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2008年10月24日

『薬が効かない!』三瀬勝利(文藝春秋)

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「細菌との共存社会」

 先日ギヨーム・ドゥパルディユーが急死した。37歳という若さだった。彼をご存じない方もいらっしゃるかもしれないが、フランスを代表する俳優ジェラール・ドゥパルディユーの長男といえば、お分かりの方も多いだろう。父同様映画界で活躍し、音楽の才能もあると言われていた。素行の悪さから父との不仲が取りざたされたり、バイクの事故後の感染症で右足を失ったりしたが、死の病にかかっていたという噂は聞かなかった。

 ニュースで死因を聞いて驚いた。La pneumonie foudroyante (劇症肺炎)という聞きなれない病名だったのだ。名前からしてとんでもない肺炎なのだろうという事は見当がつくが、良くは分からない。丁度手元にあったのが三瀬勝利の『薬が効かない!』だったので、早速読んでみた。最近肺炎による死者数は10万人に近く、癌、心疾患、脳血管疾患についで4位だが、心疾患や脳血管疾患の死者数が頭打ちになっているので「そう遠くない将来、肺炎は第二位に躍り出る勢いにある。」というのである。

 これほど肺炎で亡くなる人が多いとは知らなかった。しかも、抗生物質耐性菌が増えていて、まさに「薬が効かない」ケースが増えているのだ。こうした耐性菌の増加は抗生物質の乱用が原因だという。アメリカでは保険制度のせいで抗生物質の使用に慎重だったが、日本は保険制度の「お陰」で抗生物質を多量に使用して、その結果耐性菌大国となっている。患者だけではなく、飼料として家畜に、農薬として農作物にも使われている。

 小さい時、痛くてもペニシリンの注射を打たれると、これで大丈夫と安心したものだ。だが今は年々ペニシリン耐性菌も増えている。結核に関しても同様、多剤耐性結核菌が蔓延している。医学の発達のお陰で怖くなくなったはずの病気が、再び大きな脅威として私たちの前に立ちはだかっている。その現況を筆者は図等を多用し優しく解説する。文系の読者の為に化学式を殆ど使わないという配慮(笑)もありがたい。

 では私たちはどのように戦っていけば良いのか。まずは耐性菌を増やさないことである。そのために「抗菌グッズ」は使用してはいけない。健康な人にとって「抗菌グッズ」は百害あって一利なしなのだ。身体も含めて私たちの周辺に耐性菌を育てない事が大切だ。そして、「過剰な殺菌を中止し、細菌との共存をはかること」を提唱している。薬というのは、本来「患者を救う割合が、患者を殺す割合より高いもの」であり、「六十四歳以下の成人の風邪患者に抗生物質を与えることには害のほうが多い」と言うのだ。

 数年前に薬大国であるフランスでも、言葉遊びのように「L’antibiotique n’est pas automatique(抗生物質を自動的に[無意識に]摂取してはいけません)」という宣伝が良くテレビで流れていた。私たちができるもう一つの対策は普段から免疫力を高めておくことだが、そのために筆者は言う。「ストレスや悲しみは防御機構を低下させる反面、精神の高揚や美しい音楽などは免疫力を高める」。薬に頼らず、楽しいことを増やし、「死ぬまで元気で」いたいものである。


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2008年10月15日

『時が滲む朝』楊逸(文藝春秋)

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「故郷とは?」

 パリには外国人が多い。そして、パリで活躍する外国人も多い。天安門事件の頃、中国から亡命してきた若きリーダーもいた。早熟の才能を持ち活躍する中国人作家シャン・サもいる。その頃はシャイヨー宮から程近い所に住んでいたので、トロカデロ広場で学生たちを支援する集会があったのも目撃した。そのせいではないだろうが、楊逸の『時が滲む朝』を読むと、なぜか懐かしさがこみ上げてくる。

 もちろん舞台は中国であり(後ほど日本に移るが)、主人公は中国人青年である。それなのに、この作品を読みながら「懐かしい」という想いが湧いてきて仕方がなかった。大学で何かの目標に夢中になって、恥ずかしいほど真っ直ぐな姿勢が見られるのが懐かしいのだろうか。それとも天安門事件に繋がる、病にも似た熱い想いを持っている主人公たちが懐かしいのだろうか。どちらも少し当たっているかもしれない。しかし、もう一つ「故郷」という要素があるようだ。

 授業の時に子供たち(中・高校生)に、あなたたちにとって故郷とはどこですか、と尋ねた事がある。大抵は、東京、横浜、大阪等種々の都市名を挙げる。残りの殆どは、ロンドン、ニューヨーク、バンコク等、海外の都市名を挙げる。海外生活が長いせいだ。だが数名の生徒は、私には故郷と呼べる場所がありません、と言うのだ。親の転勤のせいで世界中を移動して歩き、故郷と聞かれた時に思い浮かぶ土地が無いのだと。故郷が無いというのは、どのような心境なのだろうか。

 主人公の浩遠は、田舎の町から大学入試に合格し、秦都へ行く。何もかも驚く事だらけだ。このあたりは漱石の『三四郎』を思い出す。誰でもこのような心境になるだろう。私も始めて東京へ行った時は、同じだった。浩遠は親友の志強と共に勉学に励むが、その時には常に故郷を意識している。やがて尊敬する甘先生の影響下に、学生運動へと参加する。より良い国家を目指してという理想の背景には、豊かになる故郷への想いが見え隠れする。

 当局の介入により運動は挫折し、ある事件により勉学の道も閉ざされる。日本人である中国残留孤児の娘との結婚により、日本で暮らし始めるが、故郷への思いは止むことなく、日本でも中国民主化運動に打ち込む。ビザの取得や仕事探しの為に運動を利用する同胞たちへの軽蔑心を持ちながらも、複雑に変化する祖国や、志強の存在に当惑する。そんな時、亡命していた甘先生や、今はその妻となったかつての同志と久々に再会する。

 祖国へ戻る彼らを見送った後、浩遠の幼い息子が尋ねる。「ふるさとって何?」「ふるさとはね、自分の生まれる、そして死ぬところです。お父さんやお母さんや兄弟たちのいる、暖かい家ですよ」と答える浩遠に、息子は言う。「じゃ、たっくんのふるさとは日本だね」父はどのような想いでこの言葉を聞いただろうか。家族の故郷が一致しない事は、少なくない。だがそれが国まで違うとなれば、やはり想いは遠い。この遠さが懐かしいのかもしれない。その意味において、この作品は楊逸の故郷探しにも繋がるのだろう。


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2008年10月11日

『日本料理の歴史』熊倉功夫(吉川弘文館)

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「食欲の秋に!」

今パリには500軒を越える日本食レストランがあるらしい。用事があり久し振りにオペラ界隈に行ってみたら、見たことも聞いたこともない日本料理店が、まさに雨後の筍のようにできていた。しかも皆結構人が入っているのである。満席で人が並んでいる店も何軒かある。少し前まではこのような風景は想像もできなかった。

共通しているのは殆どの店で「Sushi・Yakitori」という看板を出していることだ。だから日本料理というと鮨と焼き鳥と言うイメージを持っているフランス人が多い。ただし、多くの店では日本人が作っているわけではない。一人くらい日本人がいても、経営は中国系の人だったりする。それ自体は悪いこととは言えないが、日本料理をきちんと学ばずに生ものを扱うのは、恐ろしい気がする。また、日本料理の概念自体も曖昧になっていく恐れがある。

 外国暮らしが長くなると、日本に一時帰国した時に、伝統的な日本料理が食べたくなる。一介のサラリーマン教師には料亭は高嶺の花だが、時々奮発して質の良い割烹へ行く。特に京都を訪れる時の大いなる楽しみとなっている。そんな時、日本料理とは元々どんな物なのか、京料理とは何を指すのか等、色々と疑問が湧いてくる。熊倉功夫の『日本料理の歴史』は、そんな素朴な疑問に丁寧に答えてくれる。著者も食のグローバリゼーションに対する疑問が、執筆の動機になっていると言っているのも面白い。

 かつて日本は朝夕の2食制であったが、それにしても平安時代の「大饗」と呼ばれる宴会の食べ物の量はすごい。これが中世の本膳料理へと繋がっていく。式三献と呼ばれる(今の「駆けつけ三杯」の元)酒とおつまみから始まって、その後、本膳・二の膳・三の膳となるが(七の膳まで付くこともあった)、何と5汁18菜にもなる。その後に酒宴が始まるというのだから、昔の人は健啖家だと思いきや、食べることよりも饗応の華美が目的となっていたと言う。

 さすがに江戸時代になると、二の膳つきで2汁5菜が標準となったらしいが……幼い頃父親が何かの祝宴に呼ばれた時に持ってくる折り詰めが、私は楽しみだった。同様の記憶をお持ちの方も多いだろう。本膳料理の名残は、こういった食べきれないほどの宴会料理に残っているのかもしれない。

 当然精進料理の歴史や懐石の歴史も詳述されているが、京料理という概念が割合新しいものだと言うことが面白い。言葉としては明治時代からあったらしいが、関東大震災の時に関西から料理人が多く東京へ行き、その頃から少しずつ明確な形をとり始めたようだ。「瓢亭」の店主高橋英一は、京料理を「有職料理、精進料理、懐石料理、おばんざい」の4つの流れがミックスした所にあると定義する。なるほどと、著者は感心している。

 具体例や写真も豊富で、分かりやすく、楽しい本である。最後に著者は海外での動きに関し「フュージョンが進めばまた伝統への求心力が高まる」と述べているが、はたして「新日本料理」はどうなっていくのか。時々パリの街を歩きながら、和食レストランの看板を眺めたいと思っている。


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2008年10月05日

『生命徴候あり』久間十義(朝日新聞出版)

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「医者の良心とは?」

 久間十義の作品には、『マネーゲーム』、『聖マリア・らぷそでぃ』等、実際に起こった事件を基にしたものが多い。その意味においては社会派の小説と呼べるのかもしれない。だが、作品をカテゴリー分けすることにそれほど意味は無い。モデルがあったにしても、そこに表れるのは作者の個性であるし、そうでなくてはいけない。三島由紀夫の『金閣寺』を見ても、それが良く分かる。

 久間の初期の作品には、世間を賑わせた事件の当事者を、作者なりの視点で捉えなおしたという興味深い一面があるが、その人物が『金閣寺』の溝口のように、奇妙な現実感を持って立ち上がってくるほどの存在感は感じられなかった。しかし、『生命徴候(バイタルサイン)あり』の主人公である耀子には、一人の人間としての統一感と存在感が見られる。それは社会的題材を扱いながらも、単に大学の医局と大学病院の不透明さと不健全さを告発するのみに終わっていないからだろう。

 綿密な取材の基に描かれる数多くの手術シーンは、迫力に満ちている。また、ライブドア事件を思わせる、主人公のパートナーであるミッキーの半生は、ITがすっかり身近になってしまった我々にとって興味深い。年代の記述と共に描写されるこれらの場面は、読者に妙な既視感を与え、独特の臨場感に溢れている。だが、それだけならば、日常的にテレビで流れる興味本位のドラマに過ぎない。

 この作品を心地良くしているのは、登場人物の優しさだ。ミッキーも優しい。既に亡くなっている耀子の両親も、祖母も、また途中で亡くなる祖父も、生死の境をさまよう一人息子の譲も優しい。絶望に陥る耀子の夢に現れて彼女を励ますこれらの人々は、まるで吉本ばななの作品に表れる不思議現象のようだが、とにかく優しい。そして、何よりも主人公は患者に優しいのである。

 IT、M&A、IPO等、非人間的な世界が数多く登場し、医局の権力争いも含めてそれらに翻弄される耀子だが、彼女は死者とミッキーの優しさに救われる。そして、自己の生きる意味を教えられる。グローバリゼーションやIT革命によって、否応無しに人間離れした世界に巻き込まれている私たちにとって、最後の砦は人間としての優しさであり、一人一人が自分の生きる意味を捉える事であろう。それをこの作品は伝えてくれる。

 久間は北海道出身なので、北海道の描写には「慣れ」以上の思い入れが感じられる。もっともそれは、私自身が北海道出身で、久間と同時期に同じ高校で3年間過ごしたせいもあるのかもしれない。その高校時代、人の生きる意味や、社会の役割、芸術の役割等夢中になって話し合った時期が誰にでもあるだろう。私も時々自己の生きる意味を考える時に、その時代に思いを馳せるが、もしかしたら作者の執筆動機にもそんな時代が影響しているのかもしれない。


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