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2009年12月06日

『第四間氷期』安部公房(新潮文庫)

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「私たちははたして未来に適応できるか?」

 安部公房の作品との出会いは、札幌のジャズ喫茶だった。当時高校2年の私は、始めてジャズ喫茶に足を踏み入れた時、その空間に魅了されて、以後毎日のように通う事になってしまった。そんな時、高校の先輩が隣のボックスに座って『水中都市』を読んでいた。その姿が「かっこ良かった」ので、安部公房に興味を持った。『壁』から読み始めて、『砂の女』、『箱男』、『燃えつきた地図』、『他人の顔』、『終わりし道の標べに』とどれを読んでも面白かった。そしてそれは、アンドレ・ブルトン、ロートレアモン、モーリス・ブランショ、フィリップ・ソレルスへと続く、文学遍歴の始まりでもあった。

 今回教え子の一人が『第四間氷期』を論文の課題に選んだので、久し振りに読み返してみたが、やはり面白かった。ジャンル的にはSFに属すべきものかもしれないが、小説のジャンル分けなど(小説という呼び名すらもジャンル分けなのだが)意味がないという事を、この作品は示している。もしくはSFというものに対する認識の過ちを教えてくれる。安部は私たちが考えている「現実」と真の「現実」とのズレを指摘してきた作家だが、この作品においてはそれが顕著に現れている。

 科学者である主人公の勝見博士は、データを入れると未来を予言することのできる「予言機械」を発明する。しかし、彼は学問的興味のためにしか発明を認識できず、来るべき未来を受け入れることができない。近い未来、海面が上昇し世界の大陸は水没するという予想がなされるが、勝見博士はそれに対応する具体策を持たない。予言機械を信用できないだけではなく、未来は現在の延長であると考えているからである。

 だが、すでに対応策を考えている人々がいた。水棲人間の模索である。それは確実に現実化していて、途中で勝見博士の研究と交錯する。それでも未来を受け入れることのできない勝見博士は、弟子たちによって「淘汰」される事になる。助手の頼木は勝見に言う「プログラミングというのは、要するに質的な現実を、量的な現実に還元するだけの操作ですね。その量的現実を、もう一度質的現実に綜合するのでなければ、本当に未来をつかんだことにはなりません。」

 未来は現実を発展させたものとは限らない。未来は破壊的であるかもしれないし、現実とは全く何の関係の無いものであるかもしれない。未来とは四次元からの挑戦であると言ったのは、小松左京だったか。私たち三次元世界に生きている者は、四次元世界を認識することはできない。いったいどのように私たちは未来の姿を考えて行くべきなのだろうか。

 コンピューターが実用化されたのは1960年代であり、地球温暖化が世界的テーマとなってきたのは、最近のことである。そう考えると、安部公房がこの作品を書いたのが1958年であった事に驚く。一般大衆よりも科学者はかなり突飛に見える未来を予測し、文学者はそれよりももっと突飛な未来を描き・・・・・・そして実際の未来はそれよりもはるかに突飛なものとして現れる。はたして私たちの未来はどのようなものなのだろうか。



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