« 2009年11月 | メイン | 2010年01月 »

2009年12月25日

『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎(岩波書店)

大人にはわからない日本文学史 →bookwebで購入

「「私」は小説のOS」

今日はクリスマスイブだ。日本はさぞかし賑やかなことだろう。フランスのクリスマスは家族が集まって過ごす日なので、丁度日本の大晦日のような雰囲気になる。美味しいものを食べて楽しむが、騒ぎはしない。その代わり、大晦日はドンチャン騒ぎのパーティとなる。日本と反対なのが面白い。

 今年の終わりに相応しいかどうかはわからないが、一応文学に携わる者として、高橋源一郎の面白い本を紹介したい。『大人にはわからない日本文学史』という、相変わらずの刺激的なタイトルだ。内容も負けていない。彼は常に私たちに新しい視点を提供してくれる。今回の基本は、日本近代文学は樋口一葉の活躍した明治28年を軸にして「十年という時間で文学史を折りたたむと、一方は起源に達し、一方は完成に至ります。」というものだ。

 たった20年の間に日本の近代文学が完成したとすれば、それは奇跡と言う他ない。それを検証するために、高橋は三遊亭円朝の落語が口語であるために古くならないと考え、一葉の作品を新しく感じるのは、それが肉体に結びついているからだと言う。確かに人の肉体は昔から変わらない。例え平均寿命が延びたとしても、傷があれば痛いし、冷たい風が吹けば寒い。そういった感覚は時代を越えて共通のものだ。そこをベースとした文学は色褪せないのかもしれない。

 一葉から100年後の作家として綿谷りさを取り上げ、彼女の作品を分析する。そしてやはり見事に五感を使った作品である事を確認する。その理由を「『文学史』に促されてそうした」と述べる。またこれらの問題はやはり当然の帰結として、「私」の問題に辿り着く。近代文学においては「自我」を捉えるために「私小説」が発達したのだし、戦後の文学もその域を出てはいない。高橋はこの「私」を基盤とした文学が1990年代で終わりを告げたのではないかと考えている。

 彼はそれを「私」というOSが変わりつつあると言う。そう、ウィンドウズやリナックス等のOSである。この辺りが高橋の真骨頂だが、非常にわかりやすい考えだ。パソコンで仕事をしていても、普段はOSを意識しない。だが、ちがうOSを使ってみると(例えばMacの)その世界の違いに驚く。もし小説のOSが変わりつつあるのだとしたら、「もっとも若い小説家たちは、ある意味でこの百年で初めて、口語に向かい合っているのです」というのも、うなづける。だが、果たしてどのようなOSが登場しているのだろうか。

 手馴れた文学者が、若い文学者たちの作品を解説してくれるのは、楽しいものだ。「大人にはわからない」というのは、言い換えると「常識に囚われた似非大人には、真実が見えてこない」ということであろう。『星の王子様』の冒頭に出てくる「象を飲み込んだうわばみ」の話は有名だが、これが帽子にしか見えない人には、物の本質は見えてこないのだろう。新年を間近に控え、心を新たにして、「私」の姿を見極めていきたいものだ。


→bookwebで購入

2009年12月22日

『夢は書物にあり』出久根達郎(平凡社)

夢は書物にあり →bookwebで購入

「本が学校!」

パリの「蚤の市」は有名だが、それとは別に至る所でガラクタ市が開かれることがある。「Brocante」と呼ばれるものだが、本当に「ガラクタ」が多い。家の倉庫から持って来たらしい鍋の蓋や、煤けたグラス、古食器類等、何でもある。古道具の趣味は無いので、余り興味を惹かれないのだが、本だけは違う。時間があれば、どうでも良い雑誌等でも、ちょっと頁を捲ってみたくなる。本好き人間の習性だろう。

 出久根達郎が古本屋出身の作家だということは知っていたので、『夢は書物にあり』というタイトルに惹かれた。筆者の本との面白い出会いが書かれているのだろうと思ったからだ。期待ははずれなかった。中学を出て古書店に勤め始めた筆者ならではの、興味深い話が満載だ。

 例えば、書名を変えて再出版の話。筆者は最近黒頭巾著の『変態處世術』という本を買ったという。同著者の『法網を潜る人々』が面白かったからだ。しかし読んで行くと、覚えがあるので、比較してみると同じ本であった。時代の変化に応じて多少改変してあるが、間違いなく同じ本だ。面白いのは、この本の内容自体が、ありとあらゆる詐欺の手口を物語風に書いてあることだ。この詐欺のような話も、本の中に出てくるのだろうか。

 『フランダースの犬』の話も驚く。筆者が若い時、この作品の結末に関し友人と話していた。救いのない話だと主張する友人に対し、出久根は「犬は哀れだが、まず、めでたしめでたしの話」だと言う。おかしい。何かが食い違っている。出久根が読んだ池田宣政の訳では、パトラッシュ(池田訳ではパトリオ)もネルロも死なずに助かり、ネルロはパリへ絵の勉強に行き、パトラッシュは村で少年の帰りを待つ事になるというのだ!

 ドラマの「小公女セイラ」が評判になっているようだが、『小公子』を読んだ人も多いだろう。主人公のセドリックはアメリカで野球に夢中だったが、明治時代に日本語に訳された時に「野球」という単語はなかったそうだ。従って「ベース・ボール」となる。それは良いのだが、「二ツ外れ」という訳語がある。筆者は多分「ツーアウト」のことだろうと推測し、訳者の若松賤子は野球を見ないで訳していたのではないかと考える。時代性が出ていて面白い。

 鷗外の論文の話も楽しい。「壁湿説」という論文は「家屋は本と吾人の健康を守護し、権利を保全する目的を以て成れるものなり」という出だしなので、本と人間の健康の話だと思って読んで行くと、一向に書物が出てこない。何と「本と」は「もともと」と読ませるらしいというのだ。これは中々読めないのではないか。気づいた時には、怒るよりも「参った!」と思ったに違いない。

 鷗外に関してはこの他にも面白い話が沢山紹介されている。『源氏物語』の柏木と女三宮の話も興味深い。それにしても、このような教養の持ち主が中学しか出ていないことは象徴的である。教養は学校で身につけるものではなく、日常生活や読書による所が大きい事を示している。ところが教師である私にとっては、どうやって学校の授業で若者たちに少しでも教養を身につけてもらえるだろうかという、大切な課題がある。共通のヒントはやはり読書であろう。「本が学校である」と言われて読書をしてきた出久根の経験を生かしたいものだ。


→bookwebで購入

2009年12月06日

『酒肴酒(さけさかなさけ)』吉田健一(光文社文庫)

酒肴酒(さけさかなさけ) →bookwebで購入

「酒仙のエスプリ」

近年これほど痛快かつ爽快な本を読んだことはない。吉田健一は吉田茂の息子であり、そのおかげで幼少期よりイギリス、フランス、中国等で暮らしている。当時としては珍しく、和食以外のものを詳しく知っていた。ケンブリッジ大学で学んだ秀才でもあるが、そんな事はどうでも良くなってくるほど、このエッセイは面白いし、酒好きにはたまらない魅力に充ちている。

 『酒肴酒(さけさかなさけ)』と題するだけあって、中身は酒と肴の話ばかりだ。しかし、一体誰が次のような事を堂々と書けるだろうか。長崎で卓袱料理を食べて酒を飲んでいる時「食べながら飲むという、食いしんぼうで飲み助であるすべての健全な人間の理想を嫌でも実現することになる」、中華料理屋で美味しいお菓子を見つけ「この晶蘇というビスケットなどは、魯迅のどんな作品よりもうまかった」、フランス料理とワインを合わせながら「酒を飲む分には途中で必要な時間だけ眠ることさえ出来れば際限無く飲んでいられるが、食べものの方はそういつまでも食べていられなくて」と言うのである。

 ワインと日本酒を比較し、ワインは食事と一緒が良いので、それほど長くは飲んでいられないが、日本酒は「一日でも二日でも、眠くなるまで飲める」と結論づける。しかし、「葡萄酒もいいのに当たると、飲むだけではなくて風呂桶をこれで波々と満して頭から浴びたくなる。」と言う。私も毎晩ワインを飲んでいるが、さすがにこのような想像はしたことがない。ワインはブルゴーニュが好きだと言い、シャブリを例に挙げている。そして、そう時間をかけて飲むものではないから、一人に「大壜二本」もあれば良いという。どうも、一般人と単位が違うようだ。

 故に、旅館に入ると「寸暇を惜しんでビールを持って来てくれるように頼む」のだ。なぜなら、酒はお燗をするのに時間がかかるからだ! カクテルパーティで一番上手な飲み方は、「カクテルを飲まない」ことである。う~ん、当たっているような気がする。バーを評して「バーにあるものが人生だなどと、勿論、誰も思ってはいない。バーや飲み屋にはそんなものよりももっと貴重な酒があって、人生の方は我々がどこへ行っても、いやでもついて来る。」。首肯。

 新潟でたらば蟹を食べて「鋏の中の肉と胸の所の肉には月に照らされた湖の水面の涼しさ」があり、「川魚は一体に海の魚よりも女の感じがする」という。至る所に個性とエスプリが充ちているエッセイだ。もちろん、海外でのエピソードも多い。イギリス、フランス、アメリカ、中国での飲み歩きも非常に楽しい。余りにも面白いので、時々朗読して妻に聞かせたら「これを聴いているとアル中になってもかまわないという気がしてくるね」などと恐ろしい一言を漏らした。

 この作品のただ一つの欠点は、仕事中や昼休みに読めないことだ。何と言っても、読んでいると、酒を飲みたくなってしまうのである。それも今すぐに。なんとも危険なエッセイである。


→bookwebで購入

『第四間氷期』安部公房(新潮文庫)

第四間氷期 →bookwebで購入

「私たちははたして未来に適応できるか?」

 安部公房の作品との出会いは、札幌のジャズ喫茶だった。当時高校2年の私は、始めてジャズ喫茶に足を踏み入れた時、その空間に魅了されて、以後毎日のように通う事になってしまった。そんな時、高校の先輩が隣のボックスに座って『水中都市』を読んでいた。その姿が「かっこ良かった」ので、安部公房に興味を持った。『壁』から読み始めて、『砂の女』、『箱男』、『燃えつきた地図』、『他人の顔』、『終わりし道の標べに』とどれを読んでも面白かった。そしてそれは、アンドレ・ブルトン、ロートレアモン、モーリス・ブランショ、フィリップ・ソレルスへと続く、文学遍歴の始まりでもあった。

 今回教え子の一人が『第四間氷期』を論文の課題に選んだので、久し振りに読み返してみたが、やはり面白かった。ジャンル的にはSFに属すべきものかもしれないが、小説のジャンル分けなど(小説という呼び名すらもジャンル分けなのだが)意味がないという事を、この作品は示している。もしくはSFというものに対する認識の過ちを教えてくれる。安部は私たちが考えている「現実」と真の「現実」とのズレを指摘してきた作家だが、この作品においてはそれが顕著に現れている。

 科学者である主人公の勝見博士は、データを入れると未来を予言することのできる「予言機械」を発明する。しかし、彼は学問的興味のためにしか発明を認識できず、来るべき未来を受け入れることができない。近い未来、海面が上昇し世界の大陸は水没するという予想がなされるが、勝見博士はそれに対応する具体策を持たない。予言機械を信用できないだけではなく、未来は現在の延長であると考えているからである。

 だが、すでに対応策を考えている人々がいた。水棲人間の模索である。それは確実に現実化していて、途中で勝見博士の研究と交錯する。それでも未来を受け入れることのできない勝見博士は、弟子たちによって「淘汰」される事になる。助手の頼木は勝見に言う「プログラミングというのは、要するに質的な現実を、量的な現実に還元するだけの操作ですね。その量的現実を、もう一度質的現実に綜合するのでなければ、本当に未来をつかんだことにはなりません。」

 未来は現実を発展させたものとは限らない。未来は破壊的であるかもしれないし、現実とは全く何の関係の無いものであるかもしれない。未来とは四次元からの挑戦であると言ったのは、小松左京だったか。私たち三次元世界に生きている者は、四次元世界を認識することはできない。いったいどのように私たちは未来の姿を考えて行くべきなのだろうか。

 コンピューターが実用化されたのは1960年代であり、地球温暖化が世界的テーマとなってきたのは、最近のことである。そう考えると、安部公房がこの作品を書いたのが1958年であった事に驚く。一般大衆よりも科学者はかなり突飛に見える未来を予測し、文学者はそれよりももっと突飛な未来を描き・・・・・・そして実際の未来はそれよりもはるかに突飛なものとして現れる。はたして私たちの未来はどのようなものなのだろうか。



→bookwebで購入