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2006年03月22日

『情報のみかた』山田奨治(弘文堂)

情報のみかた →bookwebで購入

学科名に「情報」という言葉を持つ、美大では数少ない学科にいると、あらぬ誤解を受けることが少なくありません。ちょっと前まで、受験生からは「パソコンで絵を描く学科」、「ゲームをデザインする学科」と思われていたり……。
おそらくこれは、彼らの頭の中で「情報」という言葉が「コンピュータ」と非常に強く関係づけられているからでしょう。もっとも、そのコンピュータにしても「どういうことになっているか分からないけど、とりあえず何でもできる道具」くらいの存在なのではないかと……おっと失礼。

さて、看板に掲げた「情報」という茫洋としたものについてどう取り扱えば良いか、僕のような人間にとっては大問題なんですが、本屋さんで見かけたこの本の帯には「大人にもわかる」「小学生から読める大学用テキスト」と書いてあります。さらに曰く「コンピュータの原理や使い方を知ることだけが、情報についての勉強ではない」……となると、読まねばなるまい、ということで買ってみました。

本を開いてみると、第一章が「ゆうれいの顔はなぜこわいのか」ですから、確かに「情報」の本としては異色です。コンピュータの方を向いて「情報」している人にしてみれば、これはどうなってるんだろう、と思わないわけにはいかないでしょう。しかし読み進むうちに、書かれていることは「情報」をもっと人間的なレベルからとらえようとするときに極めて重要なことばかりだということが分かってきます。

まずは「ゆうれいの顔のこわさ」を明らかにするために、いろんな幽霊の表情を並べ分析するところから始まるわけですが、これは当たり前の話。面白いのは、その際「比べるために何を取り上げるべきか」を決める直感の役割について、しっかり解説しているところです。
ついで、多量なデータのばらつきを正規分布で見る方法、得られた大量のデータやつながりを図化し、分類することで「広がり」や「深さ」という隠されていた関係を明らかにしていく方法などが具体的な事例を通して説明されます。
端折って言えば、情報は伝えようとするところにつくり出されます。多くのモノ・コトを体験したとき、私たちはそれらをバラバラにとらえるのではなく、あるまとまりとして理解しようとします。このまとまりをなんとかして伝えたいとなると、その際、どのようにモノ・コトを区分し、状況から「まとめ」をひねり出し、分かりやすい記号の並びとして表現するかということが問題になります。こうした非常に基本的な問題意識を下敷きにしながら、「情報」への基本的なアプローチが記されている、というわけです。

それにしても、「なぜこれが『情報』につながっているんだろう?」と読者を引きつけ、一見関係なさそうなモノと私たちの間に見いだされるつながりに眼を誘導しながら「情報」がどこに、どんなカタチで潜んでいるのか、私たちの周りに氾濫する「情報」とのつきあい方を明らかにしていく……本書との出会い、「腰巻き」のコピーから本文の構成まで、読者をぐんぐんひっぱって行く構成も見事です。
ふだんの生活の中でどのように「情報」を見いだし、接していったら良いのかについて、いろんなヒントが得られる、目配りのきいた本としておすすめです。

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2006年03月14日

『乱世を生きる……市場原理は嘘かもしれない』橋本治(集英社新書)
『『脳』整理法』茂木健一郎 (ちくま新書)

乱世を生きる……市場原理は嘘かもしれない 『脳』整理法
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→「『脳』整理法」bookwebで購入

今年も入学試験シーズンが終わりましたが、一般大と違って美大には実技試験という独特の試験があります。これは何種類かのモチーフを用意して鉛筆デッサンをさせたり、簡単な工作物を作ったりといったものなんですが、なかには午前3時間鉛筆デッサン、お昼ごはんをはさんで午後3時間油絵といった長時間にわたるものもあります。これで受験料は筆記試験をやっている大学とほぼ同じです。なんと良心的な!(笑)
それはともかく、この実技試験、通常のペーパー試験と違ってカンニングということがありませんから、試験をやっている間、監督は結構時間をもてあましてしまいます。なかには、デッサンしている受験生をデッサンするという試験監督もいるようですが、ほとんどの先生が書類仕事をもちこんだり、本を読んだりします。試験開始と終了の間、少なくとも2時間近くは手持ち無沙汰なわけですから、どのような本を持っていくか、考えないわけにはいきません。そこで今年はこんな本を選んでみました。

僕にとって橋本治さんは、どのように位置づければ良いのか、得体の知れない存在です。確かに作家ではあるのでしょうが、いろんな領域で活躍しているのでひとことで言うことができない。さらに、ある人に言わせると非常に胡散臭いんだそうです。
あまり熱心に彼の本を読み続けたわけでもないので、言い切るのは難しいんですが、一つのことをきっかけにずるずると話を続けるという語り口は独特です。
なんとなくカラダは手仕事をこなしながら、頭は別の働き方をしている人みたいです。しかもおしゃべりが上手なので、気がついたらとんでもないところに連れてこられていた、そんなところが嫌いな人もいるかもしれません。
この本は「勝ち組/負け組」という最近よく聞く言葉……でもその意味については考えもせず聞き流している言葉……をきっかけに経済、そして世の中を考えていきます。というより、読者は気づかないうちにそういうおしゃべりに伴走させられることになる、そうした本だと言ってよいでしょう。

実はこの本を読んだ後、茂木健一郎さんの「『脳』整理法」という本を読む機会がありました。その中で茂木さんは「生活知」と「世界知」という2つの知の考え方を書いています。
私たちは脳という臓器をつかって世の中との交渉の中で得た体験を整理し、知としていきますが、これを茂木さんは「生活知」と呼びます。しかし、ここに留まっているだけでは見えてこない大きな知、汎用の知としての科学のような「世界知」といったものがあり、「今日では、世界のついての知の大きな部分を、私たちが一人称の生を生きるということからとりあえずは切り離された『世界知』が占めています」と述べます。そして、「『世界知』を私たちの生から切り離された冷たい知として棚上げしてしまうのではなく、つねに私たちの生に寄り添った『生活知』の側に引き寄せていく必要があります」と書いています。

これはとても受け入れられやすい考え方だと思いますが、こうした考え方から「乱世を生きる……」を見返してみると、逆の生き方が見えてきます。つまり、「乱世を生きる……」は生きている一人の側から世界を見直そうとしているというか、「世界知」に向けて「生活知」を編集してみようという演習本のように見えてくるのです。
確かに世界知的な、世の中を俯瞰した書物の方がエラそうな感じはするし、読んでいるうちに自分もその高みに上れたかのような気分になるかもしれない。 それに比べると生活知的な立場から世の中を見てみようというのは、なんとなく胡散臭い気がします。
私たちが生きている世界を、無理に世界知として語るのではなく、生活の中で生きているコトバで世界を見直し、しゃべるというスタンスは、注目を浴びているわりに「学」として高い地位を得ているとは言えない「カルチャースタディーズ」に通じるところがあるかもしれません。
でも、胡散臭いものが実はすごいものであったと気づくときが、実は一番面白い。そうやって自分自身が変わっていくとしたら、世の中面白くなるな……。 一所懸命に絵を描いている受験生の姿を見ながら、こんなことを考えていたのでした。

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