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2007年07月17日

『京都料亭の味わい方』村田吉弘(光文社)

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「料亭は「大人のアミューズメントパーク」」

 フランスに住んでいると、日本から来る知人に「いつもフランス料理を食べているんですか。」と、よく聞かれる。妻がフランス人であればそういう事もあり得るだろうが、私の伴侶は日本人で東京の下町っ子である。従って、家では日本に住んでいる人たちと変わらないような食生活をしている。もちろん、フランスでしか手に入らないような食材を使う点に、多少の違いはあるが。

 食べるのが好きなので、たまにミシュランの星つきレストランにも行く。三つ星クラスになると、一介のサラリーマンが頻繁に行く事はできないが、それでも少し貯金をして時々楽しむ事はできる。三つ星レストランはお料理だけではなく、お店の雰囲気からサービス、ワインに至る全てが素晴らしいのが普通だ。その全てにお金を払うのである。

 日本に一時帰国すると、やはり美味しい和食が食べたくなるが、行くのは割烹止まりで、「料亭」となると少々気後れしてしまう。パリの三つ星レストランならば、常識を守ってこちらが楽しいように食べれば良いのであるから、気後れする事はなく、楽しい一時を過ごす事ができる。しかし料亭となると、何をどうすればよいのか考えてしまう。

 京都の料亭「菊乃井」のご主人である村田吉弘さんは『京都料亭の味わい方』において、そんな私の心配を見事に払拭してくれた。彼は、料亭が「大人のアミューズメントパーク」であると言う。そんな馬鹿な、と思う人が多いだろうが、京都弁で語られるこの本を読んでいくと、妙に納得できる。要は周りの人に迷惑をかけずに、こちらが楽しいと思う方法で楽しめる場所、という事だ。

 別に、鮎の食べ方や、懐石のマナーを知らなくてもかまわない。同席の人たちが不愉快に思わないならば、自由に楽しんで食べてもらえば良い。料亭といえども基本は「飯屋」である、という村田さんの語りは、分かり易く小気味の良いものである。

 しかし、一流料亭を営んでいく事の苦労と自負もしっかりと表現されている。お店で使っている調味料の出所まで明らかにしているのだが、誰でもが手に入れられるものではない。そこには何世代にも渡って培ってきた取引先との信用がある。赤字になってでも売ってくれる昆布商、曾祖父の遺言として、昔ながらの製法で「たまり」をつくっている醤油屋。そこには一切の妥協を許さない姿勢が明確に見える。

 東京「菊乃井」を出店するまでの苦労も凄い。土地探しから始めて、建築家や大工達との徹底した打ち合わせ。気に入った器を手に入れるまでの、辛抱と根気。何をとっても驚くのだが、そこに共通するのは、人との出会いが根本にあるという事だ。優れた人の信用を得るためには、自分もそのレヴェルに達する努力をしなくてはならない。村田さんはそういったことを直接言わないが、私たちが学ぶのは、そこにこそ伝統としての「粋」が息づいているのではないか、という事である。

 料亭とは、多彩な分野の優れた人々の技を披露してくれる、総合芸術の異空間なのである。料亭は大人としての「常識」を守れば、お料理や器を楽しむ事もせず妙な密談をしている一部の政治家よりも、むしろ私たち庶民にふさわしい場であると言えるかもしれない。誕生日や結婚記念日等特別な日に、ちょっとお洒落をして、奮発して楽しみに行く場所、それこそが料亭のあるべき姿であるという、筆者の考えが良く分かる。

 村田さんのおかげで、料亭が随分身近に思えてきた。私はフランスの三つ星では、いつもソムリエと「遊ぶ」。10年程ワインクラブを主催している事もあり、ソムリエとワインの話をすると、良く意気投合する。そうなると、次の料理には是非このワインを飲んで欲しい、合わなかったら取り替えるから、と言ってリストにないワインを勧めてくれたりもする。それが実に楽しい。

 料亭でも、同じように「遊べる」のだ、という事が良く分かった。近い内に是非京都の料亭を訪れてみよう、と心から思える。私たちのような、普通のサラリーマンにでもそう思わせてくれるこの心遣いそのものが、筆者の心意気、つまり料亭の真骨頂なのかもしれない。

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2007年07月02日

『異邦人(改版)』カミュ(新潮文庫)

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「『異邦人』は難解か?」

 同僚のフランス語の先生と文学雑談をしていた時のことだ。その先生はその頃博士号を取得して、「文学博士」になったばかりの若いフランス人女性だった。お互いに授業でどんな作品を扱っているか話していたのだが、私がほぼ毎年11年生(高校2年生)にカミュの『異邦人』を使用していると言うと、彼女は『異邦人』はとても難しすぎて、私は扱えない、と答えたのだ。

 正直言って、驚いた。確かに奥の深い作品ではあるが、新進の文学博士が扱えないほど難しいだろうか、と思った。もしかして自分はこの作品の怖さを理解していないのか、と恐ろしくも思った。

『異邦人』の冒頭は有名だ。「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私には分からない。」原文は « Aujourd’hui, maman est morte. Ou peut-être hier, je ne sais pas. »である。この « Je ne sais pas. »というのが凄い。この一言で私たちはムルソーに違和感を覚えてしまう。

 確かに母親の死と、明日葬式が行われるということだけを書いた電報を受け取ったのだから、ムルソーが母親の死が明確にいつだか「分からない」というのは当然であり、一見何もおかしいことは無いようだ。だが、フランス語であろうと日本語訳であろうと、そこにどうしてもムルソーの母に対する「無関心」さが透けて見える。これが「違和感」の正体だ。

 その後ムルソーは死刑宣告に繋がる数々のミスを犯す。母の死に顔を見なかった、母の年齢を明確に知らなかった、遺体の前でミルクコーヒーを飲み、タバコを吸った。彼はミルクコーヒーが好きだったから飲んだのであり、タバコは一応躊躇するのだが、「大した問題ではない」と考え吸い始める。やはりそこにも「無関心」さが見える。「キリスト教道徳観」に対する無関心さだ。

 恋人のマリーはムルソーに自分を愛しているか尋ねる。ムルソーは、それには何の意味もないが、おそらく愛してはいないだろうと答える。しかし、結婚には承諾する。何故ならマリーが望むからである。私たちはこのようなムルソーの事を「分からない」と考える。だがそれは本当だろうか。「愛しているから結婚する」という「図式」にしばられた眼でムルソーを眺めるから、彼の事が理解できないのではないだろうか。

 ムルソーが「異邦人」だからこの作品のタイトルが「異邦人」なのだろうか。それよりも、実は普通の人間で、ただ自分に正直なだけのムルソーが「異邦人」とされてしまうことを、カミュは問題としているのではないだろうか。世間の「常識」を守るべく運命づけられている私たちが、自分の考えに素直になり「常識」に従わないときに、世間は私たちを「異邦人」とみなし排斥するのではないだろうか。こういった疑問がわいてくる。

 アラブ人を射殺した事で、ムルソーは裁判にかけられるが、その殺人で死刑を宣告されるわけではない。正当防衛とも考えられるこの行為の理由を「太陽のせい」であると答えたり、「健康な人は誰でも、少しは愛する人の死を期待するものだ。」と述べたりする。こういった発言と、前述した種々の行為によって彼の死が確定する。殺人ではなく、世間の常識を守らなかった「異邦人」としてギロチンの刑に処されるのである。

 ムルソーは独房で死の恐怖に悩むが、人生は生きるに値しないと考え、30歳で死のうが70歳で死のうが同じ事だと判断する。そして、司祭との面談をきっかけに自論が正しい事を確信する。最後には自分の死刑執行に多くの観客が集まり、憎しみの叫び声をあげることを望む。このシーンは分かりにくく、多くの解釈を呼ぶ。自己の真理をより一層確かなものとするためなのか、自分の新たな旅立ちへの歓喜の音楽となるのか、それとも彼一流のシニカルな想いなのか……

 確かに種々の解釈が可能で、難しい作品なのかもしれない。だが、だからこそ読む価値があるのではないだろうか。こちらの状態により、世界のあり方により、多様なものを与えてくれる作品こそが真の「古典」となっていくのではないか。いつかまたそんな話を、今は大学で文学を教えているヴァレリー(同僚の文学博士)と話し合ってみたいものである。

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