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2007年05月28日

『蠅の王』ゴールディング(新潮文庫)

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「心の闇」

 パリに住んでいる辻仁成が、新作の『ピアニシモ・ピアニシモ』に関し、「W・ゴールディングの『蠅の王』が好きで、ああいう少年小説を書いてみたかった。」と新聞紙上で語っているのが目に留まった。

 私は『蠅の王』を毎年高校一年生向けの課題として、かなり前から扱っているのだが、恐ろしい小説である。半世紀も前に(出版は1954年)『バトル・ロワイアル』が書かれていた、と言えるかもしれない。『バトル・ロワイアル』で殺し合うのは中学生で、『蠅の王』では最年長の子が「十二歳と数ヵ月」と設定されているが、無人島で子供たちが「殺し合う」という条件は同じだ。

 『蠅の王』は第3次世界大戦の最中、疎開するイギリス人の少年達の乗った飛行機が、南太平洋の孤島に不時着する所から始まる。パイロット等の大人は死んでいて、子供たちだけが残される。最初は「理性」や「文明」が残っているため、選挙でリーダーを決め、家を作り、トイレや、水汲み係も決めて、大人のように暮らそうとする。

 だが、子供たちの心に「蠅の王」が忍び寄る。「蠅の王」とは聖書に出てくる悪魔「ベルゼルブ」の事である。選ばれたリーダーはラーフだが、選挙に負けたジャックは、元々自分がリーダーであった合唱隊を狩猟隊となし、豚狩りに夢中になる。一部の敏感な子は「獣」の存在を感じるが、それは彼らの心の闇に生息する何かを感じ取っているのだ。

 想像してみて欲しい。12歳の少年達が、1本のナイフと手製の槍で野豚を殺すシーンを。そして、豚を解体し焼いて食べる。都会に住む大人にとっても大仕事だが、子供たちが豚の血にまみれ、どのような心境に陥っていくのか。理性の力は弱まり「蠅の王」が心の中で大きくなっていく。

 やがてジャックとラーフが決裂していくのだが、その前に「蠅の王」は自分の存在に気づいた少年達を、消していく。最初は直感的に「蠅の王」の存在を感じ取った「顔に痣のある小さな子」が、少年達の起こした火事によって消される。次はまるでシャーマンのようなサイモンである。サイモンは繁みの中で胎内回帰を繰り返し、自己の内部の「蠅の王」と対決しようとする。しかし、豚を狩った後の興奮状態に陥っている少年達全員に、「獣」と間違われ「歯と爪で引き裂」かれる。

 文明を象徴していた「ほら貝」が理性派のピギーと共に砕け散る事で「蠅の王」の力は最大となる。孤立したラーフは、皆から狩られることになるが、ぎりぎりのところで助け出される。しかし、これははたしてハッピーエンドであろうか。子供たちが犯された「蠅の王」は大人の姿を見て、また心の闇へと帰って行く。再び力を取り戻す機会を虎視眈々と狙いながら。

 性悪説の問題として捉える事も可能かもしれない。だが、二元論で割り切れるほど簡単ではない。彼らのしたことは、ライバルを叩き落す、邪魔な存在を消去する、力で他者を支配する、弱い人間をいじめる、生贄をささげる、自己の非を認めない……皆大人が日常茶飯事に行っていることではないのか。大人がいないせいで、理性と文明の世界が消えて、子供たちに現れたのが「蠅の王」であり、それに従って取った行動が大人の行動そのものであったとしたら、どう解釈したら良いのか。それこそがゴールディングからの読者一人一人への宿題であるに違いない。


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2007年05月24日

『香水―ある人殺しの物語』パトリック・ジュースキント(文春文庫)

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パリには独特の香りがある。1983年に2度目のパリ訪問(それが今まで続く滞在となっているのだが)の際に、地下鉄のホームでその懐かしい香りを吸い込んだ。ジタンヌという強いタバコの香りに埃や乾燥した空気の臭いが混じったとでもいえば良いのか、とにかく私にとってはパリと結びついた香りだった。

 マドレーヌの香りから過去を回想するのは、プルーストの『失われた時を求めて』の有名なエピソードだが、香りと記憶が結びつくのは良くあることだろう。私はワインクラブを主宰しているので、試飲会の時には会員にワインの香りについて感想を求める。たまに「小さい時に住んでいた家の裏にあった小屋の臭い」等という表現が出てきて楽しい。もちろん他者と共有できる香りではないので、表現としてはいただけないのだが、その人にとっては、ワイングラスの中の香りが過去の記憶を引き出しているのだ。

 調香師をフランス語でle nez(鼻)と呼ぶ。パリ在住の日本人調香師の講演を聴いたことがある。彼らは私たちの何十倍もの香りを嗅ぎ分ける能力を持っている。しかし、感覚器官の繊細さゆえに、一日2時間しか仕事ができないそうだ。香りを嗅ぐという事は、それほどまでに緊張と肉体的疲労を要することなのだ。

 たまに地下鉄のホームで、人ごみの中に立って手に持ったカウンターを押し続けている人を見ることがある。地下鉄の利用客の人数を調べているのかなと思いきや、かれらはle nezなのである。雑踏の中で「シャネルの5番」や「ゲランの夜間飛行」などという特定の香水をつけている人達の数を数えているのだ! 何という凄い嗅覚であろうか。

 パトリック・ジュースキントの『香水』の主人公グルヌイユ(フランス語で蛙の意)は、自分自身は無臭だが驚異的な嗅覚を持っている。舞台は18世紀のフランス。今とは違い、電気も無く、衛生状態もひどい。世の中は悪臭に満ちていた。グルヌイユでなくとも芳香を求めたくなるだろう。彼は至高の芳香を求めてさまよう。

 種々の香りを探していくのだが、やはり、と言うべきか、彼の欲望の行き着く先は、美しい処女のものであった。つぼみが開花する瞬間を捉えるように、グルヌイユは美女を殺しその香りを自分のものにする。そのために、無臭の自分の身体に「人間」の香りをつけたり、他者を自分にひきつける香りを作り出したりする。

 不思議なのは、この殺人鬼を憎めない事だ。エピローグにおけるグルヌイユの消滅(文字通り彼は「消滅」する)には、一種の悲哀が漂う。彼はただ香りを追いかけていただけなのだ。だが、至高の香りを手に入れた時に取る彼の最後の行動は、意外である。

 原作者はドイツ人で、フランスで学んだ経験を持つが、池内紀の訳も見事である。最近映画化され、日本でも公開されているが、一つ残念なことがある。映画には「香り」が無いのである。

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2007年05月22日

『静かな大地』池澤夏樹(朝日新聞社)

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 池澤夏樹は北海道生まれで、現在パリ(郊外)に住んでいる。私も北海道生まれで、現在パリに住んでいる。大した共通点ではないかもしれないが、私は彼の作品が好きだ。実は、池澤がデビューの時から気になっていたことが一つある。それは彼の父が福永武彦であることだ。

 福永武彦は、私にパリへの想いを募らせてくれた作家の一人だ。『死の島』を読みベックリンの同名の絵を見たいと思い、フェルメールに関するエッセイを読み、オランダへ行って本物を見たいと思った。その願いは1981年にかなったのだが、特にフェルメールとの出会いは衝撃的だった。

 パリと私を結び付けてくれた父親を持つ池澤夏樹であるから、何かと気にしていたのだが、『静かな大地』にはいろいろなことを考えさせられる。アイヌ民族に対して私たちは一体何をしてきたのか。1899年に制定された「北海道旧土人保護法」などという名の法律が廃止されたのは、何と1997年のことだ。今「私たち」という時に、自分を何であると考えているのか。侵略者の一族という認識があるのか。

  小、中学生の頃、学校の遠足や修学旅行で必ずといっていいほど訪れるのが、アイヌのコタンであった。熊の木彫りやイヨマンテ(勿論真似だけであるが)の様子を見たり、ムックリによる音楽を聞いたりした。ただ、いつも記憶に残っているのが、アイヌの人たちが決して笑わないことだ。もしかしたら、笑ってくれた人もいたのかもしれない。しかし、不機嫌な様子で鑿をふるっているイメージが強く残っている。今なら分かる。何故に彼らが笑えなかったか。彼らから笑いを奪ったものの正体が、不気味な形でこの作品には描かれている。

  主人公の三郎と志郎は、両親と共に淡路島から明治初期に北海道の静内に入植した。苦労しながら生活していくうちに、彼らはオシアンクルというアイヌの少年と仲良くなる。これが彼らの(少なくとも三郎の)一生を決めてしまう。後に三郎は札幌で学び、その知識を元にアイヌの力を借りて静内近郊で牧場を始める。

  アイヌは狩猟の民である。馬に関しても非常に詳しく、牧場は繁盛するのだが、アイヌを悪く思う者達や、利権を求める者達のせいで悲劇へと追い込まれていく。三郎は優秀な人間で、アイヌと力を合わせて自分達の牧場を守ろうとするが、力尽きてしまう。アイヌに育てられた和人の娘である彼の妻も、その直前に亡くなる。

  後に残るのはタイトル通り「静かな」心境である。北海道の空気のように、静かで冷たい空間。悲しく、寂しいのだが、なぜか「静か」なのだ。諦念ではない。怒りでもない。そのような感情を超えた、太古の自然の中に一人置き去りにされたような、不思議な静けさを感じる作品だ。

  語り手は志郎の娘の由良だ。彼女が伯父の一生をまとめる形となっている。由良の語りも「静か」なのである。この静かさは、アイヌの精神に通じるような気がする。自然と共に暮らし、平和を愛する民族。全ての揉め事は合議により解決する。私たちが二十一世紀において、取り戻さなくてはいけない世界の全てが、ここに存在しているのではないだろうか。

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2007年05月11日

『砂の女(改版)』安部公房(新潮文庫)

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非現実から現実へ

 パリのシャイヨー宮にあった、一種の名画座とでも言えるシネマテックで、安部公房の「砂の女」を観たのは、15年以上も前の事だ。勅使河原宏監督のこの素晴らしい映画は、日本で一度観ていた。だが、一体パリではどんな人たちが来るのか、興味津々であった。

 館内は満員で殆どがフランス人だった。しかも、何と字幕スーパーがなかったのだ。日本語を解するフランス人の多いことに、驚いたのを覚えている。日本の経済力の上昇と共に、中国語だけではなく日本語への関心も高まりつつあることを実感した。

 映画が終りロビーに出た時に、一人のフランス人女性に話しかけられた。「あなたは日本人ですか?」そうだと答えると「終りの方の場面で、なぜ砂の女は苦しんでいたのですか。」と聞いてきた。子宮外妊娠であった事を説明してから、少し変に思い「あなたは日本語が分からないのですか?」と尋ねてみた。

 彼女は当然のような顔をして「ええ、日本語は全く分かりません。原作をフランス語訳で読んだだけです。でも安部公房の作品はイメージを強く喚起するので、言葉がわからなくても楽しめます。」と言ったのだ。

 私は驚愕すると共に、勅使河原宏の力量もさることながら、安部公房の作品の持つ不思議な力について考えさせられた。映画化した時に、言葉が分からなくとも観客を楽しませることができるのは、なぜだろうか。作品が視覚化されたからだけでは無いように思えた。彼女は映画を観る前から「楽しめるはず」と考えてきたのだから。

 「八月のある日、男が一人、行方不明になった。」と始まる『砂の女』は、この男の失踪にいたるまでの経過を追っている。男の名前は最後にしか明かされないし、砂の女にいたっては、一度も名前が出てこない。だが砂の穴底の家で繰り広げられる非現実的な物語は、なぜか不思議な現実味を帯びてくる。

 ありえない話のはずなのに、奇妙なリアリティに満ちている。私たちが普段何とはなしに「現実」と考えているものが実は現実ではなく、真の現実はその近くにあるが、私たちはそれに気がついていないと、安部公房は考えているようだ。

 そういった時に作家はどのような手法を取るだろうか。真の現実を一所懸命描こうとするだろうか。しかし、「嘘のような真実」よりも「真実のような嘘」の方が信じられやすいように、真の現実をそのまま描いても、人々に訴える力はあまりない。むしろ一見非現実的、荒唐無稽と思われる世界を通して表現した方が、理解されやすいのかもしれない。

 私はフランスに長年暮らしているが、最初に見えてきたのはフランスの真実ではなく、日本の真の姿だ。日本に暮らしていたときは見えなかった種々のものが、フランスから日本を眺める事によって見えてきたのである。

 安部公房の手法も、このようなものなのかもしれない。彼の作り出す非現実的世界は、決して「非現実」を描いたものではなく、限りなく「現実」を映し出そうとしたものなのだ。その意味において、安部公房はリアリズム作家であると言うべきだろう。真の現実を見極めるために、今一度彼のリアリズムを味わってみては如何だろうか。


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