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2007年09月18日

『High and dry (はつ恋)』よしもとばなな(文春文庫)

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「日本版『星の王子様』!」

 私の学校は国際バカロレア(International Baccalaureate)というカリキュラムを導入している。「全人教育」を目指す画期的なプログラムだが、高校3年生の時点で必修課題となっているのがExtended Essayだ。欧米言語で4000語(日本語では約8000字)ほどの論文を書かなくてはならない。そのために、私は同様のものを日本人生徒に中学3年生から毎年課している。

 新高校1年生の女子生徒が、今年度の課題として挑戦してみたいと夏休みに連絡してきたのが、よしもとばななの『High and dry (はつ恋)』だった。ばななのメジャーな作品は私も読んでいたが、これは知らなかったので、早速書店で買い求めた。

 表紙を見た時は、児童文学かと思い、それならば扱うのは難しいかなという印象をもった。児童文学が論文に適していないというわけではない。実際、毎年のように灰谷健次郎や宮沢賢治の作品を扱う生徒がいるし、それは全く問題ない。ただ、三島由紀夫、大江健三郎、夏目漱石等の作品と比べると、テーマ設定が難しかったり、かなり高度な分析をしないと高得点に結びつかなかったりするので、積極的には薦めない。

 しかし、内容は児童文学ではなかった。それどころか、子供の心を忘れかけた、または忘れてしまった大人にこそ読んでほしい作品だった。その意味においてこれは日本版『星の王子様』であると言えるかもしれない。このサンテグジュペリの作品を読んで、「象を飲み込んだうわばみ」が見えるようになった人もいるに違いない。そのような思いが込められているような気がする。

 よしもとばななは、初期の頃から不思議な世界を描いてはいる。『ムーンライト・シャドウ』がそうであるし、『アムリタ』以降その傾向は顕著になる。だが、彼女の描く世界を「不思議」と感じてしまっては、既に子供の純粋さを失いつつあるのかもしれない。その世界は「不思議」でも何でもなく、ごくあたりまえなのかもしれないのだ。私たちは「大人」になるにつれ、子供の時に見えていたものが、見えなくなっていくのだろう。

 主人公の夕子は14歳の中学生で、父親は頻繁にアメリカに仕事に行っていて留守がちなので、ほとんど母親と二人で暮らしている。ある日通っている絵画教室で、先生のキュウくん(二十代後半の青年)と一緒に「月下美人の植木のわきから、小さい人間が走り出て」いくのを目撃する。これは二人にしか見えなかった。

 これをきっかけに二人は仲良くなっていくのだが、野良猫の「命の光が消え」る瞬間を一緒に目撃したり、お互いの過去を話し合い不思議な共感を抱いたりする。まるで同世代の恋人同士のように。ある日キュウくんは夕子を自分の母親の所に連れて行くが、彼女は木の彫り物を作っている。それは皆、彼女が見ている=見えている、森の精霊たちだ。キュウくんの母親の存在に癒された夕子は、また一つ成長し、この世界に感謝する。

 キュウくんは純粋な心を持ち続けているために、美しい作品を作るものの、大人の世界とのギャップに心を痛めている。夕子は子どもの純粋な世界から少しずつ大人の世界を眺め始めている。ある意味、この二人は同じ位置にいる。肉体の年齢など、精神の世界から見れば微小なことである。二人が調和の世界へと(しかしそれは決して「予定調和」のような運命的なものではない)歩き始める所で、物語は終わる。

 最後に現れる「絶対に不自然なことをしなければ、自然が全てのタイミングを見つけてくれるんだよ」という言葉は、科学万能主義に酔って自らの世界を破滅へと進めているように見える、我が人類への最高級の警句ではないだろうか。


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2007年09月06日

『教師格差―ダメ教師はなぜ増えるのか』尾木直樹(角川oneテーマ21)

教師格差―ダメ教師はなぜ増えるのか →bookwebで購入

「理想の教師像とは何か」

 どこの国でも教育問題は重要だが、私の住むフランスでも、常に種々の報道がなされている。現在注目すべきは、今春の選挙で新大統領となったサルコジ氏の政策の行方だ。教職員の数を減らしながら、現場を訪れて教職の大切さと素晴らしさを教員に訴えるという「飴と鞭」作戦に対し、教職員組合がどう出るかがポイントとなる。

 社会党政権下でできあがった35時間法(一週間の一人当たりの労働時間を35時間に制限して、雇用機会を増やそうという法律)も、なし崩し的に変えようとしている。教員にも残業による増収の可能性を与えたのだが、多くの教員は現在の仕事で手一杯で、収入が増えようとも残業はできないと答えている。しかし、フランスの教員の現状を日本の教員のそれと比較すると、どうみても日本の方に改善の余地が多いようだ。

 尾木直樹の『教師格差―ダメ教師はなぜ増えるのか』は、タイトルも刺激的だが、内容は示唆に富んだものとなっている。筆者は中学・高校の教員を経験し、現在大学で教えているようだが、現場を良く知っている。まず彼は「病める教師」の実態を報告する。教育行政のせいで評価ばかりが気になり、お互いに助け合う事もできない。残業が多いのに、子ども達と接触する時間は非常に少ない。さらにモンスターペアレンツ(今夏一時帰国した時に、この言葉がメディアに頻出していた)が追い討ちをかける。過労死も遠くない現状である。

 教師を冷静に分析する事も忘れていない。「わいせつ教師」、「マニュアル教師」、「塾に頼る教師」等を例に挙げ、「学校の常識は社会の非常識」という現実も認識している。その上で、このような教師ができてしまう現状に切り込む。学校の要の一人である教頭は「セブンイレブン」と呼ばれる。朝7時に出勤して夜の11時に退勤するからだ。文科省による「調査漬け」と過重な校務分担は全ての教師から時間を奪う。それでも多くの教師は子ども達を愛する姿勢を失ってはいない。

 こういった状況を改善する方法はあるのだろうか。改正教育基本法では「教師は、政府と行政の意を体現するだけの“法令執行人”に過ぎなくなって」しまうと、筆者は述べる。「教員免許更新制」に関しても、「問題教員がいれば即刻追放すべき」だと主張する。「免職になったセクハラ教師が、隣町で再び教壇に立つような状況」は許せないというのは、説得力がある。

 いじめについても、個別教員への処分を打ち出すよりも、「いじめ隠しを浸透させている学校文化やその行政的構造にメスを入れ」ることこそ、国家レベルの会議の役割だという主張もうなずける。そして筆者は、解決の糸口は子ども自身の考えを参考にすべきだという。子どもにとって良い教師とは、宿題を出さないで遊んでくれる教師ではない。厳しさと思いやりを持ち、人間味豊かで、真摯に子どもと共にあろうとする教師である。つまり教師に求められているのは「人間性」なのである。

 親は子どもに何を望んでいるのだろうか。筆者の行ったアンケートによると、驚くことに学力が一番ではないのである。最もポイントが高かったのは「人の心の痛みや辛さがわかる人になってほしい」だ。これもつまるところ、豊かな人間性を身につけて欲しいということではないだろうか。ここで必要となるのは、豊かな人間性を身につけた教師、となり、子ども達の考えと一致する。

 ではどうすれば良いのか。筆者は日本のGDPに占める教育予算が、先進国中最下位であることを指摘し、「まず人と予算を充分に注入し、教育現場にゆとりを与え、活力がみなぎるような条件整備を進めること」だと結論付ける。確かに統一テスト、時間数増加、小学校への英語教育導入等の「対症療法」では、学校格差、教師格差が広がるだけで、根本的解決には程遠いと思われる。

 フランスで働く教員は、中学・高校の場合1時間授業をすると、2時間働いたことになる。35時間法に従うと、週17,5時間授業をすれば35時間働いたものとみなされ、100%勤務となる。これは、採点、試験準備、教材研究等の時間を考慮しているのだ。さらにこちらの学校は、9月に始まり、10月末に万聖節の休暇が一週間、12月にクリスマス休暇が2週間、2月に冬休みが2週間、4月にイースター休暇が2週間、そして夏休みが2ヶ月となっている。子ども達と接触する時間もあるし、自らの人間性を豊かにするための文化的活動の時間も取りやすい。教師そのものが、精神的に豊かな人間とならなければ、理想の教育には近づけないだろう。

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2007年09月03日

『破戒(改版)』島崎藤村(新潮文庫)

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「私たちは差別意識を持っているか?」

 私の勤務する国際学校では、 島崎藤村の『破戒』を毎年10年生(高校1年生)時に扱っている。同和問題に対する理解だけではなく、広く「差別」というものについて考えて欲しいからだ。その時に「あなたは自分の心の中に差別意識があると思いますか。」という質問を生徒にすることがある。  

 多くの生徒は差別意識がないと答える。もう一つ質問をする。「ではあなたが将来国際結婚をするとして、その相手が白人、黒人、アジア系等のどんな人であっても、あなたの両親や自分自身の態度に変化はありませんか。」。かなりの生徒が、変化はあるだろうと答える。ではそれはなぜなのか、そこに差別意識は無いのか、あるとしたらどこからそれはやって来たのか、等の議論へと移って行く。

 もしかしたら自分も差別意識を持っているかもしれないという自覚の下に、『破戒』を読んでいく。主人公の瀬川丑松は穢多(「えた」は差別用語であるが、作品中に使われている言葉である)である身分を隠し、小学校に勤務している。彼の父親が丑松のために転居して、身分を偽って暮らしていたために、近親者以外に丑松の正体を知るものはいない。その身分を隠せというのが、父親からの「戒め」なのである。

 冒頭は有名な「蓮華寺では下宿を兼ねた。」という文章で始まる。「蓮華寺」とはどこなのか? 「下宿を兼ね」るというのは、何の意味があるのか? 等の種々の疑問が湧いてくるし、「蓮華寺」についての説明も一切無い。これらの疑問によって、読者は一気に作品に引き込まれてしまう。

 続く場面で、丑松がこの下宿に急に引っ越してくる事になって、その原因は前の下宿から大日向という穢多の大尽が追い出されたことであることがわかる。そしてすぐに「丑松もまた穢多なのである。」という種明かしが行われる。ここで読者は丑松とある種の共犯者意識を獲得する。この秘密がいつどのようにして暴露されてしまうのか、という危惧と共に、緊張感に満ちた読みを求められる事になる。

 丑松には猪子蓮太郎という、心の師がいる。蓮太郎は自分が穢多であるということを公表しながら、差別撤廃のために戦っている。彼の新著の冒頭は「我れは穢多なり」である。これは、身分を隠して生きている丑松にとって、一種の理想の形だ。自分も蓮太郎のように勇気を持って告白して生きていきたい。しかし父親の戒めがあり、世間から捨てられる事への恐怖もある。この葛藤の中で丑松は煩悶する。

 その後、丑松の父は「忘れるな」という遺言を残し、事故死する。猪子蓮太郎と出合った丑松は、この人にだけは秘密を打ち明けようとするが、父の戒めのせいでできない。蓮太郎が応援していた市村弁護士の対立候補である高柳との確執のせいで、丑松の身分についての噂が流れる。蓮太郎の非業の死という悲劇も加わり、丑松は死の瀬戸際まで追い込まれる。

 丑松は最終的に皆に身分を告白し、教師を辞めることを決心する。とうとう父の戒めを破る、つまり「破戒」するのである。告白の仕方や、穢多という階級に対する認識の甘さ、解決方法を示していない、等の疑問点はあるが、丑松の苦しみは充分に伝わる。親友の銀之助の友情、将来の伴侶となる志保の愛情にささえられて、新天地に向う丑松だが、読者の心には何とも割り切れない気分が残る。そこに、差別の本質があるように見える。

 もちろんこの作品は「同和問題」を扱っているのだが、私たちはもっと広い意味での「差別」を認識する事ができるだろう。それは現代のあらゆる問題に繋がってくる。人種差別や民族差別はもちろんの事、学歴差別、宗教差別、能力差別、階級差別、男女差別……この世はあらゆる差別で出来上がっているといっても過言ではないように思えてくる。「区別」と「差別」は違う事をしっかりと捉え、種々の差別撤廃に真剣に取り組必要があるのは明瞭だ。その鍵となるのは差別する側(例え無意識的にであろうと)の自己認識だ。『破戒』はその意味において常に私たちを刺激してくれる作品であり続けるだろう。

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