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2009年05月29日

『華岡青洲の妻』有吉佐和子(新潮文庫)

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「嫁と姑との確執」

 嫁と姑の問題は人種や国籍に関係なく、どこにでも存在するだろう。フランスでは一般的に若者は早目に家を出て独立することが多い。最近は金銭的理由で親と同居する者も増えてはいるが、日本よりはるかに少ないだろう。だからと言って、親子の絆が弱いわけではない。日曜日に両親の家へ食事に行くという習慣が昔からある。

 有吉佐和子の『華岡青洲の妻』に見られる嫁と姑との確執は、はたして日本独特のものなのだろうか。主人公の加恵は、世界で初めて麻酔薬を発明した青洲の妻である。家格の低い花岡家から嫁にと請われ、喜んでそれを受けたのは、幼い時に加恵が青洲の母である於継(おつぎ)の凛とした美しさに憧れたからである。

 加恵が嫁いでからしばらくは順調な日々が続く。京都で医術を学んでいる青洲に金を送るために、全ての家人が働いている。加恵もその手伝いをし、於継にも褒められ、理想的な嫁姑関係が出来上がっていく。加恵の自分に対する想いも理解し、青洲がいない間は、遠くにいる青洲のためにという共通の目的があり、於継は加恵を娘のように可愛がる。

 ところが青洲が帰国すると状況は一変する。於継は青洲の世話に夢中になり、加恵を無視し冷たくあたる。遠い存在への二つの想いは並行するが、それが眼前の青洲へ向くと激突するのである。妻である加恵に、夫と共寝することさえ禁止する於継に、加恵は憎悪と嫉妬の炎を燃やす。「夫の母親は、妻には敵であった。独り占めを阻もうとする於継の無意識の行為もまた嫁に対する敵意に他ならなかった。」

 麻酔薬の完成を目指す青洲に残された課題は、人体実験だ。息子への想いと加恵への対抗心から、於継は自分を使えと主張する。加恵も当然名乗りを上げる。青洲は身体への影響を考え、於継には弱いものを、加恵には実験に必要な量を処方する。於継はそれを知り落胆し、実験は成功するが加恵はそのせいで失明する。やがて於継が逝き、入れ替わるように加恵は青洲の跡継ぎの男児を産む。

 加恵は於継に勝ったのだろうか? 確かに加恵は以前の於継のように、背筋の伸びた凛とした気品のある美しさを持った。墓も於継のものより「一まわり以上も」大きい。だが、未婚のまま癌で死んでいく小姑の小陸が加恵に言う。「お母はんと、嫂(あね)さんとのことは、ようく見てましたのよし。なんという恐ろしい間柄やろうと思うてましたのよし。」そして「私は嫁に行かなんだことを何よりの幸福やったと思うて死んで行くんやしてよし。」と語るのである。

 青洲は二人の確執を何と思っていたのだろう。有吉は彼の心境はあまり描かない。しかし作品の最後は青洲の墓の記述で終わる。「この墓の真正面に立つと、すぐ後に順次に並んでいる加恵の墓石も、於継の墓石も視界から消えてしまう。それほど大きい。」この作品ははたして嫁と姑の問題を描いたものなのだろうか。親族殺人等が目立つ昨今、「家」の問題と共に、家族のあり方について熟考させてくれる一冊であることは、間違いない。


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2009年05月11日

『おくりびと』百瀬しのぶ(小学館文庫)

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「死の風景」

 小説を映画化するのは難しい。というより、小説を映画化し、先に小説を読んでいた読者を、映画が満足させることは非常に困難だ。もちろん、映画史を振り返ってみれば、小説から映画化された作品でも名作は存在する。それでも、作品を読んでから映画を観て、作品以上に感動したことは滅多にない。安部公房の『砂の女』でさえ、そうだった。文芸作品の映画化「としては」素晴らしい、と思っただけだった。

 これは多分に創造力の問題であるだろう。小説を読む時に、読者は想像の翼を広げ、自分の可能な範囲で小説の世界を構築する。上手な作者であれば、読者の想像は個人差が減るかもしれないが、それでも全く同じ世界で登場人物たちを動かすことは不可能だ。故に、自分が作りあげた世界と、映画化された世界の違いが、不満足を生む。時には、違った考え方を見せられて大いに感心することもあるが、違和感は残る。

 だが、今回不思議な経験をした。映画が先にあり、それをノベライズした作品を読んだのだ。映画はまだ観ていないが、映画を小説化した作品を読んだ。アメリカでアカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと』である。偶然知人が置いていったものだが、手持ち無沙汰に読んでみると、非常に面白かった。

 楽団のチェロ弾きから納棺師への転身という設定も奇抜で面白いが、普段聞き慣れぬ「納棺師」という言葉に興味が引かれる。亡くなった人の遺体を美しく仕上げ、納棺するまでの過程を担当する仕事だ。「納棺師」というのは聞き慣れない語だが、一応Wikipediaによると、1954年の青函連絡船洞爺丸の沈没事故をきっかけに、札幌納棺協会が葬儀ビジネスとして使い始めた造語らしい。

 主人公は楽団が解散し失業した事によって、心機一転を図るために、妻と共に山形の実家へ戻る事にする。母が残してくれた家で新たな生活を始めながら、再就職先を探す。新聞の求人欄で条件の良い所を探し、面接に訪れたのが、納棺を仕事とする会社だった。給料の良さと社長の人柄のせいで、断ることもできず、しかし妻に打ち明けるわけにも行かず、納棺師見習いを始めてしまう。

 ここまではユーモラスなホームドラマ風の流れなのだが、仕事が始まるとそれは一転する。遺体を扱うという仕事の大変さ、昔の同級生からの非難、仕事の内容を知った妻の出奔と苦労は重なり、それを背景にして、主人公は死の形について考えを深めてゆく。死者との日常は正者との日常を再認識させる。親しい人の死により、その人の人生が自分に染み渡ってくる。

 しばらくして妻は戻ってきて、二人の子供が生まれる事を告げる。また、小さい頃に主人公と母を捨てていった父親の「納棺」を担当する事にもなる。ここには死と生が決して両極の存在ではなく、あくまでも「日常」のものであるという現実が顕在化している。かつて谷川俊太郎は、現代は死を見失っているがために生の意味も見失いがちだと指摘したが、『おくりびと』は死を私たちの元に引き寄せる事によってこそ、生もまた近づいてくれるという、この世の摂理を示しているようだ。


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