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2009年10月31日

『本格小説』水村美苗(新潮文庫)

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「救いの無い絶望」

仕事でハンガリーのブダペストに行ってきた。幸いバカンス時期だったので、会議が終ってから数日間私的滞在を続けた。温泉で有名な町なので、日本とはまた違った形の温泉を楽しめた。偶然同じホテルに滞在した、同僚である日本人女性のご主人はハンガリー系イギリス人だ。この二人が歴史博物館を訪れた時に、悲しい想いをしたと言って帰ってくるのに出会った。

 歴史博物館では、1956年革命の詳細な展示があったそうだ。多くの国が悲惨な歴史を持っているが、ハンガリーもまた重い歴史を背負っている。そして一人の人間もまた、苦しく重い歴史を持ちながら生きている事を、水村美苗の『本格小説』が思い出させてくれる。「本格小説」というのは、作者の身辺に材を取った「心境小説」に対して、社会的現実を客観的に描く姿勢を持った作品だ。

 水村美苗は父の転勤に伴いアメリカに住み、日本文学を愛しながら育っている。そのような過去を持っているからこそ『続明暗』を書くという、蛮勇とも言える行動をとっている(作品そのものは漱石が出し得た一つの結論を確かに明確に提示している)し、『私小説 from left to right』という意欲的作品を書き、『日本語が亡びるとき』で私たちを刺激している。

 『本格小説』は東太郎という、裸一貫でアメリカに渡り大富豪となった人物を描いている。こう書くとサクセスストーリーのように聞こえるが、全く違う。金を得たことは東にとって幸福だったのか不幸だったのか分らない。物語は作者自身と思われる(名前も水村となっている)一人称の語り手が、東太郎との出会いとその後を語ることから始まる。そうしてある時、東の半生を知る青年に出会い、その青年から聞いたことが次の物語となる。

 水村は東が実在の人物であり、ここに書かれるのはフィクションではないと強調する。もちろん東太郎は実在しないだろうし、モデルがいたにしても、この物語は虚構である。しかし、そこにこだわる所にこの小説の「仕掛け」があるようだ。日本で発達した「私小説」と「本格小説」の間に潜む何かを掘り起こそうとしたのだろうか。

 日本人以外の血が混じっているとされる東は、極貧の子供時代に、隣家の恵まれた階級の娘よう子と親しくなる。だが階級の違いから二人の仲は裂かれる。失意の東はアメリカに渡り大富豪となり日本へ来るが、よう子の母や叔母たちは階級の違いも常識も超えた愛を理解しない。結果的にまた必然的に悲劇となる。

 この作品を読みながら、私の胸裏には常に『嵐が丘』のヒースクリフの姿が浮かんでいた。『本格小説』は決して復讐劇ではないのだが……読み終えてしばらくすると、『華麗なるギャツビー』のギャツビーの姿も浮かんできた。共通するのは癒されることの無い悲しみだ。日本にもかつて存在し、多分今もどこかには存在している「階級」を描いているのかもしれないが、それよりも人が人として生きていくうちにどうしようもないものに出会ってしまうという運命、そして死はどんな感情をも断ち切ってしまう存在であるという「現実」を静かに、着実に表現している。


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