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2010年01月25日

『太郎が恋をする頃までには・・・』栗原美和子(幻冬舎)

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「差別の壁」

 今年のパリはよく雪が降る。普段は東京と同じ位で、滅多に雪は降らないのだが。石畳に雪が積もるのは美しい。私の故郷である北海道の友人たちにそんな話をすると、雪かきの苦労を忘れたか! とお叱りを頂くかもしれない。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹」いているうちは可愛いものだろうが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではいけない。

 同和問題も似たところがある。渦中にいる人達にとっては、一生の問題であるどころか、過去現在未来に渡って、忘れる事のできない喫緊の重要課題であろう。だが身近にその問題を抱えていない人達にとっては、何か出来事が起こらないと思い出さない事であるかもしれない。健康な時は病気の苦しさを忘れているように。

 故に、時々このような問題作が世に出る必要があるだろう。栗原美和子の『太郎が恋をする頃までには・・・』は、同和問題を扱った私小説だ。筆者はフジテレビの有名プロデューサーのようだが、日本を離れて26年になる私は、彼女の名前を知らない。そのおかげで、先入観無くこの作品を読む事ができた。

 主人公の五十嵐今日子は、活躍していたテレビ局から系列の新聞社へと移され、その取材の一環で出合った猿まわし芸人の海地ハジメと結婚する事になる。全く自分の好みではなかった男に惹かれていく過程も面白いが、彼が被差別部落出身である事を打ち明ける所から、この作品は本当に始まる。

 幼い頃から様々な差別に晒されてきたハジメは、父の要請を受け猿まわし芸人として有名になりながらも、地元との関係に隙間風が吹き始めた頃、母親に「なんで俺を部落の子に生んだんやっ!」と叫ぶ。そして、故郷や家族と縁を切り、孤独に暮らしてきた。そんな時に今日子と出合い、惹かれて求婚する。

 二人はハジメの母との和解を果たし、今日子の両親にもハジメを紹介し、一つずつ障害を乗り越えていく。だが今日子はハジメの出自をまだ両親に話していない。話す必要はないと自己欺瞞に陥る今日子に、全てを告げる事を促すのはハジメである。入籍した後、結婚パーティを企画するが、その前に両親に打ち明ける。

 父は多少の理解を示すが、母は拒絶する。最終的に破局へと向っていくのだが、今日子の父とハジメが同じ言葉を吐く。「人間には理屈では説明しきれない感情がある」。確かにそのような感情は、対象は様々だが大なり小なり多くの人が持っているだろう。だが、それは解決不可能なものなのだろうか。

 人は女に生まれるのではなく、女になるのだと言ったのは、ボーボワールだったろうか。被差別者もそのように生まれるのではなく、社会がそのように作り上げていくものだ。かつて穢多・非人と呼ばれた階級が、農民に相対的優越感を与えるために為政者によって作られたものであることは明白だ。人が作り上げたものならば、やはり人が変える事ができると信じたい。


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2010年01月18日

『告白』町田康(中公文庫)

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「夢幻的人生」

 書店で厚い本を見ると惹かれてしまう。本狂いの人間の悪い癖だ。厚い本だと楽しみが長く続くのが嬉しいのである。薄いと、会席料理の一部に時々現れるお寿司のように、食べてしまうのが(読んでしまうのが)もったいなく感じて、手を出すのが惜しくなってしまう。貧乏性だろうか?               

 町田康の『告白』は、文庫本だが800ページを超える長編である。だが楽しみはそれほど長くは続かなかった。面白くて一気に読まされてしまうのである。明治26年に実際に起きた「河内十人斬り」事件を元にした創作だ。主人公の城戸熊太郎は貧乏百姓の子だが、幼い時から何でも熟考する癖があり、しかもそれが哲学的妄想の域に達している。

 子供同士の小競り合いでも、深く考え込む。弱い自分が強く見えるのは、大楠公流の奇知・奇略によってである。何故そうするのか。忠ではない。人を殴るのが気持ちよいのか、違う。では義だろうか・・・。などと永遠に考えているのである。そのせいで、他人とは違う人間だと自覚する。

 これだけならば、熊太郎は一風変わった人間というだけで、誰の記憶にも留まらなかったであろう。彼の一生を左右する出来事は、岩室で葛木ドールという怪人を殺害したことだ。これとても、熊太郎の妄想の産物としか思われないのだが、彼はこのせいで自分の一生は終わりだと考え、自暴自棄な生活を始める。

 博打と酒に溺れながらも、思い出したように百姓仕事を試みるのだが、そんな簡単にできるものではなく、すぐに挫折する。そんな熊太郎に作者は頻繁に半畳を入れるのだが、視点は現代からなので、その違和感が面白い。野犬に向かって、お前は誰だと問う熊太郎に「はっきりいってあほである。犬を相手に、お前は何者だ、と誰何したからといって犬が、はい。私は大阪府泉佐野市からやってきた尨犬でございましてなどと返事をするわけがない。」と揶揄する。

 熊太郎はかつて賭場で偶然助けた弥五郎とコンビになり、遊び回る。美人の縫と一緒になり、幸せが見えてきたところで、縫は熊太郎の弟分の寅吉と姦通し、腐れ縁の熊次郎には大金を騙し取られる。堪忍袋の緒が切れた熊太郎は、弥五郎と共に熊次郎や縫等10名を殺害し、山中に逃げる。山に詳しい弥五郎のお陰で、二人は追っ手に中々捕まらない。だが終わりは唐突である。

 ラストは是非作品を読んでいただきたいのだが、ヒントを出すならば、途中経過は全く違ってもスタインベックの『ハツカネズミと人間』と似ていることだ。熊太郎は死の直前に自分の心を探り「本当の本当の本当のところの自分の思い」を見つけようとするができない。「あかんかった。」が最後の言葉である。

 町田康は器用な作家である。種々のタイプの作品を書き、多くの賞を取っている。しかしこの作品は、どこかで中上健次の濃密な空間に通じるものがある。中上健次が死んだ時、多くの評論家が、文学の一時代が終ったと語った。町田康が中上健次の継承者だとは思わないが、彼が音楽の世界でも活躍しているせいか、二人の作品には通奏低音が流れている。


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