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2007年07月02日

『異邦人(改版)』カミュ(新潮文庫)

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「『異邦人』は難解か?」

 同僚のフランス語の先生と文学雑談をしていた時のことだ。その先生はその頃博士号を取得して、「文学博士」になったばかりの若いフランス人女性だった。お互いに授業でどんな作品を扱っているか話していたのだが、私がほぼ毎年11年生(高校2年生)にカミュの『異邦人』を使用していると言うと、彼女は『異邦人』はとても難しすぎて、私は扱えない、と答えたのだ。

 正直言って、驚いた。確かに奥の深い作品ではあるが、新進の文学博士が扱えないほど難しいだろうか、と思った。もしかして自分はこの作品の怖さを理解していないのか、と恐ろしくも思った。

『異邦人』の冒頭は有名だ。「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私には分からない。」原文は « Aujourd’hui, maman est morte. Ou peut-être hier, je ne sais pas. »である。この « Je ne sais pas. »というのが凄い。この一言で私たちはムルソーに違和感を覚えてしまう。

 確かに母親の死と、明日葬式が行われるということだけを書いた電報を受け取ったのだから、ムルソーが母親の死が明確にいつだか「分からない」というのは当然であり、一見何もおかしいことは無いようだ。だが、フランス語であろうと日本語訳であろうと、そこにどうしてもムルソーの母に対する「無関心」さが透けて見える。これが「違和感」の正体だ。

 その後ムルソーは死刑宣告に繋がる数々のミスを犯す。母の死に顔を見なかった、母の年齢を明確に知らなかった、遺体の前でミルクコーヒーを飲み、タバコを吸った。彼はミルクコーヒーが好きだったから飲んだのであり、タバコは一応躊躇するのだが、「大した問題ではない」と考え吸い始める。やはりそこにも「無関心」さが見える。「キリスト教道徳観」に対する無関心さだ。

 恋人のマリーはムルソーに自分を愛しているか尋ねる。ムルソーは、それには何の意味もないが、おそらく愛してはいないだろうと答える。しかし、結婚には承諾する。何故ならマリーが望むからである。私たちはこのようなムルソーの事を「分からない」と考える。だがそれは本当だろうか。「愛しているから結婚する」という「図式」にしばられた眼でムルソーを眺めるから、彼の事が理解できないのではないだろうか。

 ムルソーが「異邦人」だからこの作品のタイトルが「異邦人」なのだろうか。それよりも、実は普通の人間で、ただ自分に正直なだけのムルソーが「異邦人」とされてしまうことを、カミュは問題としているのではないだろうか。世間の「常識」を守るべく運命づけられている私たちが、自分の考えに素直になり「常識」に従わないときに、世間は私たちを「異邦人」とみなし排斥するのではないだろうか。こういった疑問がわいてくる。

 アラブ人を射殺した事で、ムルソーは裁判にかけられるが、その殺人で死刑を宣告されるわけではない。正当防衛とも考えられるこの行為の理由を「太陽のせい」であると答えたり、「健康な人は誰でも、少しは愛する人の死を期待するものだ。」と述べたりする。こういった発言と、前述した種々の行為によって彼の死が確定する。殺人ではなく、世間の常識を守らなかった「異邦人」としてギロチンの刑に処されるのである。

 ムルソーは独房で死の恐怖に悩むが、人生は生きるに値しないと考え、30歳で死のうが70歳で死のうが同じ事だと判断する。そして、司祭との面談をきっかけに自論が正しい事を確信する。最後には自分の死刑執行に多くの観客が集まり、憎しみの叫び声をあげることを望む。このシーンは分かりにくく、多くの解釈を呼ぶ。自己の真理をより一層確かなものとするためなのか、自分の新たな旅立ちへの歓喜の音楽となるのか、それとも彼一流のシニカルな想いなのか……

 確かに種々の解釈が可能で、難しい作品なのかもしれない。だが、だからこそ読む価値があるのではないだろうか。こちらの状態により、世界のあり方により、多様なものを与えてくれる作品こそが真の「古典」となっていくのではないか。いつかまたそんな話を、今は大学で文学を教えているヴァレリー(同僚の文学博士)と話し合ってみたいものである。

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