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2009年03月29日

『限界芸術論』鶴見俊輔(ちくま学芸文庫)

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「限界芸術とは何か?」

フランスのテレビで以下のようなコマーシャルが流れていた。若い娘が彼氏を始めて自宅に連れてきて、両親に紹介する。ぎこちない時間が過ぎていくが、父親が彼に「ところでご職業は何ですか?」と聞くところで、緊張が高まる。彼が「Artisant(職人)です」と答えると、両親が「それは素晴らしい。最高の仕事だ!」「お前は良い選択(彼の事)をしたな」と娘に言って、ハッピーエンドとなる。

 何のコマーシャルかというと「Artisant」の宣伝なのだ。それ位フランスでは「職人」というのは尊敬される職業でもある。ドイツにもマイスター制度(現在は衰退しているらしいが)があるのをご存知の方も多いだろう。このようなコマーシャルは果たして日本に存在しているだろうか。鶴見俊輔の『限界芸術論』は、そのような職人の世界よりも広い、「芸術と生活との境界線」にあたる作品を論じたものだ。

 鶴見は芸術が「楽しい記号」だとし、「それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術」だと言う。芸術とは、姿勢を正して緊張しながら鑑賞するものだと考えている多くの人にとって、何だか肩の力が抜けていくような安堵感を覚える定義だ。さらに「すべての子供は起きているあいだじゅう芸術家であるが、大人になると、酒をのんでいるあいだだけ芸術家になることにとどまる。」と言われると、妙に納得できる。

 「限界芸術」の例として、盆踊り、盆栽、生花、茶の湯、漫才、羽子板、書道等が挙げられているのは、分かりやすい。しかし、さらに日常生活の身ぶり、らくがき、ゴシップ、墓まいり、デモ等も数えられているのが面白い。身近な生活形態に「わび」、「さび」、「渋み」を含んだ芸術の概念が入り込んでいるのは、東洋でも類を見ない「無地と未完成を愛する国民的哲学の伝統」があるからだと主張する。確かに日本には昔から「省略の美学」が流れている。

 柳田国男、柳宗悦、宮沢賢治等についての論考があるのは当然だが、種々の大衆芸術を論じ、黒岩涙香、三遊亭円朝、鞍馬天狗を分析するのは非常に面白い。この柔らかくしなやかな思考が、鶴見の持ち味である。だが、題材が私たちの身近なものであり、文章が分かりやすいからと言って、作者の思想も緩やかなものであると思うのは間違いである。

 鶴見は言う。「ぼくは、日本の民衆のあたえられてきた大衆芸術が『低い』から、それらを、『より高い』ものである西洋の近代小説などによってオキカエることで、日本人の精神生活を近代化しようという思想に、うたがいを持つ。」これこそが、筆者が若き頃アメリカの知的環境の中で学んできた、健全なる批評の精神ではなかろうか。身近な生活の中から大切な思想を導き出す。その意味においては、『限界芸術論』は鶴見が描き出した「限界思想」であると言えるだろう。


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2009年03月12日

『愛撫』庄野潤三(講談社文芸文庫)

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「日常生活に潜む不安」

時間の流れの違いなのだろうか。フランスから日本へ一時帰国すると、どうも落ち着かない。パリに似た、または一見それよりも美しく見えるカフェも大都市では増えているのだが、そんな所に座っていても落ち着けないのだ。何かに追われているような感じがしたり、不必要な罪悪感に似たものを感じたりする。パリのカフェではそんな事は全く無いのに。日本のリズムがそうさせるのだろうか。

 しかし、日本もかつてはそんなリズムで動いていたわけではない事が、庄野潤三の作品集『愛撫』を読むと良く分かる。高齢の現在も活躍している作家だが、ここには半世紀ほど前に書かれた秀作が七篇収められている。その内の一つ『静物』は、新潮社文学賞を受けた作品だ。父親(作家自身と思われる)と母親、それに3人の子供の、取り立てて大きな事件も無い日常を描いている。

 もちろん、世間的に大きな事件ではなくとも、一つの家庭にとって事件は沢山あるし、それが淡々と描かれている。そして、そこに流れている時間は、今とは随分違う。人と人とがきちんと向き合っているのだ。ゆっくりと相手を掴み取り、その全存在へ向けて言葉を発する。相手からも等身大の言葉が帰ってくる。私たちはしばらくこのような「当たり前の」会話を忘れているような気がする。パソコン、ゲーム、移動手段、通信機器等全てがスピードアップしている。「人」という存在は、それについていっているのだろうか。

 父親は上の子供二人を連れて釣堀に行く。なかなか釣れないのだが、偶然のように小さな金魚が一匹釣れる。親子はその金魚を持ち帰り、金魚は子供の勉強部屋に住みつく。子供が三人いるのだから、いつ金魚鉢に何かが起こっても不思議ではない。だが、意外と「事件」は起こらず、金魚も無事なままだ。そんな時父親が言う。「よそ見している時にかかった金魚だ。大事に飼ってやらなくては」

 一見何の変哲もない一言のように聞こえるが、どうも気にかかる。これは父親にとって、自分と家族との関係ではないのか。真剣に「釣りたい」と思った妻でも子供たちでもない。「よそ見」している時に「かかってしまった」家族なのだ。それゆえにこそ大切にすべきである。それこそが人生であり、現実である。空想の世界で生きていくわけには行かないのだ。そんな父親の無意識下の言葉が聞こえてきそうである。これは単なる幻聴だろうか。

 「静物」とは本来自ら動く力の無いものを指す。絵画の世界ならば、人物や風景以外の題材を指す。どちらにしろ、人間を描いているわけではないはずだ。それなのに描写されているのは、日常生活である。ここに、何か不定形の得体の知れないものが潜んでいるようだ。小説家とは、日常生活の中で見ようとして見えないもの、見えないのに確かに存在している何か、そういった形而上の異界に踏み込んでいく者なのかもしれない。


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