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2008年05月29日

『金閣寺』三島由紀夫(新潮文庫)

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「なぜ「生きよう」と思うのか」

 パリに住んでいると、必然的に「美」とは何か、ということを意識させられる。美しいものが多いのである。石の街並も美しい、ノートルダムも美しい(特に後姿が)、夜景も美しい、街行く人の姿も美しい、そして長年住んでいても、常に新しい美の発見がある。

 だが時として、日本的美がないのが寂しくもなる。それは木の柔らかさに繋がる。トトロの森のような原風景であったり、京都、奈良の寺社仏閣に使われている古びた木であったりする。優しいのである。石は美しくとも、人を拒絶する冷たさと隣り合っている。かつて饗庭孝男が『石と光の思想』で指摘したように。

 美を想う時、いつも心に引っかかるのが、「金閣寺」は美しかったのだろうか、ということだ。もちろん今も金閣寺は存在するが、戦後まもなく林養賢によって焼かれている。それを題材にしたのが三島由紀夫の『金閣寺』である。

 三島は常に青年にとって魅力的であるようだ。『金閣寺』を授業で扱うと、「難しい」、「面白い」という言葉が必ず返ってくる。一部の生徒は「三島病」に罹り、彼の他の作品を読み漁り始める。難解と言う生徒も多いが、詳しく解説していくと、結構興味を持つ。

 主人公の溝口は美に憑かれた存在だ。それは彼が醜いからだ。彼は吃音を持ち、そのせいで自己と他者をつなぐ扉の鍵が錆びついていると考えている。自分が醜いゆえに美を求める。最初は有為子という女性が対象となるが、彼女は恋人を裏切る形で死んでいく。

 次の溝口の標的が金閣寺だ。父に聞かされた心象の金閣と、嘱目の金閣とが重なり、最高の美を顕現する。さらに戦火により金閣寺と心中できる可能性が高まることにより、溝口の期待は最高潮に達する。だが金閣寺は焼けなかった。

 金閣寺の住職になり美を支配しようとするものの、それも不可能になる。ここに柏木という大学の同級生が出現する。柏木は「認識」を大切にし、溝口は「行為」へ進もうとする。ここが面白く、難しいところだ。私たちは目の前に壁が立ちふさがった時にどうするだろうか。壁に対する認識を変えて精神的に乗り越えるか、それとも壁を物理的に排除しようとするか。

 最終的に溝口は行為を実現する、つまり金閣寺を焼くが、その時に「ぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もある」と考える。これは三島の葛藤そのものではないだろうか。三島は作品の最後で、溝口に「生きよう」と思わせる。はたしてこれは三島の本意だったのだろうか。ここで溝口が生きていけるならば、金閣寺は何だったのだろう。物理的金閣が焼失した事によって、溝口の金閣は消え去ったのか。内界と外界の扉の鍵は開いたのか。

 金閣を焼く前までは、溝口は三島の好む悪魔的存在として成長していった。だが、焼いた後のこの弛緩は何だろう。あまりにも人間的過ぎる。もちろん溝口も人間だったと考えるのは容易い。しかし、それはこの作品の価値を高めはしない。

 夏目漱石の『門』において、宗助は門の前に佇み、前に進むことも後戻りもできなかった。明治という時代と漱石が作り出した、近代的知識人の典型的姿である。しかし、三島の主人公たちは佇まない。破滅に向かって進むか、少なくともその予感の中に幕を閉じるはずだ。

 三島はインドに行き、人生観が変わったと言っていた。そして『豊饒の海』を遺して旅立った。この作品のラストでは、輪廻転生していった主人公の存在そのものが問われている。『金閣寺』から『豊饒の海』にかけて、三島の何が変わったのだろう。その大きなヒントが、溝口のラストシーンに隠されているような気がしてならない。


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2008年05月13日

『本の読み方-スロー・リーディングの実践』平野啓一郎(PHP新書)

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「スローな世界」

 「ファーストフード」に対し「スローフード」が提唱されて、徐々に広がっているようだ。その事自体は賛成だし、何も文句は無い。しかし、フランスで暮らしていると、本当に「スロー」な人々に出会う。修理を頼むと、午前中という約束が、お昼頃になって午後からになると電話がある。待っていたら夕方再び電話があり、今日は行けそうも無いから、別の日を指定してくれと言う。この位は日常茶飯事だ。

 アメリカ人がパリに転勤してくると、フランス人の時間の使い方についていけず、ノイローゼになるという噂さえある。かつて大ヒットしたピーター・メイルの南仏物では、すぐに来るというのは数日中ということだし、明日位にはというのは数週間以内、その内などというと絶対に来ないとまで、言い切る。このようにフランスでは「スロー」が既に蔓延しているのである。

 しかし、平野啓一郎が勧めるのは「スロー・リーディング」だ。「速読」に対する造語である。「量」の読書から「質」の読書へ、網羅型の読書から選択的な読書へ、と彼は言う。スロー・リーディングは五年後、十年後のための読書であり、仕事、試験、面接等にも役に立つと主張する。小説の「ノイズ」を読み取る事が大切だというのも、若手作家としての感覚として面白い。

 前半では「基礎編」、「テクニック編」として、種々の説明をしている。助詞や助動詞に注意するなど、個性的な内容もあるが、本好きの人にとっては多くは既知の内容だ。もちろん本が苦手な人にとっては、かなり丁寧に読み方を教えてくれている。しかし、この本のもっとも面白い部分は、後半の「実戦編」だ。実際に作品の抜粋を取り上げ、どのように読んでいくか詳しく分析している。

 これは楽しい。しかも夏目漱石の『こころ』では、普通あまり取り上げない「両親と私」から、「私」が兄と、「先生」について話し合うシーンが選ばれている。「イゴイズム」で表される「先生」とそれを許さない兄の対立から、時代の全体主義への傾斜を読み取ったり、「両親と私」という目立たない部分が、実は非常に大切な役割を果たしている事を述べたりする。

 森鷗外の『高瀬舟』や三島由紀夫の『金閣寺』という名作に関しても、興味深い部分を取り上げて論じている。カフカの短編「橋」の第一文「私は橋だった。」も種々の問題を含む。「私」とは誰か。カフカか、それとも別の存在か。または別の存在に仮託した作者か。「橋だった。」という過去形の意味は。では今は何なのか。この短い一文から多くの疑問が湧いてくる。その疑問が大切だと平野は言う。確かにその通りだ。

 川端康成の『伊豆の踊り子』では、一人称の難しさを説明している。小さな語句の読み落としが、大きな誤読に繋がる。サイデンステッカーの誤訳もうなずける。金原ひろみの『蛇にピアス』という新しい作品を取り上げるのも興味深いが、何より驚くのは平野の作品である『葬送』の一場面を解説していることだ。普段私達は作家が自分の作品を詳しく語るのに出会うことは少ないだろう。しかも一場面を詳しく分析するとなると。

 読書の初心者は、役に立つ本の読み方を学ぶであろうし、上級者は「実戦編」を楽しく読むことができる。単なる「ハウツーもの」を越えた、最前線で活躍する作家の一側面を知ることができる、一冊である。


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