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2007年05月24日

『香水―ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント(文春文庫)

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パリには独特の香りがある。1983年に2度目のパリ訪問(それが今まで続く滞在となっているのだが)の際に、地下鉄のホームでその懐かしい香りを吸い込んだ。ジタンヌという強いタバコの香りに埃や乾燥した空気の臭いが混じったとでもいえば良いのか、とにかく私にとってはパリと結びついた香りだった。

 マドレーヌの香りから過去を回想するのは、プルーストの『失われた時を求めて』の有名なエピソードだが、香りと記憶が結びつくのは良くあることだろう。私はワインクラブを主宰しているので、試飲会の時には会員にワインの香りについて感想を求める。たまに「小さい時に住んでいた家の裏にあった小屋の臭い」等という表現が出てきて楽しい。もちろん他者と共有できる香りではないので、表現としてはいただけないのだが、その人にとっては、ワイングラスの中の香りが過去の記憶を引き出しているのだ。

 調香師をフランス語でle nez(鼻)と呼ぶ。パリ在住の日本人調香師の講演を聴いたことがある。彼らは私たちの何十倍もの香りを嗅ぎ分ける能力を持っている。しかし、感覚器官の繊細さゆえに、一日2時間しか仕事ができないそうだ。香りを嗅ぐという事は、それほどまでに緊張と肉体的疲労を要することなのだ。

 たまに地下鉄のホームで、人ごみの中に立って手に持ったカウンターを押し続けている人を見ることがある。地下鉄の利用客の人数を調べているのかなと思いきや、かれらはle nezなのである。雑踏の中で「シャネルの5番」や「ゲランの夜間飛行」などという特定の香水をつけている人達の数を数えているのだ! 何という凄い嗅覚であろうか。

 パトリック・ジュースキントの『香水』の主人公グルヌイユ(フランス語で蛙の意)は、自分自身は無臭だが驚異的な嗅覚を持っている。舞台は18世紀のフランス。今とは違い、電気も無く、衛生状態もひどい。世の中は悪臭に満ちていた。グルヌイユでなくとも芳香を求めたくなるだろう。彼は至高の芳香を求めてさまよう。

 種々の香りを探していくのだが、やはり、と言うべきか、彼の欲望の行き着く先は、美しい処女のものであった。つぼみが開花する瞬間を捉えるように、グルヌイユは美女を殺しその香りを自分のものにする。そのために、無臭の自分の身体に「人間」の香りをつけたり、他者を自分にひきつける香りを作り出したりする。

 不思議なのは、この殺人鬼を憎めない事だ。エピローグにおけるグルヌイユの消滅(文字通り彼は「消滅」する)には、一種の悲哀が漂う。彼はただ香りを追いかけていただけなのだ。だが、至高の香りを手に入れた時に取る彼の最後の行動は、意外である。

 原作者はドイツ人で、フランスで学んだ経験を持つが、池内紀の訳も見事である。最近映画化され、日本でも公開されているが、一つ残念なことがある。映画には「香り」が無いのである。

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