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2009年07月27日

『私という運命について』白石一文(角川文庫)

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「運命とは何者なのか」

 フランス人はラテン系人種の特色を見事に見せる時がある。明確に言えば、「いい加減」な時があるのだ。これを、許せるか許せないかは、人による。ドイツ的気質を好む人にとっては、たまらなく嫌だろうし、ラテン的気質が好きな人にとっては、長所にもなりうる。一度ダメと言われたものが、担当が変わると通ってしまったりする。何事にも大雑把になり易い北海道人である私にとっては、これは「良い」加減と感じられる。

 このような世界に慣れてしまった私には、白石一文の『私という運命について』は、非常にドイツ的な作品であり、几帳面で真面目で、脈絡が合い過ぎている作品だと感じられる。少々息苦しいのだが、ストーリー展開が上手く、読み易い。現実の出来事を忠実に織り込んでいるのも、臨場感を与えている。

 私の仕事である国際バカロレア(International Baccalaureate)において、かつて「文学は時代を反映するか」というテーマが出題されたことがある。この作品は、日本人にとって忘れがたいトピックスが次々と現れるので、まさに時代を反映していると言えそうだ。主人公である冬木亜紀も、男女雇用機会均等法を背景に、大手情報機器メーカーに勤める、女性総合職の一期生である。

 亜紀の29歳から40歳までの人生を描いているのだが、読了してみると、そこに現出するのは、時代を超えた人間の営みであり、男女のそして家族の永遠の課題でもある。現実味を出す為に織り込まれた種々の事実、事件は、自己の人生に真摯に立ち向かおうとする亜紀の姿により、意味を持たなくなる。臨場感を出すための要素とのコントラストにより、却って亜紀の姿は時の呪縛から放たれていく。

 亜紀の側からプロポーズを断った佐藤康と、10年の歳月を経て再会し結ばれるのだが、その幸せは長くは続かない。最後に康に訪れる不幸は少々唐突であり、亜紀の夢に現れる白馬のイメージは祭りの単純な逆算であり、像が不明瞭な脇役もいる。それでも、必死で生きていく亜紀の姿には感動を覚える。「人間というのは、一人で生きる時間が長くなればなるほど、きっと他人に預けられない、委ねられない、任すことのできない強固な自分自身というものを形作ってしまう」という、亜紀の言葉に共感を覚える人も多いだろう。

 ところで、良い作品の条件とは何だろうか。私はその一つに、最後の一行を読んだ後の、世界の広がりがあげられると思う。良質な作品は、私たちを無限の想像世界へと誘う。良い作品は収斂せず、無窮の彼方へと拡散する。この作品は、無限の拡散を持っているとは言えないだろうが、少なくとも亜紀と、康の母である佐智子、そして亜紀の息子の康一郎の、これからの人生を想像する楽しみがある。一読に値する秀作である。


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2009年07月24日

『月魚』三浦しをん(角川文庫)

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「友人以上家族未満?」

連載が長く、ヒットしている漫画の初期の頃を見ると、絵があまり上手でないことに驚くことがある。しかし、第一巻から読み返してみると、絵が不十分な時でも、何か強烈な魅力を持っているものである。小説にも同じ事が言えるようだ。文章の拙さは目につくものの、不思議な魅力を備えている作品に出会うことがある。

 三浦しをんの『月魚』は私にとってそんな作品だ。もちろんこの作品が書かれたのは10年近く前であり、その後2006年に『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞を受賞しているのだから、『月魚』に才能を見いだすのは、結果の分かっている勝負の回想をしているようにフェアではないかもしれない。だが、私はこの文庫本を、フランスから一時帰国している今、実家のある札幌郊外の書店で偶然手に取り購入したのだ。そして、読み上げて自分なりの感想をまとめてから、直木賞受賞の事を知った。

 文章の拙さは、特に比喩の落ち着かなさにある。「濃縮された闇を貯蔵する雑木林」という暗喩も、古書店『無窮堂』に向かう瀬名垣のタバコの火が「寄港の許しを請う合図のように」明滅するという直喩も、どこかしっくりとこない。しかし、そのような生硬な文体もあまり気にならなくなるほど、登場人物が魅力的だ。

 本田真志喜は、古書店界の重鎮であった祖父の跡取りで、『無窮堂』の三代目当主。瀬名垣太一は、「後ろ暗い経路で手に入れた本を売る」『せどり屋』であった父親が本田翁に目をかけられたお陰で、真志喜と子供の時に出会うことになる。瀬名垣は幼い頃から古本とともに育った為に、本に対する鋭敏な感覚を身につけた。やがてそれが一つの悲劇を生む。

 ある日、12歳であった瀬名垣は、真志喜の父親が捨て本として区別しておいた山の中から、世の中に一冊しか存在しないという幻の稀覯本を発見する。真志喜の祖父は瀬名垣を讃えるが、父親はいたたまれず何も言わず出奔する。その後、真志喜と瀬名垣との間には、複雑な感情が生まれる。父親の消息は不明のまま、二人は古書を通じて家族とも友人とも言えぬような関係を築いていく。

 面白そうな古書の情報が入り、二人は山奥の旧家におんぼろトラックで買い付けに行く。そこで、真志喜は父親と再会し、種々の感情が交錯し合うのだが、何といっても魅力的なのは真志喜と瀬名垣との関係だ。一瞬同性愛を思わせるような記述があったりするが、そうではない。友人以上家族未満、友情以上恋愛未満とでも言えるか。いやある意味で家族以上に結ばれているのではないかと思わせる時もある。

 男女間の関係は友人か恋人しか考えられなかった私たちの若い頃と比べて、現代の恋愛は「友人以上恋人未満」という関係の中に無数の男女が存在しているらしい。そんな微妙な関係を非常に上手く描き、主人公たちは限りなく優しい世界を作る。心地よい世界である。古書という世界も興味深い。

 本好きの人には、旧家で飼われている二匹の犬の名前が「ゴン」と「ミール」である事も、面白いだろう。未亡人の好む一冊の本を探り当てる事が、重要な要素となるのだが、ヒントは逝去した主人が最近西洋演劇関係の本に興味を持っていた事であり、犬の名前の由来が決定的な鍵となる。さて、ここでお分かりになった方はいるだろうか。答えは十分に納得できるものなので、一読をお勧めする。


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