」の重みと、その理不尽さが良く伝わってくる。

 スアドは中東のシスヨルダンの小さな村に生まれる。小さい時から牛馬のように(実際は牛馬以下の扱いであるが)こき使われる。父は絶対的な権力者であり、どんな些細な口実でも、スアドは杖やベルトで殴られる。雌牛は乳を出し子牛を産む。羊からは羊毛が取れ、乳も搾れる。だが娘は何も産まない。この村では(家では、ではない)女は家畜以下の存在だ。男だけが崇高なる存在なのである。

 スアドは幼い時に、母が産んだばかりの赤ちゃんを自分で窒息死させるのを目撃する。もちろん、その子が女だったからだ。母は14人子供を生んだが、「残っている」のは5人か7人。彼女は後にヨーロッパで暮らし始めてから20年以上経った時に、突然ハナンという妹の事を思い出す。ハナンはスアドの目の前で、弟のアサドにより絞め殺された。多分ハナンが何か「過ち」を犯したのだ。

 結婚前の娘が男と目を合わせたり、話をしたりするだけで「シャルムータ(娼婦)」と呼ばれる。家族は名誉を守るためにその娘を殺さなくてはならない。しかもこれは「名誉の殺人」であり、罪にはならない。ハナンも何らかの「罪」を犯したのだろう。日本と比較することは何の意味もないだろうが、これでは日本の未婚の女性は全員殺されてしまう。

 姉のヌーラが結婚する。夫と一緒ならば外出もできるし、男の子を生めば褒められる。しかし、殴られ虐待されるのは同じ事だ。その相手が、父から夫に代わっただけだ。それでもスアドは姉の事をうらやむ。自分も結婚したいと強く願い、近所の男性と知り合う。結婚の約束をしてくれたので、嫌われたくないがために、体を許す。妊娠が分った時に男はスアドを捨てる。

 文句なしの「シャルムータ」となってしまった彼女は、「家族会議」の結果、姉の夫のユッサンにガソリンをかけられ火をつけられる。表に逃げ出し助けられ、病院に運ばれ生死の境をさまよう。父は病院に来てスアドを罵り、母は彼女に服毒自殺を勧める。薬も貰えず、治療もまともに施されず、「自然死」を待つだけの彼女を救ったのは、ジャクリーヌという福祉団体で働く女性だ。

 本の後半には、ジャクリーヌの証言と、スアドが肉体的にまた精神的に回復していく長い道のりが描かれている。彼女は勇気を振り絞ってこの本を書いた。どこへ逃げても追いかけられて殺された女性も沢山いるからだ。これは数世紀前の話ではなく、現在なのだ。この紛れもない事実に、驚嘆を禁じえない。スアドが数々の苦痛やトラウマから解放されて、幸せになる事を願いたい。そして少しでも自分を「不幸」だと思う人に、この作品を読んでもらいたいと心から思う。


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2010年02月16日

『塩の道』宮本常一(講談社学術文庫)

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「一尾のイワシは4日かけて食べる!」

 フランスは塩が豊富だ。地中海でも大西洋でも作っているが、ブルターニュの「ゲランドの塩」は日本でも有名だろう。特に「fleur de sel(塩の花)」と呼ばれる最高級のものは、料理の素材が何であれこれだけで味付けして美味しいし、ワインと抜群の相性だ。日本ももちろん島国で海に囲まれているのだから、古来塩は豊富であったはずだ。とは言えそれは海岸部での話で、山間部では上杉謙信と武田信玄の「敵に塩を送る」というエピソードで有名なように、塩が不足していた。当然そこには塩を運搬する「塩の道」が存在する。

 食料がなくとも、塩と水があればしばらく人は生きていられるとも良く聞く。だがこれほど身近な塩なのに、塩の「歴史についての研究は、昭和の初めまでわれわれの目にとまるようなものがなかった」と宮本常一は『塩の道』で語る。

 揚浜式から入浜式、土釜、鉄釜、石釜等の発達も面白いが、塩の流通の歴史は非常に興味深い。昔東北地方の山村では、木を伐り川に流し、河口でそれを回収し浜で塩を焼き持ち帰ったという。それがいつか薪を売って塩を買うようになる。さらに塩の生産が増えるとをれを売り歩く人々が出てきた。

 別の方法もある。瀬戸内海地方では、山の人々は雑木を焼いて灰を作り、それを海辺の人の塩と交換する。麻をさらすのに灰のアクを使う必要があるのだ。雪の少ない瀬戸内地方ならではの知恵である。塩を手に入れるために様々な工夫がなされていたのだ。

 塩を運んだ道や、運ぶ人々が宿泊した施設等も綿密な調査がなされている。面白いのは、馬よりも牛を多く使用したということだ。牛のほうが細い道を歩いたり、長く歩いたりするのに適しているというのは、想像の範囲であろう。だが、牛は「道草を食ってくれる」が馬は道草を食わない、というのは凄い。道端の雑草で牛は満足するから、餌代が助かる。

 牛も通れない道は、人が塩を運ぶ。貴重な塩は山村ではどのように食べるのか。大和では塩イワシを買うと煮ないで焼く。塩を失わないためにである。そして「焼いた日はまず舐める。次の日に頭を食べ、その次の日は胴体を食べ、そして次の日はしっぽを食べるというように、一尾のイワシを食べるのに四日かける」という。どんな名言よりも塩のありがたみが分るエピソードだ。

 私は北海道の山間部の出身だが、小さい時は新鮮な魚などなかった。良く食べたのは「塩鮭」だ。「塩引き」とも言うが、近年ブームになった『蟹工船』で労働者たちが食べていたアレだ。非常に塩が強いので、小さな一切れでご飯3杯くらい食べられた。今はそんなものは売っていないだろうが、時々ふとあの味が懐かしくなる。

 聞き取り上手は話し上手を育てる。宮本がある島で数日間調査をし帰る時に、島の人が言う「先生は調査にきたといったのに、少しも調査をしなかったが、良いんですか」だが宮本は必要な調査をしっかりと済ましていたのだ。相手側に調べられたと感じさせない調査。これは「達人」のレベルである。「塩の道」以外にも、日常の暮らしの中にある日本文化に関する鋭い考察が興味深い良書だ。


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