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2014年04月13日

『モーツァルト家のキャリア教育』久保田慶一(アルテスパブリッシング)

モーツァルト家のキャリア教育 →紀伊國屋ウェブストアで購入

カバーにはかわいいイラストがあしらわれ、副題は「18世紀の教育パパ、天才音楽家を育てる」となっている。思わず「楽しい娯楽本か?」と期待してしまいそうだが、内容はとても手堅い、立派な研究書である。とは言うものの、読んでいて眠くなるようなことはない。モーツァルト父子の間で交わされた数多くの手紙を軸に、モーツァルト家における「音楽をビジネスとしての捉えるための心構え」が生き生きと語られているからだ。

モーツァルトに関する書籍も数多い。先月紹介したベートーヴェンの交響曲第9番にまつわる書籍(『〈第九〉誕生』)の時と同様に国立音楽大学図書館でタイトルに「モーツァルト」を含む和書を検索してみたところ570冊、「Mozart」を含む洋書は973冊がヒットした。洋書はモーツァルト、ベートーヴェンともほぼ同数だが、和書の数ではモーツァルトがベートーヴェン(379冊)を凌駕している。しかし本書のような切り口でまとめられたモーツァルト研究は初めてだろう。メイナード・ソロモンによる大著『モーツァルト』(新書館)にもモーツァルト父子のあいだに生じていたストレスを「親離れ・子離れ」という視点から捉えた考察が提示されていたが、久保田の解析レベルには達していない。

本書ではまずモーツァルトの父、レオポルトの生い立ちや家庭環境が詳細に紹介される。「天才児モーツァルトを育てた教育者としてのレオポルト」がどのようなキャリアを積み、どういう価値観の持ち主だったか、という情報は、息子ヴォルフガングの成長を評価していく上で欠かせない重要事項だ。そればかりでなく、実はこの本の主人公は息子ではなく、父親レオポルトなのである!

昨今は日本の大学で「キャリアガイダンス」なるものが重要視されるようになり、「キャリア支援センター」などを設置しているところもある。巷の大学は「教育と研究の場」というよりは「社会人として生計を成り立たせるために必要なスキルを授けるところ」に変化しつつあるようだ。就職率が高く、報酬が有利な分野が注目され、就職率が良い大学に人気が集まる。

著者と私はたまたま同じ音楽大学で教えているのだが、『ビヨンド タレント:音楽家を成功に導く12章』(水曜社)を上梓したアンジェラ・ビーチング女史(音大生のキャリア支援におけるエキスパート)の講演会を学内で開催するなど、久保田は学生向けのキャリア支援も推進するキーパーソンだ。モーツァルト家のキャリア対策を語るに最適な研究者であることは間違いない。

本書の帯には「子供を芸術家に育てたい親、必読!」というキャッチコピーがあるが、「子供が芸術家になってしまいそうな親、必読!」とした方が当たっているかも知れない。子は親の思い通りには育ってくれないからだ。だが帯の続きをたどって行きつく本の背表紙の部分に印刷されている「現代のキャリア心理学の視点からモーツァルト父子の手紙を分析。時代の荒波のなか、懸命に自己実現をめざしたふたりの姿から、芸術家にとっての成功とは何かが見えてくる!」というフレーズは正鵠を得ている。

本書の内容は大きく五つの部分に分けられ、「引き裂かれたキャリア(若き日のレオポルト)」「したたかな処世術(経験に学ぶレオポルト)」「息子の就職問題(挫折するレオポルト)」「息子の結婚問題(破綻におびえるレオポルト)」「姉ナンネル(レオポルトとヴォルフガングのはざまで)」という構成だ。「今までは存在しなかったモーツァルト本」であることが、おわかりいただけるだろう。

あとは読むだけだ。読者の期待を裏切らない内容である、と信じている。

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2014年03月31日

『〈第九〉誕生 1824年のヨーロッパ』ハーヴェイ・サックス(春秋社)

〈第九〉誕生 1824年のヨーロッパ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「第九」とはもちろんベートーヴェンの作曲した交響曲第9番のことである。聴覚を失った最晩年のベートーヴェンが創作した大規模な交響曲だ。最終楽章で混声合唱による「歓喜の歌」が高らかに歌われるこの作品が日本における年末コンサートのプログラムとして定着し、多くの人に愛されていることは、御承知の通りである。

有名だが、決してわかりやすい作品ではない。鑑賞したときに感じる圧倒的なエネルギーはともかく、作品の細部に託されているさまざまな意図と目的を解き明かそうとする作業は、一筋縄ではいかない難行となる。しかしこうした「作品を哲学する」ような研究も、また楽しいものだ。ベートーヴェンファンならなおさらだろう。ベートーヴェンに関する諸々は研究対象としても充分な手ごたえがある上に、未だに研究しつくされたとはいえない、奥の深い世界なのだ。

ベートーヴェンに関する書籍は枚挙にいとまなく、テーマを第九に特定した書籍も、かなりの数にのぼる。アジア地区で最大の音楽図書館である国立音楽大学の図書館で調査してみたところ、タイトルに「ベートーヴェン」が含まれる和書をキーワード検索すると379冊、「第九」のキーワードでは28冊がヒットした。加えて「Beethoven」がタイトルに含まれる洋書は約千冊。大変な数である。本書もその中の一冊だ。

著者のサックスはフィラデルフィアのカーティス音楽院で教鞭も執っているが、自身は本書冒頭の「はじめに」の中で「私自身は音楽学者ではないことをここで告白しておかなければならない」と述べている。「きちんと学んで学位を取得した人々のように学者を名乗る資格はない」というのだ。しかしフルタイムの作家としての活動や指揮者としての経験、そして旺盛な好奇心を満たすべくさまざまなことにチャレンジし、吸収し、自分の知見を充実させた末の今、著者はより広い視点から見たベートーヴェン像をわれわれに提示してくれる。

本書ではベートーヴェンとその時代の文化を、難解と言われる「第九」を軸にしながら観察するわけだが、登場人物は音楽関係者のみならず、作家や画家、そして政治家など多岐にわたっている。さまざまな文化や歴史が激動する「渦中のヨーロッパ」、そしてそこに仁王立ちしていたベートーヴェンとその作風が、さまざまな切り口から解析される。

本書193ページ以降で展開される第九交響曲の音楽描写は、サックスが指揮者としての側面を縦横に発揮した、興味深い内容となっている。CDとミニチュアスコアを用意して、この解説を読みながら音楽の進行をたどっていくと、今までは何となくやり過ごしていた多くのアイデアや意味づけはもちろんのこと、ベートーヴェンの驚異的な作曲手腕にも気づかされるだろう。あくまでも著者の主観であり、ベートーヴェン自身がそう思って作ったかどうかは定かではないにせよ、芸術の域にまで完成された音楽作品がいかに繊細かつ堅牢に構築されているかを思い知らされることになろう。また、これを参考にしながら異なる指揮者とオーケストラの演奏を聞き比べてみれば、いままで漠然と感じていた違いが、より具体的かつ鮮明に把握できるに違いない。

「純粋に音楽が好き!」という面々には、少々くどい内容かも知れない。しかしベートーヴェンの音楽に盛り込まれているくどさとしつこさは、もともと並大抵のレベルではないのである。作家としてそれを語るためには、おそらく相当の覚悟が必要だったことだろう。

音楽の内には音楽以外のさまざまな営みから生じるエネルギーが渦巻いている。その渦中にいて、流されずに自分の理想に向かって着実に歩んでいった偉人たちの精神力と行動力には、改めて驚嘆させられる。19世紀前半、いわゆる「ナポレオン後」というヨーロッパ史の中でも興味深い時代を、音楽も含めた文化面全般から俯瞰するにはうってつけの書籍ではないだろうか。

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2014年03月02日

『ブルクミュラー25の不思議 なぜこんなにも愛されるのか』飯田有抄・前島美保(音楽之友社)

ブルクミュラー25の不思議 なぜこんなにも愛されるのか →紀伊國屋ウェブストアで購入

話題となっているのは初心者向けのピアノの教材だ。楽しげな語り口で語られていく内容は、とても充実している。また学術的なリサーチとしても充分な価値がある、貴重な一冊だ。

ブルクミュラーは1806年にドイツで生まれた作曲家で、ショパンと同時期にパリで活躍していた。そのブルクミュラーが作曲した練習曲の数々は遠く日本まで渡来し、わが国における西洋音楽の黎明期である明治の時代から教材として使われ始め、今日に至っている。同じ練習曲でもチェルニーが作曲したものよりメロディックで各曲にタイトルもつけられ、お洒落なのだ。「練習曲」とはいうものの、機能一辺倒のところがない。チェルニーの練習曲が原因でピアノが嫌いになった子は多いが、ブルクミュラーでピアノが大好きになった子供たちもたくさんいた。著者達もこれに漏れず、ブルクミュラーの大ファンなのである。

そんなわけで著者達はなかば「ピアノを習ったのにブルクミュラーを知らないことはあり得ない」という前提で話を運んでいるように感じられた。それはそれで熱意が感じられて応援したくなるのだが、「そこまで詳しくない」読者は少々取り残されてしまうような感を抱くかも知れない。ほかでもない、実は私がそうだったのだ。

私も子供の頃、ブルクミュラーは勉強した記憶がある。しかし全部ではなかった。教師となって以来ブルクミュラーの指導もしてきたが、頻度はそれほどではない。まして普段の職場である音楽大学では、ほとんど耳にしない。管弦打楽器や歌科の学生が履修する副科ピアノならともかく、音大にピアノ専攻で入学してからこれを教わっているようでは卒業が危ぶまれる。

そんな事情もあり、「知っていて当たり前」かのように出てくる作品のタイトルを見ても、即座にその曲のメロディーやリズムが脳裏に浮かんでこなかったのだ。本書の中で章を割いてかなり詳細に追跡されている《スティリアの女》もそのひとつだった。惜しまれるのは、これだけ詳細にさまざまな角度からの研究が展開されながらも、対象となっている作品のメロディー譜例がないことだろうか。全曲と言わずとも、話題になっている作品の冒頭数小節だけでも掲載されていれば、「あ、これね」ともっと自由に楽しめたに違いない。

さて、愚痴はさておき内容を追ってみよう。

大きくまとめれば「日本のピアノ教育におけるブルクミュラー練習曲の位置づけ」「個別の作品(抜粋)の魅力と編集上の紆余曲折」「出版に関する情報」「作曲家ブルクミュラーに関する情報」「日本におけるブルクミュラー受容史」「ブルクミュラーの指導法を通して見た日本のピアノ教育における意識の変遷」「今日のブルクミュラー使用法」「ディスコグラフィー」「その他の情報やインタビューなど」ということになろうか。そして付録として「ブルクミュラーゆかりの地の旅行記」があり、最後にブルクミュラーの主要作品目録が掲載されている。すべて誠実に検証された情報で、出典などに関してもきちんと明記されていてすがすがしい。章ごとにまとめられた注釈もていねいだ。珍しい写真も目にすることができる。

冒頭でも述べた通り、学術書としての内容も包括しながら一般読者への楽しい読み物としてまとめられており、ブルクミュラーファンには「とっておきの一冊」となろう。

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2013年12月16日

『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本』吉原真里(アルテスパブリッシング)

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本 →紀伊國屋ウェブストアで購入

アジア人にとって、西洋音楽であるクラシック音楽は特異なものではない。日本の環境もそうであるように、若者は西洋音楽の中で生まれ、育ち、教育される。彼らにとっての音楽は西洋音楽なのだ。そうした環境の中、音楽にのめりこみ、もっと上手になりたい、と願う者が出現するのは当然だろう。そのためにクラシック音楽の生まれ故郷であるヨーロッパ、あるいは“西洋人の国”であるアメリカその他の国々に留学することには、それなりのメリットがある。ただしその実現には才能とともに経済力も必要で、かつては日本、その後に台湾、韓国、そして近年では中国から数多くの留学生が渡航するようになっている。それと並行してシンガポールをはじめとする東南アジア地域でも、クラシック音楽の勢いは以前にも増して強まっているように見受けられる。

こうした教育を享受するためには、家族のサポートが欠かせない。専門職としてのスキルを持つ、海外でもそれなりの収入が見込める両親の場合は、ひと思いに家族ぐるみで移住してしまう場合もある。そうして定住したファミリーや、そこから生まれた2世や3世の海外在住アジア人がクラシック音楽とどのように向きあって生きているのか、見た目はアジア人なのに西洋音楽を自分の表現手段として選択することに違和感はないのか、というリサーチがこの本の骨子である。

クラシック音楽にたずさわるすべてのアジア人が、つねにあらゆる問題に直面しながらも音楽を追究するのは、クラシック音楽が自分を表現するのに最も有効な媒体だと感じ、音楽が人にものを伝える力を信じているからである」という一文が結びに書かれている(274頁)。吉原のリサーチはアメリカで行われ、ニューヨークのジュリアードという名門音楽校関係者の割合が多い。多民族国家としての歴史が長く、肌の色や出自が違うことが当たり前の国に住んでいるアジア人と、ヨーロッパのように、まだまだ民族的な差別意識が人々の心底によどんでいる地域で生活するアジア人音楽家では、その意識に差があるかもしれない。私自身の経験はヨーロッパ、それも保守的と言われるウィーンでのものだったが、よりリベラルなアメリカとは多少様相が異なるような印象を持っている。ただ、私がウィーンに住んでいた時代はすでに二十年前のこととなり、その後の意識の変化もあるに違いない。

私がヨーロッパの状況をかいま見られる機会のひとつに、国際コンクールにおける審査員同士の会話がある。最近ドイツの音楽大学の教授からこんな話を聞いた。

ドイツでも中国からの留学生が増加している。中国で一人っ子政策が行われていることは周知の事実だが、この一人っ子の教育に最大限のエネルギーがつぎ込まれる。留学には母親が同行、同居し、子供の身の回り一切の面倒を見る。クラシック音楽を「有名になるための手段」としか理解していない親にとっては「成功=国際コンクールで頭角を現すこと」であり、子供のその後の人生のことはあまり念頭にないようなのだ。「入賞という目先のゴール」にたどり着くための努力は半端ではない。「こうあるべきだ」という演奏のお手本を寸分たがわず完璧に真似ることに、すべてのエネルギーがつぎ込まれる。自分なりの表現を模索する余裕はない。完成したコピーに非のうちどころはなく、コンクールでも高い評価を受ける。しかしまともに弾けるのはこれだけだ…

こうした学生たちはしばしば大きな問題を抱えてしまう。まず、「音楽を自分の力で成熟させていく」能力が身についていないこと。そして、他人とまともに対話ができないこと。母親が関与し過ぎることによって、心の成長がさまたげられ、レッスン時における指導教官との意思疎通に問題が生じることもあるという。中国人留学生の中でも特異な例だろうが、「自己表現の言語として音楽がある」のとは異質の状況も存在するのだ。

本書で評価されているのは、演奏家として成功した人たちとともに、まがりなりにも音楽活動を維持している人々の意識だが、それがかなわなかった人たちが音楽の道を断念せざるを得なかった時にどのような問題を感じたのか、そしてその挫折をどのように受け入れていったのかということも知られれば、と思った。国際的な活躍まで望まなくとも、日本の音大を卒業する若者たちが卒業時に胸に抱く「これからの人生ではどんな形にせよ音楽との関わりを大切にしながら、自分の活動の場を広げていきたい」という希望を単なる夢で終わらせないためにも「他国のアジア人たちは何を考え、どう感じているのか」を知ることは、同じアジア人として大切だろう。海外留学したい、と思うのならばなおさらである。

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2013年10月11日

『ギャンブラー・モーツァルト』ギュンター・バウアー(春秋社)

ギャンブラー・モーツァルト →紀伊國屋ウェブストアで購入

古今の偉人たちの人生は、とかく神格化されてしまい勝ちだ。自らに課した課題のために他のあらゆることを犠牲にし、天から与えられた使命に没頭する姿が描写され、人並みはずれた集中力について語られる。こうして一旦誰もが納得するレッテルが貼られてしまうと、その人物への大きな先入観が形成され、他の側面が見えなくなってしまう恐れがある。

たとえば音楽家でありながら聴力を失ったベートーヴェンに貼られた「苦悩の英雄」というレッテルはその典型だろう。ベートーヴェンに苦悩があったことには間違いないが、人間としてのベートーヴェンにはもっといろいろな側面があった。お茶目なところもあったし、まずは何と言っても「色まめ」だったと想像される。色まめ、とは辞書に載っていない言葉だが、女性との交友関係においてまめな性格、という意味だ。ベートーヴェンは恋多き男としても鳴らしたのである。

19世紀、たぐいまれなヴィルトゥオーゾピアニストとして空前絶後の大人気を博したフランツ・リストも「女たらし」という眼鏡を通して見るか「敬虔なキリスト者」という眼鏡を通して見るかによって、その評価はまったく違うものになってしまう。

モーツァルトの場合は「神童モーツァルト」というレッテルが有名だ。だがここからは、大人になって成熟したモーツァルトの姿が見えてこない。「モーツァルトは天才だ」というフレーズもよく見聞する。確かにそうだろう、異論はない。しかし、その呪縛があまりに強すぎるあまり、「うかつに反論できない」という状況も窮屈ではある。不用意に「モーツァルトは本当に天才だったのかなあ…」などとつぶやけば、即座に「それは君がモーツァルトの音楽を理解していないからだ」と返されるに違いない。

モーツァルトの音楽があまりに素晴らしいので「崇高なモーツァルトは音楽人になるべくしてこの世に生を受け、音楽のために生きた真の芸術家である」と信じている人も、皆無ではなさそうだ。公正で優秀なモーツァルト研究家たちも、「音楽家としてのモーツァルト」を調査・探究し、その業績と人間像を評伝としてまとめていく。音楽の天才としての姿になじまない俗世間の影には──それが作為的かどうかは不明にせよ──距離が置かれ、うわべだけの表現になり勝ちだ。

近年の研究ではこのように偏った見方が是正されつつあり、さまざまな視点からの資料の再評価が進んでいる。そんな中、モーツァルトはトランプなどの「カードゲームと賭博」にとどまらず「ビリヤードやボーリング(ケーゲル)」「言葉の遊び」「舞踏会」「富くじ」などが大好きで、「新しいゲームを耳にすると居ても立ってもいられない性格だったようだ(403ページ)」という視点からの研究書が出版された。演劇畑で活躍する、モーツァルトと同じザルツブルク生まれのギュンター・バウアーによる著作である。原著は研究書特有の堅い論調でまとめられているそうだが、翻訳を担当した吉田耕太郎と小石かつらの尽力によって、読み物としても充分に楽しめるものになっている。

遊び人としてのモーツァルト像とともに興味深いのは「モーツァルトはいったいどのぐらい稼いでいたのか」という試算である。当時の通貨の単位はわかりにくいものの、およそ大学教授の年収の数倍以上の金額を稼ぎ出していたのは紛れもない事実のようだ。しかし、確たる証拠はないものの、そのほとんどはゲームへの掛け金として失われてしまったらしい。モーツァルト時代のカードゲームにはお金が賭けられていた。社交の達人となるにはカードゲームにも精通している必要があり、モーツァルトもこの点において後塵を拝することはなかった。時と場合によってはモーツァルトが音楽よりもゲームに夢中になっていた姿も描写されている。

「ぼくの唯一の目的は、できるだけお金を稼ぐことにあると信じて下さい。だってお金は健康に次いで最上のものなのですから」「ぼくの願いと希望は、栄誉、名声、そしてお金を得ることにあるのです」とは、二十歳過ぎのモーツァルトが旅先から父へ宛てた手紙に書いていることであり(14ページ)、「音楽のために生を受け、音楽芸術がすべてに優先する」とは、モーツァルトの場合にはどうも的外れな見解のようである。

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2013年09月13日

『歌うネアンデルタール』スティーヴン・ミズン、熊谷淳子訳(早川書房) & 『言葉と脳と心』山鳥 重(講談社現代新書)


歌うネアンデルタール
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言葉と脳と心
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最近、気になっていることがある。言語と音楽の共通点だ。双方とも人類ならではのコミュニケーション手段だが、そこにはルールが存在する。言語には「単語」という部品があり、それらを組み合わせるための「文法」が存在する。西洋音楽にも普遍的な共通認識があり(たとえば長調の響きは明るく、短調は暗い、など)、それらを手立てに感情の起伏を表現することができる。これらは「似て非なるもの」なのだろうか。私としてはふたつの根っこは同じであり、それらの底辺にもっと原始的な共通項となる「動物的な感覚」があるような気がしてならないのだ。

そして見つけたのがこの2冊だ。『歌うネアンデルタール』は以前から気になっていた本だが、『言葉と脳と心』はこうした私の疑問を知った臨床医から紹介されたものである。

言語と音楽の共通点として私が注目しているのは「抑揚」だ。「アクセント」「強弱」と言い換えても良い。抑揚があってこそ「感情の移入」が可能になるのではないだろうか。ほんの数年前、パソコンにようやく文字データを読ませることができるようになった頃の無機質なしゃべりを思い出して欲しい。そこにはいかなる感情も反映されていなかった。それに対して最近のスマートフォンに搭載されているアプリの性能には目をみはる。非常に高度なコミュニケーション能力を有しており、その言葉には抑揚があり、機械相手に話しているとは思えない。

きっかけは「日本人の演奏はどうして無表情になりやすいのだろう」という、私が日常携わっている音楽教育現場での疑問だ。「日本人は奥ゆかしい民族だから」と言ってしまえばそれまでだが、それだけではなさそうだ。もちろん表情豊かな演奏を披露する日本人演奏家も多く輩出されるようになったが、それでも一般的には──たとえばイタリア人がしゃべるイタリア語と比較してみると──日本人の日本語による表現は控えめで、日本語を理解できない人にとってはかなり無愛想に響いているのではないだろうか。しゃべり言葉としての日本語は、そのように本来「抑揚が少ない=感情をこめにくい」言語のようなのだ。

その傾向はIDS(Infant-Directed Speech:乳幼児への発話)という、いわゆる「幼児語」にもあるらしい。著者ミズンの記述を要約すると、生後間もない乳児から3歳程度の幼児に対して大人たちが用いる独特な話しかけには言語の垣根を越えた共通性があるという。全般に高い声で発音され、音程の幅も広く、母音が強く、長く、そして休止も強調されるとともに、センテンスが短くて繰り返しが多い。この知見をもとにある研究者がフランス語、イタリア語、ドイツ語、日本語、英国英語、米国英語での傾向を調査したところ、日本語の話者のみで感情表出の度合いが低かったらしい。

私たちの母国語である日本語が、私たちの感情表現力に影響を与えているのだろうか? 「英語が下手で、通じない」という多くの日本人が悩む傾向の背後にも、同じ原因が潜んでいるのかも知れない。

脳梗塞などによって「失語症」となった患者の比較観察からは、人間が言葉を言葉として組み立てる際に行われる、非常に複雑で多岐にわたる脳の活動が見えてくる。それらの回路と音楽を楽しむ回路は同じなのだろうか。まだ単語や文法が成立していなかった頃、人類の祖先は歌うような声の抑揚によって何かを伝えようとしていたのだろうか。その答えはまだ見つかっていないが、「感情を表現する」ことに関し、いろいろと考えさせられる内容の本であった。

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2013年08月14日

『ショパン・エチュード作品10の作り方 & ショパン・エチュード作品25の作り方』パスカル・ドゥヴァイヨン(村田理夏子訳、音楽之友社)


パスカル・ドゥヴァイヨンのショパン・エチュード作品10の作り方
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パスカル・ドゥヴァイヨンのショパン・エチュード作品25の作り方
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ショパンが作曲した24曲のエチュードは、ピアノを学ぶ者はもちろん、すべてのクラシック系ピアニストが最高の芸術性、技術および明晰な頭脳をもって挑むべき試金石である。若者にとっての登龍門となる国際コンクールでも、必ずと言って良いほどの頻度で課題曲として指定される作品だ。真の実力が問われ、試され、また優劣もはっきりとわかってしまうので、ごまかしがきかない。

“エチュード”という響きはお洒落だが、訳せば「練習曲」。何だか「音楽しよう!」という意欲がげんなり萎えてしまいそうな名称ではある。確かに「新しいテクニックを身につけるための練習に役立つ作品」という性格は色濃く、もちろんその目的のためにも使用される。それぞれの作品を極めるまでの道のりは、アルプスの山に登るのに似て厳しい。しかしこうした技術的ハードルを遥かに凌駕しているのが、それらの崇高な美しさと芸術作品としての完成度だ。山頂から眺めるスイスアルプスの景色にも同じような感激があろう。“ピアノの詩人”として万人にこよなく愛されるショパンが歌い上げる美しさに少しでも肉薄するために日々の鍛錬があり、「もっと美しくありたい」という切なる願望が、より高度な技術を身につけるための忍耐への原動力となる──そんなたぐいまれな作品群なのである。

「一度はレッスンを受けてみたい先生」として人気を誇るドゥヴァイヨンがまとめたこれら2冊の本は、もともとピアノのレスナーと生徒達を対象とした音楽月刊誌『ムジカノーヴァ』の2010年4月号から2012年3月号までの連載を集約・再編したものだ。そこに登場した「ドゥヴァイヨン先生の誌上レッスン」だが、音や演奏のイメージを「読む言葉」で説明し、微妙なニュアンスを伝えるのは容易ではない。そこで「料理のレシピのように説明してみよう」という手法が編み出された。今までになかった新鮮でわかりやすい指導書が生まれることになったのである。

原文の執筆こそドゥヴァイヨンだが、日本語化を担当したのは、自身も優秀なピアニストである村田理夏子だ。ドゥヴァイヨン夫人である村田は夫が言わんとしていることを的確に把握し、それを最適なメッセージに熟成させている。読者にとっては、村田が語る日本語の親しみやすさとわかりやすさが何よりの宝だ。彼女が担う作業は決して「翻訳」といった下働き的なものではなく、光り輝く語学センスがいたるところにちりばめられている。村田の手腕なくしてこの魅力的な本は成立しなかったろう。はつらつとした日本語が味わえるし、とても楽しい。

本書はショパンによって「作品10」として創作された12曲と「作品25」として創作された12曲が、それぞれハンディなサイズの分冊として装丁されたものだ。各作品のスタイルと内容があたかも料理本のように個別のレシピとしてまとめられ、まずは《今日の献立》としてそのエチュードの概要と特徴が提示される。《用意するもの》のコラムでは必要な材料、つまり作品をまとめるために欠かせないポイントが整理されている。《期待される食効果》として紹介されるのは、何のためのエチュードなのか、という「目的」だ。続く《よりよい消化のために》と銘打ったコーナーで楽曲に挑む際の留意点や心構えに言及されたあと、いよいよメインメニューである《作り方》が説明される。「作り方」とは「いかに練習するか」というコアの部分だ。与えられる課題は高度だが、ドゥヴァイヨンによる聡明な構成と村田の巧みな話術に助けられ、思わず「そうか、そういうことだったのか、やってみようかな」という気にさせられてしまうところが、この本のニクイところである。

「こういう練習をしなさい」という上から目線のトレーニング指示書ではなく、「なぜそうする必要があるのか、それをやるとどういう効果があるのか」という説明が行き届いているため、先生の厳しい要求にも納得して忍耐強く努力できるのだ。ドゥヴァイヨンの名教師たるゆえんである。ショパンのエチュードに挑戦してみたは良いが、いくら練習しても上達が感じられず、煮詰まってしまっている人は一読してみよう。現状打破につながるヒントが必ず見つかるに違いない。

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2013年06月19日

『ジュリアードで実践している演奏者の必勝メンタルトレーニング』ドン・グリーン(那波桂子訳、辻秀一監訳、ヤマハミュージックメディア)

ジュリアードで実践している演奏者の必勝メンタルトレーニング →紀伊國屋ウェブストアで購入

演奏家をめざしつつも、メンタルの問題に悩んでいる人への福音となる本かも知れない。とは言うものの、この本に書かれていることを忠実に守りさえすれば、今抱えている問題への解決が提供されるノウハウ本ではないことは、あらかじめ知っておく必要があろう。

著者のドン・グリーンは「オーディションのための米国有数のコーチ」と紹介されている。もともとは軍出身のキャリアを持つエキスパートのようだが、メトロポリタンオペラ、ニューヨークフィル、シカゴリリックオペラ、セントルイス響といったトップレベルの音楽団体のみならず、ニューヨークにある音楽の名門校、ジュリアード音楽院での指導を担当しているとなると、音楽に関しても信頼できる知識と経験をもったコーチであるに違いない。しかし著者自身に演奏経験があるかどうかまでは、本書からはわからなかった。しかし──コーチとしては当然のことながら──演奏家が直面する状況やストレスの原因となる事象、また演奏中に陥りやすい心理状態に関しては演奏家以上に熟知しているように見受けられた。

原著を日本に紹介した監訳者の辻秀一は数年前に出版された『スラムダンク勝利学』(集英社)で一世を風靡したスポーツドクターだが、実は私のメンタルヘルスの師でもある。本書に紹介されているような個人指導は受けていないが、折に触れて講座を受講し、そのメソードと指導には信頼をおいている。開放的な話術で多くの人を魅了し、とりわけこの4月に上梓されたばかりの『自分を「ごきげん」にする方法』(サンマーク出版)は大きな反響を呼び、多くの書店で平積み販売されている大ヒット書籍である。

本書で紹介されているのは、アメリカで活動しているオペラ歌手のヴェロニカと、オーケストラのホルン奏者であるブライアンのケースだ。二人ともまだ若手のミュージシャンで、さらに上のランクの職場におけるポジションや役を得るためのオーディションを目指している。このあたりの状況は日本と少々異なるが、アメリカでは常に次の仕事やポジションを自力で獲得していかないと、早晩生活に行き詰まる。日本で盛んな「自分の成長に役立てるためのコンペティション参加」とは違って、こうしたオーディションにチャレンジし、合格することは演奏家としての死活問題なのだ。いきおいハードルも高く、プレッシャーも大きい。二人ともメンタル的には違ったマイナス要因を抱えており、ストレスがかかった際の反応も異なる。これらのケースに個別にアプローチし、各自が必要としていることを会話の中から見つけだし、問題点に対するアプローチ方法を相手にとって最適な表現で提案し、自発的な実践に導き、それによって生じた変化と結果を評価し、さらに次のステップへつなげていく──というメンタルトレーナーの手順と手腕がドキュメンタリー風に紹介されているのだ。

すでにお気づきのように、ここで紹介されている解決法は、ヴェロニカあるいはブライアンにとって有効な方法であって、読者がそうしたからといって同じ結果となるわけではない。この本を読むことによって得られる最大のメリットは「メンタルトレーニングとは、このように進展していくのだ」ということを知り、自分がそれを求めた時に、より大きな安心と信頼をもってコーチに対面できる、という点だろうか。

ヴェロニカとブライアンのドキュメンタリーは時系列に沿って紹介され、最後はハッピーエンドとなる。少々気になったのは文中に出てくる専門用語の扱いだ。「センタリング」「フォーカス・ポイント」「キュー・ワード」「プロセス・キュー」などなど、文体としてはスマートでお洒落に見えるものの、はじめてメンタルトレーニングの世界に触れる人はどのように感じるだろうか。すでにメンタルトレーニングの予備知識を持っている者にはその方がわかりやすいかも知れないが、私自身も少々とまどってしまうことがあった。もちろん本書を読み込んでいけば理解できるし、ぴったりな日本語が存在しないこともわかるが、安易に原語をそのまま流用せずにもうひとひねりする工夫があれば、さらに親しみやすい本に仕上がったかも知れない。前述の『自分を「ごきげん」にする方法』が爆発的にヒットしたのも、メンタルトレーニング用語である「フロー」を「ご機嫌」、「ノンフロー」を「不機嫌」と表現したところに多くの人々の支持と共感が集まったものとも考えられる。

いずれにせよ、メンタルトレーニングの個人指導が本場アメリカでどのように行われているかを詳細に追体験できる、貴重な本である。こうした、それなりの費用もかかるトレーニングを自分に受け入れる準備があるか、そしてトレーニングによって果たして自分が変われるかどうかに思いを馳せるに当たって、恰好で貴重な題材であることは間違いない。

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2013年04月08日

『ピアノと日本人』斎藤信哉(DU BOOKS)

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ピアノを教えることは、私の大切な仕事のひとつだ。そんな時に折に触れて使う表現がある。曰く「そんなふうにピアノの調律師みたいな弾き方で音を出してはいけません」。感性の良い学生はこの言葉だけで納得し、音の響きが即座に変わることも少なくない。

「調律師みたいな弾き方」とは、伸びのない、耳ざわりな音を出す打鍵のことで、西洋の音楽を奏でるには適さない。楽器の音は弾き方によって大きく変化するが、そこが「生楽器」のおもしろさでもあり、奥の深さでもある。電子楽器と違うのは、正にそこなのだ。楽器に触れる機会のない人でも、仏前の鐘を鳴らす時にうまく響いたり響かなかったり、という経験はあるだろう。

ピアニストにとって調律師は欠かすことのできないパートナーだ。ピアノはしばらく使っていると各音の高さが狂い、響きがにごってくる。たとえ使っていなくても温度や湿度によって状態が変化するやっかいものだが、そんな時には調律師に調律をお願いし、ついでにアクションの調整も依頼する。音の高さを合わせるにはひとつずつ打鍵して音を出し、それを耳でチェックしながらチューニングハンマーを操作するのだ。1台のピアノには230本あまりの弦が張られており、毎回そのすべてを合わせ直してもらうのだが、この際の打鍵が中途半端だと、せっかく調律しても仕上がった状態が長持ちしない。それもそのはず、プロのピアニストが渾身の力を込める打鍵が弦に与える衝撃は半端なものではなく、それに耐えうる調律にはそれなりの技術と経験が要求される。そのひとつが「調律の際には強めの打鍵も必要に応じて活用する」というものだが、これが実は著者で調律師である斎藤が「そのような弾き方をしてはいけません」と強く糾弾するタッチそのものなのである。

この「演奏家がやってはいけないピアノのたたき方」がどのようなものか、それをついやってしまう原因がどこにあるのかの究明が本書のキモのひとつである。斎藤はその背後に「日本人は膝をまげたまま歩く」という癖と同質のものがある、と解き明かす。日本人としてのDNAがそうさせるのだろうか。東洋(日本)と西洋との思いもよらぬ差は、歩き方ばかりではなく、さまざまな道具の仕様と使い勝手にも存在している。のこぎりもそうだし、やすりも然り。日本の鍬と西洋のスコップ。箸とフォーク。スポーツや日常の身のこなしにおいてもそのような感覚の差が存在するという。

こうした差は、たとえばお祭りの和太鼓と洋楽のオーケストラで使われる太鼓(ティンパニや大太鼓、そしてスネアドラムも)の音の出し方にもあらわれる。こうした「音」に関する文化と日本的な嗜好は、以前このコーナーでも紹介した中村明一の『倍音』に書かれていることとも大きな関連がありそうだ。本書ではこうした発想の数々が次から次へと提示されるだけではなく、普段は限られた人しか目にすることのない調律師の仕事についても生き生きと語られている。

「自分の家で休眠しているピアノを再活性してみませんか。売り飛ばすのはもったいない。ピアノを弾くって楽しいですよ。そんなに難しいことではないですから」という著者の熱い願いがあってこそ生まれた本だろう。最終章にはコードネームを駆使して楽譜を理解しよう、というアプローチも紹介されているが、このあたりは「わかっている人には簡単だが、わからない人には難しいまま」の話題かも知れない。それでもなお余りある「目からウロコ」的発見が、本書から期待できそうだ。

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2013年03月15日

『ウィーン・フィルとともに』ワルター・バリリ著、岡本和子訳(音楽之友社)

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「古き良き時代」という言葉がある。自分の人生をふり返ったときに多くの人が感じる、「あのころは良かった」「あの時は幸せだった」という郷愁に似た思い出だ。辛かったこと、不自由だったこともたくさんあったはずだし、おそらく幸せよりも苦労の方がまさっていたに違いないが、時とともに負の記憶は薄れ、心を潤すプラスの感情だけが記憶に残る──「時」が持つ癒やしの魔力は何と素晴らしいことか。

…とはいうものの、どうしてもぬぐい去ることのできない記憶もあろう。「第二次世界大戦当時の現実」もそのひとつではないだろうか。史実を客観的に残す目的でまとめられた書籍や(戦争の場合、どの立場から状況を評価するかによって内容が異なってしまう問題は常に存在するが…)当時の映像も数多く保存されている。しかしあの時代を生き延びた人々の高齢化に伴い、身を以て戦渦を体験した時の感情を生きた言葉で語れる人は少なくなる一方だ。

こと音楽に関しても、状況は変わらない。そうした数少ない語り部のひとりがバリリである。1939年にウィーンフィルのコンサートマスターになり、戦時中の音楽活動を支えてきた往年の名ヴァイオリニストだ。1921年生まれだから今年で92歳になったが、まだかくしゃくと生活しておられると聞き及んだ。今なおさまざまな役職にあるばかりか、日常の買い物なども普通にこなしているという。

ワルター・バリリは「昭和の音楽ファン」にとっては特別な存在だろう。その当時の日本人にとって夢のオーケストラだったウィーンフィルのコンサートマスターという地位、自らが主宰する弦楽四重奏団とともに1957年に来日した経緯、またウェストミンスター・レーベルとしてレコードに収録された名演の数々、そして「これからますます…」という賞賛と期待の絶頂においてバリリを襲った腕の機能障害による現役引退など、その人生は常人の想像に余りある波瀾万丈なことばかりだった。演奏活動から退いてもバリリは指導者として信頼され、1969年に開講されたウィーン市立音楽院のバリリクラスにはこれまで多くの日本人も在籍した。

初来日となった1957年は弦楽四重奏団としてのコンサートツアーだったが、その後も指導者として複数回来日しており、1995年に高崎市の招聘によって来日した際には筆者がアレンジした企画にて音楽に関していろいろ語っていただいた。その際に通訳として協力してくれたのが本書の訳者、岡本和子女史である。岡本は日本語のみならずドイツ語とフランス語を自由自在に扱う才媛で、当時はNHK衛星放送の定時ニュースや第一線の国際会議などで重用される同時通訳の寵児だった。

この時の出会いが岡本にとってその後のバリリとの親交のきっかけになったという。彼女がバリリを慕ってまるで祖父に対するように接し、バリリ夫妻もまた岡本に心を開き、ゆるぎない信頼関係が構築された土壌に、この本の種がまかれた。本書にも綴られているが、岡本がバリリの写真を整理し、その時々の状況をメモとして記録していく作業を通じて、バリリにも「自分の希有な人生を自伝として書き留めておこう」という気持ちが芽生えたという。そして2006年、原著は出版され、ウィーンで祝福された。

第二次世界大戦の「主役」だったナチス・ドイツの政治活動にとって、音楽の存在は欠けてはならぬものだった。オーストリアはドイツに併合されたが、戦時中でも演奏会は変わらぬ日常として開催されていた。市民たちにとって、音楽に接している時間は現実から逃避できるかけがえのない時だったのだろう。演奏家たちはそれなりに庇護され、演奏活動に関する便宜が図られた。

とはいうものの、ユダヤ系の演奏家にとっては、演奏家であることが免罪符にはならなかった。バリリの自伝では触れられていないものの、ウィーンフィルのメンバーといえどもユダヤ系の同僚たちは非情にも排除され、強制収容所に送られた。これは私自身がバリリとの個人的な会話で確認したことでもある。なお、強制収容所における音楽家の日常に関しては2009年4月に掲載した『アウシュヴィッツの音楽隊』の書評を参照していただきたい。

音楽家の視点から見た戦渦が語られている、というだけでも貴重な内容の本だと言えよう。そればかりでなく、バリリの人生の軌跡を追い、得がたい写真の数々を鑑賞できるだけでも、十分な価値があるだろう。しばし「そんな時代があったのだなあ」との感慨にふけってしまいそうだ。

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2013年02月12日

『知って得するエディション講座』吉成順(音楽之友社)

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興味深い内容には違いないが、どういう人にお薦めしたものか、迷うところだ。とりあえずはピアノを弾ける人、それもある程度のレベルに到達した人にとって有意義な参考書となるだろう。しかし音楽学生やピアニスト向きに書かれてはいるものの、ここで紹介されているような知的探索の魔力にはまってしまう可能性のある人は、もっと違うところにいるような気がしてならない。「ピアノが好きな中高年の音楽愛好家」といった層だと思われるが、プロファイリングしてみよう。

「音楽、それも古典派からロマン派にかけてのわかりやすい名曲が大好き」「ピアノ曲が好きで、余暇に自己流で弾いてみるのが楽しみ」「古文書や骨董品など古いものに興味がある」「どんなことでも真相を解明してみたいと思う」「図書館の雰囲気が好きで、大きな机に所狭しと本を広げ、それらを縦横に参照しながらいろいろ考えている自分の姿にあこがれる」「どちらかというと学究肌」「心理学に興味がある」「他人の気持ちになって物事を捉えてみるのが好き」など、など…。

本書は「出版楽譜や原典資料の差を知り、そこから導かれる考察を自分の演奏に反映させよう」という趣旨でまとめられた入門書だ。本来の読者ターゲットは演奏家なのだが、ともすると直感と独断だけに頼ってしまう安易な人々に納得してもらい、こうした作業を実践させるのは容易ではない。だが、これもまたひとつの音楽の楽しみ方だ。「知る楽しみ」は奥が深い。一生を通じての趣味となり、ひょっとすると今まで誰もが気づかなかったような発見や新しい見解・解釈に至ることも夢ではない。

「作曲家が作品を創作する」ということは「紙の上に音符を書く」ということだ。現代でこそパソコンで音符を入力できるようになったものの、以前は「手で書く」以外に方法はなかった。下書き、作業中の楽譜、その清書、そして出版社に版下として提出するための筆写譜など、さまざまなレベルの「手稿(手書きの楽譜)」が存在する。それが印刷譜にまとめられて出版されるのだが、そこには単なるミスプリントとともに、最終段階で作曲家が行った添削や変更といった要素も含まれている。

資料間にある差違が「誰の指示によって行われたか」「それはなぜか」を時間軸に沿って解明していくのがエディション研究の王道だ。「印刷譜の版下を制作する際に生じやすいミスプリントのパターン」もある。作曲家が直接関与していない出版では、出版社お抱えの「わけしりの先生」によって、原曲の細部が勝手に変更されてしまうことも少なくない。

まずはこうした違いに気づくこと。そしてそれがどのような状況において起こったかを追跡することによって作曲家の真意がより明白になる。こうした知識を得た上でCDを聞きくらべてみるのもおもしろい。演奏家に「お、おぬし、知っとるねえ」とか「なんだ、思慮深い振りをしているだけじゃないか」などと心の中で語りかけながら、ひとりひそかにほくそえむ楽しみが得られるだろう。

エディション研究の実践とは、「探偵になろう。不自然なところを見つけよう。それがなぜかを解明しよう」ということなのだ。推理小説と同じ、ミステリーなのだ。場合によっては五線譜用紙の製造元の究明から、作品の成立時期が見直されることさえある。

「実際にどうするか」は経験に負うところが大きいし、必要な資料の入手方法やそれらの評価にも当初は経験者によるアドバイスが欲しいところだ。資料に関しては、昨今インターネットで閲覧できるものが増えたことが喜ばしい。また所蔵資料をネット上で検索できる図書館も多くなった。見つけた資料は、料金さえ払えば誰にでもコピーを送付してもらえるシステムも整ってきた。

まずはどんな世界なのかを知るために、一読をお薦めしたい。ワクワクドキドキに満ちた、未知の世界への重い扉が開かれんことを願っている。

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2013年01月14日

『ドビュッシーと歩くパリ』中井正子(アルテスパブリッシング)

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昨年のコンサートステージでは積極的にクロード・ドビュッシーの作品がとりあげられていた。パリを愛し、フランス印象派を象徴する魅力的な作品を数多く創作したドビュッシーの生誕150周年を意識してのことである。ドビュッシーが創作した音楽は、私たちを不思議な世界へと誘ってくれる。えもいわれぬ柔らかな響きに包まれ、まるで影のない世界に迷い込んでしまったような気持ちにさせられるのだ。

しかし「印象派」と聞いてまず思い出すのは、絵画の世界だろう。フランス印象派の画家の名前は、それこそ枚挙にいとまがない。ドビュッシーが生きた19世紀から20世紀にかけては、写実的な描写を離れた「感覚」が何よりも大切にされた時代だった。音楽もまた然り。不思議なことに、印象派の作品では視覚に訴える絵画から伝わってくる感覚と、音を聴くことよって呼び覚まされる感覚に大きな共通性がある。双方ともに寒暖の差、柔らかさにより多くの比重がかけられた感覚、風景を見たときのような色彩感はもとより、季節の息吹として頬を撫でる風や、そこに漂う香りまでもが感じられるのだ。

そんな独自の世界を音で構築したドビュッシーの生涯を追いながら、それを耳で味わい、写真を通じて目でも楽しもう、という本が上梓された。執筆者の中井正子は国際派のピアニストだ。まだ十代の頃からパリに留学し、フランスの感性を柔軟な感性によって身につけ、なかなか言葉では説明できないフランス文化の神髄を100%自分のものとする数少ないアーティストだ。本書を入手するとまず中井のエッセイが楽しめ、彼女の演奏も堪能できる。添付されたCDで聞ける作品の解説を担当したのはご主人でもある小鍛治邦隆だが、彼もまた世界の第一線で活躍する作曲家だ。

しかし本書を手にとってまず感激するのは、そこに印刷されている美しい写真の数々だ。それもそのはず、これらの写真の多くは中井の友人でもあるパリの写真家フィリップ・ドラゼーによって撮影されている。プロの写真はやはり違う。単なる挿画に終わるのではなく、その写真からパリの雰囲気があふれ出てくるように感じられるのだ。パリを訪れたことのある人ならば、そこにある街の喧噪や空気のにおいを即座に思い出せるだろう。写真すべてがドラゼーによるものではなく、著者が撮影したスナップも多く使われているが、色調も整えられ、プロの手による写真とのギャップができるだけ生じないよう、うまくレイアウトされている。また余白に挿入されたイラストマップもお洒落で、この本の雰囲気を高めるための大切な要素となっている。付録のCDももちろん申し分ない音質で、本を読みながらその演奏を味わえば、ドビュッシーの心情をより深く共感することにも通じるだろう。

最近、こうした音源をCDの形で付録にしている書籍や雑誌が少なくない。コスト面からも十分受け入れられる値段にこなれてきたが、実は読者にとってあまり使い回しの良いものではない、と感じるのは私だけだろうか。

携帯用音源としてその昔はカセットが愛用され、その後MiniDisk、そして現在はmp3などのファイルを携帯用ストレージにダウンロードする、という世相になった。CD用の携帯プレイヤーも一時存在していたが、主流にはならなかった。やはりCDを聴くには、それなりの環境が欲しくなる。となると本体の書籍を読む場所も必然的に限られ、電車の中で、とはいかなくなる。またそれと別の問題点として「CDが挟まれていると本が曲がらないのでページを繰りにくい」という事もある。図書館のような場所で机の上に本を広げて読むならともかく、持っている手に本が馴染まず、しっくり来ないのだ。かといってCDを出してしまうと、ディスクのやり場に困ってしまう。

CDが添付されていること自体に不満を申し立てるのではないが、たとえばQRコードも印刷して音源をダウンロードできるようにするとか、せっかくの本をより魅力的に演出するためにもうひと工夫できないものだろうか。音源が本当に喜ばしいプレゼントになるかどうかは、それを本と融合させるためのアイデア次第だろう。「CDをつければ読者が喜び、お得感を演出できる」と安易に考えてはいないだろうか。最新のテクノロジーに追いつけない層にはCDが便利ではあるものの、ダウンロードした音をiPodに入れ、パリのカフェ・ド・ラペでこの本を片手にドビュッシーを聴きながらコーヒーを楽しみ、これから行くところにどんな逸話があるのかを中井の洒脱な文章でチェックできるのであれば、もっとお洒落なのに…。

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2012年11月19日

『ベートーヴェン』平野昭(音楽之友社)

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「作曲家 人と作品シリーズ」の中の一冊だ。9月に刷り上がったばかりだから、ベートーヴェンの伝記として、現時点では世界でもっとも新しいものだろう。ベートーヴェンの生涯を追った伝記の部分とともに活気にあふれた言葉でまとめられたジャンル別の作品解説、それに年譜や作品一覧、参考文献リストと人名索引が加えられた、コンパクトながらも配慮の行き届いた、便利で魅力的な書物になっている。サイズもちょっと小ぶりなB6判で片手でも支えられるし、電車の中で読むにも無理のない大きさだ。

誰のものであれ、伝記をまとめるのは大変な作業だろう。一筋縄ではいかない、奥の深い世界に違いない。アントン・シントラーという、実際にベートーヴェンの世話をした人が書いた伝記が最初のものだったが、それ以来今日までに数多くの研究者たちがベートーヴェンの伝記を発表してきた。「伝記」とはその対象となる人の生涯をふりかえり、その実態を客観的にまとめた文献だ。膨大な資料を検証し、そこから真実だけを洗い出していくのだが、手間がかかることは言うまでもない。しかし客観的であるべきところに著者の主観が混在してしまうところが、伝記のおもしろさでもある。ベートーヴェンの場合は研究者の数も多く、たくさんの専門家によって積み上げられた史実としての研究成果も半端な量ではない。それでもなお、まだ不明の部分も多々残っている。研究の余地はまだ残されているのだ。

平野が提供してくれる最新情報は何だろう、とわくわくしながら読み進んだ。何といっても日本語が平易で読みやすいのはありがたい。すんなりと頭の中に入ってくる。そんな中、ふとある一節に目がとまった。

一方で、オーバーデーブリングから持ち帰ったエラール・ピアノで新しい「ハ長調」ソナタ(作品五三)の作曲を進めている。これまでにない強弱のコントラストを明確に打ち出し、初めてダンパー・ペダル記号まで書き込んだ新しいタイプのピアノ・ソナタだ。…(70ページ)

ベートーヴェンはこと音楽においては常に「さらに先の可能性」を求めてやまなかった人物で、新しいモデルのピアノを入手すれば、即座にその新性能を駆使した作品を創作した。現代ピアノではスタンダード仕様となっているペダルは、実はベートーヴェン時代に開発されたものなのだ。それまでは足で操作する機構ではなく、楽器下部に取りつけられたレバーを膝で押し上げることによって、同等の効果が得られていた。ベートーヴェンが1802年まで使用していたピアノはまだこうした旧式のものだったというのが従来の通説で、1803年に入手したフランス製のピアノにて初めて「ペダル」が使えるようになり、作品にもその指示が書き込まれるようになった、という見解は間違いではない。

しかし1802年に作曲された「テンペスト」という愛称を持つピアノソナタにも、この新しいペダル指示が書き込まれているのだ。いや、「書き込まれている」かどうかは検証できない。なぜならこの作品の自筆譜はすでに散逸してしまったからだ。筆者に質問してみたところ、ほどなく返答があった。

「テンペスト」の自筆譜は消失しているのですが、例外的に二種類の初版譜(ネーゲリ版とジムロック版)があります。これらを確認すると、両版ともにペダル記号を使った指示があります。ということは、2社が版下として使用した浄書写本(コピストによるものだろうと思います)にはすでにその指示があったと考えられます。自筆譜にないものをコピストや出版社が勝手に加えたということも考えにくく、もしかしたら失われた自筆譜にすでに明記されていたのかも知れません。となると、この作品を作曲していた時にベートーヴェンが使っていたピアノにはぺダルが装備されていたということになり、改めて1802年頃のウィーンのピアノを調査する必要があると思います。

これをきっかけにまた一歩ベートーヴェン研究が進むことになるのかも知れない。終わりのないのが研究の魅力である。本書もベートーヴェン研究のひとつの通過点として貴重な存在となるだろう。

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2012年10月22日

『ピアニストになりたい!』岡田暁生(春秋社)

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「芸術家である」ということには、単に一芸に秀でているだけでなく、人間としてのバランスがとれていることも含まれるのではないだろうか。「エキセントリックな」という評価が先行するアーティストは別にしても、人生をかけてひとつのことに精進してきたという事実が、その芸と人格に言葉では表現できない重みと価値を与えるもののように感じられる。音楽も例外ではないはずだ。

そうしたバランス感覚は、モーツァルトの時代では自明のことだった。神童として画期的なデビューを果たしたモーツァルトの父レオポルトが出版した『バイオリン奏法』やバッハの息子エマヌエルがまとめた鍵盤楽器奏法に関する『正しいクラヴィーア奏法』その他の理論書をひもとけば、当時のそうした傾向を読み取ることができる。

ピアニストも芸術家の予備軍だ。しかし楽器を達者に弾きこなせるレベルに到達するまでには、厳しい訓練が必要となる。両手10本の指を鍛えぬき、超人的な速度と精密さで自分の意志通りに動かせることが、とりあえずの目標だ。目標が明確になれば、そこに至るまでの過程が見えてくる。いかに効率よく指を鍛えあげるかが大きな課題となり、さまざまなトレーニング方法が論理的に配列された練習曲集が出版されるようになった。そればかりか、手指の筋肉を個別に鍛えたり、関節のストレッチを促進するための器具も数多く考案された。現代のスポーツジムにあるようなトレーニングマシンの手指版ができたと思えば良いだろう。

こうして心情の充実や音楽への理解よりも、演奏に必要な手指の訓練が教育プログラムの中でより大きな比重を占めるようになったのだ。本書はこうした「いかにしてピアニストの手を鍛えるか」に関する歴史がまとめられたものである。今となっては廃れてしまったトレーニング器具の興味深い図版も多数掲載されているし参考文献一覧も充実しており、貴重な資料集としても価値があるだろう。

ここまで徹底したエクササイズが普遍化した裏には、それなりの理由もあった。ピアノのアクションが丈夫になって渾身の力で弾きなぐっても壊れなくなった反面、鍵盤は深く、重くなった。こうして筋力を誇示したり曲芸じみた演奏で目立とうとする演奏家が出現し、もてはやされるようにもなったのだ。

音楽が一部の特権階級の専有物だった時代から大衆の享楽となって以降、「純粋な芸術としての音楽を求める人」の存在は今も昔も少数派のようだ。音楽を媒体にして「その他大勢」の嗜好を満たすものを提供するところにこそ、ビジネスチャンスも埋もれているのだろう。そう考えれば現代の大音量とともに低重音をふんだんに使ったロック系のサウンドや、美形の男女がグループになってダンスを披露する“歌”に絶大な人気が集まることにも「本質は同じだな」と納得できる。

楽器演奏のトレーニングに限らず、細分化することによって効率の向上を図ろうとする世相は、さまざまなものに影響を及ぼしていった。以前はひとりの職人がひとつひとつ手作りで仕上げて完成させた製品が、産業革命後は工場で大量生産されるようになったことは、改めて述べるまでもないだろう。複数の工員が細分化された工程に配置され、単純作業をくり返すことによって、より効率よく製品が生産されるようになっていった。西洋医学もそのような方向で発展してきたに違いない。医者は患者全体を診るのではなく、どうしても個別の臓器の病変に気をとられてしまう。

音楽もまた「心のオアシス」として隔離されたユートピアではなく、効率化の対象として扱われていたのだ。何にも影響を受けない営みなど、人間界にはあり得ないのだろう。およそ文化とはそういうものなのかもしれない。

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2012年09月17日

『どうして弾けなくなるの? 〈音楽家のジストニア〉の正しい知識のために』J. ロセー、S. ファブレガス(音楽之友社)

どうして弾けなくなるの? 〈音楽家のジストニア〉の正しい知識のために →bookwebで購入

演奏家に特有な局所性ジストニアという病気をご存知だろうか。4月の書評『ピアニストの脳を科学する』でも触れた病名だが、この疾患に関するきわめて詳細な書籍が出版された。バルセロナ(スペイン)にある音楽家専門治療施設「テラッサ芸術医学生理学研究所」の医師、そして理学療法士でもあるロセーとファブレガスによってまとめられた“Musician's Dystonia”の邦訳である。原著は2010年にヨーロッパで開催された医学会で無料頒布されたもので、そこに参加した東京女子医大脳神経外科の平孝臣教授が偶然に手にし、日本へ持ち帰ったものである。平教授も日頃からジストニアに苦しむ演奏家たちの診察に携わっている医師であり、教授の尽力によって日本語化が実現した。

内容は多岐にわたり、専門的な記述になっている。本書は一般向けの啓蒙書ではなく、医療に従事する専門家へのガイドとしてまとめられたものだからだ。とりわけ「どのように診断するか」は、患者よりも医師にとって大切なテーマだろう。以前この病気は演奏家が抱える「人前で演奏することに対する恐怖心」に由来する精神疾患として扱われることが多かった。しかし研究が進んだ今では神経内科医が扱うべきものとして認識が改められ、その方向での診断方法や治療方法が開発されている。

ジストニアに悩む演奏家にとっては一刻も早く手にして読みたい本だと思われるので、冗漫な感想を羅列することは避ける。しかし「演奏家のジストニア」がどんなものなのかだけは、簡単に紹介しておこう。たとえ自分自身はそうでなくても、家族や同僚がこの病変に直面している場合、その人を理解し、サポートするために少しでも役立てば、と思うからである。

演奏家のジストニアとは、高度の複雑さと正確さを必要とする反復動作を長年にわたって行ってきた身体部位に発症すると考えられている。ピアニストやギタリストをはじめとする器楽奏者の手指、管楽器奏者の唇、あるいは歌手の声帯などに機能障害が出現するもので、自分の意志に反して指が不自然に動いたり、あるいは自分の意志通りに動かせなくなり、演奏ができなくなってしまうのだ。最近の統計ではプロの演奏家の実に5%がこのようなジストニアに悩み、その半数がプロの道をあきらめなければならない、という結果が出ているそうだ。不思議にもこうした障害は楽器を持って演奏している時に限って出現し、演奏以外ではきわめて健康で普通の生活ができる、という特徴がある。極端な場合には、アコースティックギターは弾けないのにエレキギターでは何の問題もない、ということもあるそうだ。ピアニストの場合も、鍵盤上ではできなくとも、鍵盤の蓋の上ではまったく正常に同じ動作ができることが少なくない。

本書を手にしたら、まずは第7章、第6章、第5章あたりから読み始めると良いだろう。第7章の「ジストニアを改善するための一般的な注意」の項には、以下のことが書かれている。

音楽家のジストニアは、脳に問題がある。しかし、真の意味で疾患ではなく、脳に病変は存在しない。音楽家のみに起きていることは、非常に高度なレベルの演奏を何年間も続けた結果、脳が持てる力を最大限に発揮し続けて極限状態にさらされてきたという特殊な状況において、いくつかの間違いが脳に取りこまれたということである。体系的な練習によってジストニアを発症したのだから、適切な体系的練習によってジストニアから脱することができる。

そう、ジストニアは克服できるのだ。ジストニアを克服したばかりか、以前よりも演奏が上手になった人もいる。本書の内容を俯瞰できるよう、主要な目次を紹介しておこう。この本がジストニアに悩む演奏家たちへの朗報となり、困難でも正しいリハビリに立ち向かう勇気を与えてくるよう、望んでいる。

「音楽家のジストニアとは?」「どのように診断するか?」「ジストニアの原因は何か?」「ジストニアの心理学的側面」「予防対策」「ジストニアの症状が出たときに何をすべきか?」

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2012年08月18日

『安倍圭子 マリンバと歩んだ音楽人生』レベッカ・カイト(ヤマハ・ミュージック・メディア)

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マリンバという楽器をご存じだろうか。平たくいえば大型の木琴だが、木製の鍵盤ひとつひとつに共鳴パイプがつけられ、ふくよかな、味わい深い音が出るように設計されている。もともとはアフリカの民族楽器だったものが、さまざまな工夫によって発達してきたものだ。ステージ中央に置かれた最新モデルのコンサート用マリンバには有無を言わせぬ存在感があり、その楽器を前にフットワークも軽々と縦横無尽に弾きこなすマリンビストの無駄のない動きと華麗な姿は、聴衆の目までも楽しませてくれる。

当初はポピュラー音楽の中でのみ使われていた楽器だが、そうした位置づけもすでに過去のものとなった。今ではクラシック音楽はもとより現代音楽のジャンルにおいて欠かせない楽器となり、大きなコンサートホールでオーケストラをバックにしたソロ楽器としても愛用されている。

マリンバのめざましい発展、そしてそれにふさわしいレパートリーの開発、強いてはマリンバがクラシック音楽の演奏に使われる他すべての楽器と対等の存在として認知されるまでの道のりは、それがそのまま安倍圭子の人生でもあった。大きな夢と強い信念を持ち続けてマリンバをとりまく環境の発展を先導し、世界に向けて発信していった安倍圭子の物語がここに綴られている。

安倍は今なおマリンバのトップ奏者として、その右に出るものがいない実力と実績をもって世界を股にかけて活躍している。コンサートはもちろんのこと、安倍が指導するマスタークラスには、それがどこで開催されようとも世界中から若いマリンビストたちが馳せ参じる盛況となる。安倍を慕って集まった若者たちが感銘を受けるのは、トップアーティストとしての技術的なアドバイスにとどまらず、安倍と接し、声を聞き、その音に触れることによって実感する安倍自身の芸術家としての姿勢なのだ。音楽に対する深い愛情、自分の信ずる道を迷わずに進む勇気、年齢やキャリアにかかわらず仲間を信頼して大切にする心、そして、その人生の中で遭遇したどんな困難をも自分の判断で乗り越えてきたことによって生まれる大きな自信と包容力によって、安倍のまわりにはいつも特別な空間が形成される。安倍と一緒にいると本当に暖かく、気持ち良く、自分にも勇気が湧いてくるような気分になるから不思議である。

本書に紹介されている「困難」は、安倍がその人生の中で越えなければならなかったハードルのうちほんの一部に過ぎないだろう。また、幼少の頃から安倍が示していた音楽への感受性も、並外れたものだったようだ。しかし、何よりもすごかったのは、彼女の集中力なのではないだろうか。そんな安倍の今までの人生を文章として読むことができるとは、何と嬉しいことか。

この書籍をまとめたアメリカ生まれのレベッカ・カイトも、もとはといえば安倍に触発されてマリンバに目覚めた仲間のひとりだった。彼女が安倍や安倍の関係者と行った長時間のインタビューをもとに客観的な視点でまとめた人生の軌跡は、またとない貴重な資料に違いない。なぜなら上述の通り、安倍の人生を語ることは、マリンバの発展の軌跡を語ることにほかならないからだ。それに加えて楽器の歴史や古今の演奏家情報、そしてレパートリーに関する詳細なども綿密に整理された上で掲載されており、マリンバの演奏を手がける者にとってはまさに必携の一冊ではないだろうか。

添付されているCDには安倍自身の演奏による貴重な音源がたくさん収録されている。「途中まで…」という編集が多いのは残念だが、安倍のさまざまな側面をコンパクトに紹介するためには仕方のないことだろう。隅々まで生命力と躍動感に満たされた演奏ばかりで、楽器としての限界などまるで存在しないかのように聞こえる。

当初は「メロディーが弾ける打楽器」に過ぎなかったマリンバをここまで成熟させた安倍の功績は、どれほど賞賛しようともしきれないほどの偉業である。楽器の改良に深く携わったヤマハの存在も大きいが、安倍が常にアーティストとして求めていた「マリンバのための音楽」、マリンバで演奏したい音楽をとことん追究するという強靱な信念とそれを支える意志の力、持続力と集中力──これらがあったからこそ、今日マリンバの世界が華あるものに成長したと確信している。

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2012年07月21日

『チェンバロ』久保田彰(ショパン)

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まずは単純明快に感想から述べよう。コンパクトながらも手にした時に充実した質感を感じられる、とても美しい本である。内容もこの本ならではの貴重なもので、クラシック音楽ファン、とりわけバロック音楽愛好家にとっては愛蔵して決して後悔しない、必須アイテムに匹敵する価値があるだろう。

本書はDVDブックという体裁の出版物だ。DVDと本のどちらが主体かと問えば、軍配はDVDに挙がりそうだ。しかしDVDとして製品化してしまうと、流通経路も、また製品が置かれる店も棚も書籍とはまったく異なることになる。本来のターゲットとして想定される読者層の手に届きにくくなる恐れが生じてしまうのだ。そこで生まれたアイデアが「DVDブック」という手法だった。見た目は普通の本なので、確実に書店の棚に並べてもらえるし、楽器店の書棚でも他の一般音楽書と同じ扱いになる。

手に取ればすぐわかるが、「DVDの付録がついた本」あるいは「解説書つきのDVD」といった安易なものではなく、カバーの写真、表紙の模様や見返しの色調など隅々にまで細心の配慮が行き届いた仕上がりになっている。本文のページに印刷されている豊富な写真も、美術誌と変わらぬレベルのフルカラー写真だ。「装丁にここまでこだわるか」という、まさに「チェンバロ製作者の久保田だからこそ」の意匠なのだ。

チェンバロの製作とは、木から精巧きわまりない部品を削りだし、それを組み合わせていく純粋な手作業の連続である。とても繊細な楽器で、ちょっとした湿度や室温の変化にも敏感に反応する。その瀟洒な音は、聴く人をして何世紀も前のヨーロッパを彷彿とさせ、フランス革命前の華やかなルイ王朝、そして同時代に至るヨーロッパはかくありなん、という気分を満喫させてくれよう。そんな精緻な楽器を作る職人としてのプライドとこだわりがあったからこそ生まれ得た本と受け止めた。

惜しむらくは表紙カバー背面に無粋で真四角な白抜きスペースとして配置されているISBNその他のバーコード表示である。流通管理上欠かせないアイテムなのだろうが、久保田の職人気質に応えるためにも何か別の方法はなかったのだろうか。同じ白でも、その色調やサイズにもう少し配慮できなかったものか…。

鍵盤楽器の歴史を解説したDVDは少なくない。海外で制作されたものが多いが、チェンバロは「ピアノが生まれるまで愛用されていた古楽器」というスタンスで扱われてしまい勝ちだ。そうではなく、チェンバロの前身だったプサルテリウムを出発点とし、一世の風靡を誇ったチェンバロ自体の歴史を詳しく解説し、そこから派生したフォルテピアノ(現代のグランドピアノの前身)の紹介で結末となる筋書きは、その着目点からも特筆に値するだろう。

チェンバロの醍醐味は、そのたぐいまれな音色にあるばかりでなく、目で見た美術工芸品としての価値もあなどれない。しかし最大の魅力は楽器としての音響だ。画像は印刷できても音は印刷できない。楽譜から音は想像できても、それはまだ音楽ではない。DVDの存在価値はここにある。映像の演出にも美しさを意識した工夫が凝らされている上に、普段は見ることのできないチェンバロの内部構造やアクションの動きなどが、わかりやすく解き明かされていく。演奏の専門家、音楽ファンはもとより、すべての人に喜んでもらえる本に違いない。

なお、購入時には透明フィルムで保護されているDVDだが、開封後の収納に少々不満が残る。表紙の裏に格納したつもりのDVDが、気がつかないうちにこぼれ出てしまうことがあるのだ。せっかくのディスクを紛失してしまわないよう、気をつけたい。

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2012年05月23日

『教養としてのバッハ』礒山雅・久保田慶一・佐藤真一編著(アルテスパブリッシング)

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「生涯・時代・音楽を学ぶ14講」

私が教鞭を執っている国立音楽大学には、いくつか自慢できるものがある。そのひとつは図書館だ。http://www.lib.kunitachi.ac.jp/にアクセスした後にページ下部のWebOPACというバナーを押すと、誰でも簡単に検索ができる。アジア最大の音楽関連資料数を誇る図書館で、利用してみると「こんなものまでが所蔵されているのか」と感激してしまう。

もうひとつは「音楽研究所」である。所長として任命される教授の方針によって以前は「モーツァルト研究所」、その後は「ベートーヴェン研究所」そして「バッハ研究所」といったように研究対象が推移してきた。その研究所が主導する「プロジェクト」という企画では、国立音大に所属する学生はもちろん、外部からの受講生にも広く門戸を開いた連続講座が開講されるのだ。日本におけるバッハ研究の第一人者である礒山雅教授(現在は招聘教授)が中心になって立ち上げたバッハプロジェクトは、まさに所長自身がライフワークとするフィールドに分け入る非常に充実した内容のものとなり、そのフィナーレとして2012年1月15日にはバッハの《ロ短調ミサ曲》の日本初演80周年記念コンサートが行われた。この作品には、1931年に国立音楽大学の前身である東京高等音楽院によって日本初演が行われたという経緯がある。

ロ短調ミサ曲のみならずバッハにまつわる幅広い勉強をしようという目的で、異なる領域の先生たちによってさまざまな講座が開講された。演奏に関する解釈や音楽学の領域における最新情報の確認はもとより、歴史、言語、音響学など、広い視野からバッハを見つめ直す、貴重な機会が提供された。本書はそれらの講座内容を簡潔に、わかりやすく、読みやすくまとめたものである。

内容をざっと見渡してみると「バッハを知るために押さえておくべき基礎知識」から始まって「鍵盤音楽における諸問題」や「ロ短調ミサ曲に関して」という作品自体へのアプローチ、「バッハ時代の楽器」「音響学から見たバッハ」や「バッハの音楽における革新性」といった創作活動の背後にあった状況、そればかりか「バッハの家庭に関して」「次男エマーヌエルとのこと」のようなバッハファミリーの話題、そして「バッハの時代のヨーロッパにおける政治の動向」「ルターによる宗教改革」「バッハ当時の言語と文化」「19世紀のバッハ」といったバッハ時代のヨーロッパの状況やその後のことなど「広く、浅く」ではあるものの、いろいろな知識を得られるのが嬉しい。バッハが愛した「象徴」に関する情報が含まれていないのが惜しまれるが(数字へのこだわりに関しては簡単に触れられている)、これは「ないものねだり」かもしれない。

バッハの世界は奥が深い。緻密ゆえにハードルが高そうな音楽に思えても、素直に先入観を持たずに聞いてみれば、対位法と呼ばれる作曲技法を理解できるか否かを超越してダイレクトに心に訴え、感動を呼び起こす力が並外れて大きな音楽であることがすぐわかる。そこには宗教の力も関与しているのだろうか、それとももっと別の要素によるものなのだろうか。いずれにせよ、最新の専門的かつ広範囲な知識に触れることのできる、貴重なダイジェスト版バッハ入門書である。

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2012年04月20日

『ピアニストの脳を科学する』古屋晋一(春秋社)

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「脳科学・身体運動学からひもとく、音楽する脳と身体の神秘」

ピアノストの指の動きと、それをコントロールする脳の活動の関連が、とてもわかりやすく書かれている。「練習して弾けなかったことが弾けるようになると、脳や身体はどう変わるのか」という視点からのアプローチが新鮮な、今までお目にかかれなかった内容の本である。

長年の訓練によって育成されたピアニスト特有の手指の運動は見ているだけでも華麗だが、「どのようにするとこんな神業のような動きが可能になるのだろう」という点は、多くの人にとって謎である。訓練なしに会得できない技能であることは、誰の目にも明らかだ。これに関連する研究は欧米でも行われていた。しかしその成果はごく一部の学術関係者の間で共有されているだけで一般の人に容易に理解できるようなものではなく、ましてやピアニストたちにフィードバックして役立てられるようなものでもなかった。それら先行研究の内容をふまえた上で自分自身の研究成果をまとめ、それを誰にでもわかり、楽しめ、利用できる本として集約した古屋の功績は大きい。

古屋自身も3才の頃からピアノの練習に励み、かなりのレベルまで到達した。趣味とはいえ音楽コンクールに入賞したりリサイタルを披露するなど、いわばプロ並みのピアニストだったのだ。しかしその古屋も大学時代に手を痛めてしまった。それをきっかけに「ピアノと身体の動き」に興味を持ち、自分の研究フィールドとすることになったという。いわば「医学、工学と芸術を融合させた研究(あとがきより)」というわけだが、本書にまとめられた内容は誰もが、そしてピアニスト自身もが「どうなっているのだろう」と疑問に感じていたポイントばかりである。

たとえば「楽譜を読む能力」に関して。これは暗譜のメカニズムや初見演奏の能力と深い関連がある。またピアニストの脳内には、演奏中にミスタッチを予感し、それを無意識に修正しようとする運動回路が作られているという。それ以前に「ピアニストの指はなぜあれほど速く動くのか」という素朴な疑問、日々の練習によって脳はどのように変化していくのか、また何時間でも弾き続けられるピアニストの持久力の背景には何が隠されているのか、などなど。また、ピアノの音色は変わるのか、変えるためにピアニストは身体をどう使っているのか──ひいては「演奏に感情を込めるとはどういうことなのか」ということも、脳波や筋電図(筋肉の収縮を電気的データとして読み取ったもの)が駆使された科学的なデータによって解説されていく。またそれらは決して無味乾燥な科学データの解説に終わるのではなく、古屋自身が音楽とピアノをこよなく愛する気持ちが行間からあふれ出ているのだ。

「日々の練習によって変化する脳」の究極が、最近耳にすることが多くなった「フォーカル・ジストニア」という病気の発症だ。直接生命を脅かす病ではないが、ピアニストとしての生命は断たれる危険性が極めて大きい難病である。本書にまとめられている「発症の危険因子」「治療法」「リハビリの方法」「予防」は、「脳内で何が起きているのか」がわかる、他で触れることのできないとても貴重な情報だろう。

最後になってしまったが、本の帯にも掲載されている、著者自身による前書きからの言葉を紹介しておこう。

ピアニストは、感性豊かな芸術家であるとともに、高度な身体能力を持ったアスリートであり、優れた記憶力、ハイスピードで膨大な情報を緻密に処理できる、高度な知性の持ち主です。考えてみると実に不思議な能力を持った、世にもまれな存在なのです。…本書によって、ピアニストの脳と身体のワンダーランドを、著者とともに驚きを持って旅していただければ嬉しいと思います。そして、音楽を愛する人たちが、心身に無理を強いることなく、願うとおりの音楽を真に実現できる一助となれば幸いです。

古屋のピアノへの愛が結晶となった本である。続編が待ち遠しい。

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2011年11月29日

『モーツァルトの虚実』海老澤 敏(ぺりかん社)

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日本におけるモーツァルト研究を牽引する音楽学者、海老澤敏による最新の著書である。紐解くと、冒頭には一世を風靡した映画『アマデウス』に関する話題が提供されている。この映画は私も見た。いまだに強烈な印象が残っており、それがはるかかなた、80年代の出来事だった(公開は1984年)とは信じられないぐらいである。当時はサリエーリのメイクアップの秀逸さも大きな話題になったと記憶している。

しかしこの手の映画には虚構が多い。映画としてヒットさせるため、という意図はわからないでもないが、これらすべてが史実だと信じてしまうと大変なことになる。それでも「もしかしたら」と思わせてしまうのが、良くも悪くも映像の持つ絶大な影響力だろう。『アマデウス』にも、一般的な研究成果として受容されている内容とは異なったシーンがたくさん織り込まれていた。ただし、それらは単なる荒唐無稽な作り話ではなく──信憑性の多寡はともかく──モーツァルト時代の新聞に掲載されたゴシップ記事も含め、何らかの学説や資料に由来するものとなっている。いずれにせよ、この映画をきっかけに「モーツァルト」はますます有名になり、さまざまなモーツァルトグッズが開発され、金儲けの具として展開されていったのである。

真摯な学者たちが地道な研究の成果として発表する崇高な“学説”とやらを門外漢が目にすると、学究的すぎてわけがわからないか、すなおに「すごいなあ、そうだったのか」と信用してしまうかのどちらかとなろう。ことモーツァルトにおいては後者の「誰もが興味を持つトピック」に事欠かない。中でも一般受けする話題としては「死因となった病気は何?」「妻コンスタンツェは本当に悪妻だったのか?」「埋葬に至る経緯」「モーツァルトとスカトロジー」「未完のまま終わってしまったレクイエムに関して」などが挙げられるだろう。それに加えて比較的新しい話題としては「モーツァルトのものと鑑定された頭蓋骨の真偽」「モーツァルトのものだといわれているデスマスクは本物か?」「モーツァルトの年収はどのぐらい?」「ギャンブラーとしてのモーツァルト」その他がある。

こうした疑問に関しては、多くの研究者たちによる様々な見解が発表されてきた。今までどのような論説が発表されてきたのか、それに反駁する意見にはどんなものがあり、その根拠は何か、といったモーツァルト研究の最新状況を公平かつ明解に示してくれるのが本書である。情報源となる論文や書籍の明示も、読者にとっては大変に貴重な情報だ。以前はスタンダードの必携書と思われていた伝記にさえ、史実の取り違えや著者の個人的な思い入れに由来する脚色が施されていたこともわかる。また新しい知見によって展開、あるいは訂正された研究成果について知ることができるのも嬉しい。

本書は前述の通り映画『アマデウス』がもたらした影響にまつわるプロローグとともに始まるが、その後は第1部「生」というセクションに「モーツァルト時代の“家族”」「モーツァルト家のふたりの女性、母と姉について」「モーツァルト父子がポンペイ見物に行ったという“虚構”」「コンスタンツェは悪妻か良妻か」「予約演奏会会員名簿から読み取れること」「モーツァルトの蔵書」などに関する話題が提供される。それに続く第2部「死」では「葬儀に関して」「死因に関して」「葬儀の日の天気──モーツァルト研究の大御所オットー・ヤーンの勘違い」「モーツァルトの追悼ミサ」「頭蓋骨、デスマスク、遺髪の真偽について」(以上、本書の目次そのままではない点はご了承いただきたい)が語られ、エピローグとして今後のモーツァルト研究のあるべき方向が提言されている。

400ページを超える大著であり、一見堅苦しそうな学術書に見えるが、内容は誰もが知りたいと思うような身近なものばかりである。そしてそれらが興味本位に流れることなく、第一級の研究者の手による手堅い、信頼・検証できる形でまとめられたことは大きな幸いだ。私自身は寝食もそこそこに一気に読み切ってしまった。

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2011年08月21日

『グレン・グールド 未来のピアニスト』青柳いづみこ(筑摩書房)

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グレン・グールドに関する新しい評論が上梓された。「ピアニストとして演奏活動に携わっている現役同業者の視点から見て、グールドの心理と行動を解き明かす」というユニークなアプローチで、同じくピアノ演奏を生業としている私にとっても、とても興味深い内容だった。

グールドは1932年、トロントで生まれたカナダのピアニストだ。一発勝負が求められるコンサートステージ上での演奏活動を拒否し、スタジオで録音することのみに自分の活動を限定していったという、当時一般には不可解な行動は、演奏家のあり方を考える上で大きな波紋を生じさせ、さまざまな評論や研究の題材として扱われてきた。このようにグールドは今なお生々しく迫り、話題の中心となるパワーを内包しているユニークな存在ではあるが、換算してみれば昭和7年生まれ。もし生きていれば来年80歳だ。いろいろな意味で感慨深い…。

さて、本書では青柳が我が身を削るようにして経験してきたピアニストならではの心理をグールドに投影し、グールドの本心はどうだったのか、何がグールドをしてあの道を選択させるに至ったか、録音作業に携わっている時の心情はどうだったか、といったさまざまな話題が生き生きと語られている。「そうかもしれないな」どころか「そうだったのか」と思わず納得させられてしまいそうなスリルが読んでいて心地よいが、グールドの本心は誰にもわからない謎のままだ。

20世紀に活躍していたアーティストの中で、これほどさまざまな視点から語られる人物がいただろうか。従来のグールドに関する重要な評論はすべて演奏家ではない人による著述だった。人前で演奏するプレッシャーは、実際に経験してみないとわからないものだ。スポーツの選手も同じだが、「1回限り」というところに大きなチャレンジがある。またレベルが上がれば上がるほどプレッシャーも大きくなるのは、音楽、スポーツとも同様だ。地元のアマチュアオーケストラと協奏曲を演じるのと、同じ作品をベルリンフィルと演じるのとでは、曲の難易度や演奏のテンポは同じでも精神的プレッシャーは比較にならない。河川敷の野球場での草野球と大リーグの試合との差も、そんなものだろう。

だが、同じアーティストでも画家や彫刻家は違う。落ち着いて修正を加えていくことによって、より完璧なものが熟成されていく。コンサートステージでの一発勝負とはまったく違う世界に生きているのだ。青柳は「グールドは演奏家として、それを試したかったのかも知れない」と指摘している。それだけではなかったろう。でも、それもあったに違いない。

本書を読んで感じたのは「ステージからドロップアウトしたグールド」のユニークさ以上に「ステージで活躍していたグールドの魅力」だ。ここが従来の評論との大きな差かも知れない。以前は知られていなかったグールドのライヴ演奏の姿を、最近ではさまざまな音源を通じて楽しめるようになった。青柳によると、そこから浮かび上がるコンサートピアニストとしてのグールドの力量は、生半可なものではないという。ユーチューブにもかなりのものがアップロードされているが、巻末の音源リストも、グールドファンにとって貴重な価値ある資料として使えるに違いない。

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2011年07月18日

『ピアノと仲良くなれるテクニック講座』パスカル・ドゥヴァイヨン(村田理夏子訳、音楽之友社)

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ピアノの演奏テクニック関連の本は数多い。書き下ろしの解説書や海外の書籍の訳本、そして本書のように音楽月刊誌における連載がまとめられた体裁のものも少なくない。いずれにせよこうした本の読者たちは向上心旺盛で「何かを得よう」という前向きな気持ちに満ちているに違いない。

しかし現実は厳しい。正直、もどかしいのだ。それもそのはず、読者が知りたいのは音のイメージに関すること、そのイメージを具現するために必要な体の使い方や感覚などなど、本来文字では説明困難なことばかりである。

誰にでもわかる例を挙げてみよう。まだ自転車に乗れない人に「どうやったら自転車にまたがってバランスをとり、カーブを曲がれるのか」を、スケート靴を履いたことのない人に「後ろ向きに滑るコツ」を、あるいは出産の痛みを男に言葉で説明することなどは、どれも簡単ではない。絵や写真を併用しても大きな助けにはならない。できる人、経験のある人にとっては「あ、あれね」と瞬時に共感できる普遍的な感覚なのに、それがわかってもらえないのは隔靴掻痒、ふがいなく、せつない。

「ピアノの弾き方を言葉で説明する」とは、そのように極めて困難な課題なのだ。できない人にはいくら言葉をつくしてもなかなか伝わらないが、すでにできる人にとってはまどろっこしい説明でしかない。しかしドゥヴァイヨン(筆者の長年の友人でもあり、以下はパスカルと呼ばせていただく)による解説はひとつずつ順を追って丁寧に整理されており、明瞭かつ明解だ。「ここまでしないとわからない人って、果たしてピアノに向いているのだろうか…」と心配になってしまうほどである。

ところで本書には独特の味わいがある。読んでいるとパスカルの人柄やしゃべり方が、ひしひしと伝わってくるのだ。あたかもマンツーマンで教えてもらっているように感じられる。事態が深刻になり過ぎないようにジョークっぽい比喩を多用するのはパスカルの癖である。食事中に音楽とはまったく無関係な話をしている時も、同じようなしゃべり方をする。一歩間違うと「はぐらかし」にもなってしまいそうな語り口が、逆に生き生きとした説得力となって伝わるのは、翻訳を担当したピアニスト村田の功績に負うところが大きい。

本書にしたためられている内容に関しては、同業者として躊躇なく太鼓判を押せる。究極の真実に迫るためのアプローチは正にパスカル流で、これこそが本書最大の価値である。上述「自転車の乗り方」に関しても、さまざまなアプローチと解説の仕方があろう。目的とするところ──人並みに自転車に乗れること──はひとつでも、そこに至る道は1本ではない。それぞれの人が「腑に落ちる」説明を得たときに、目からウロコが落ちるのだ。この楽しい本が、一人でも多くの人の目からウロコが落ちるきっかけとなるよう祈っている。それにはまず「読んでみる」ことが欠かせない。「ピアノの弾き方ぐらいはわかっている」と信じておられる諸先生方にとっても「こんな説明の方法があったのか」という発見につながれば幸いである。

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2011年02月24日

『演奏者勝利学 実践ノート』辻秀一(ヤマハムックシリーズ90)

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「ベストパフォーマンスを引き出すために」

2009年9月に紹介した『演奏者勝利学』はその後も順調に売上を伸ばし、楽器店の書棚に欠かせない存在となっているようだ。その続編として『演奏者勝利学実践ノート』という冊子が出版された。両冊をまとめて目立つところにレイアウトしている楽器店も多く、まさに“旬”の書籍となっている。

本書は「いかにして知識を実践に発展させるか」という、メンタルトレーニングが抱える課題をサポートするために上梓された。コーチングに限らず、「こうやれば解決できますよ」という知識が提示され、読者がそれに納得できた瞬間、読者の脳裏に浮かぶのは「いざとなったらそうしよう」という安心感だ。目の前に横たわっているメンタルの問題を解決するためには、自分の生活パターンを多かれ少なかれ変える必要がある。変えるにはそれなりの意志力が必要な上に、それを継続するのはもっと大変だ。改善の余地はあれど、今のままでも何とかなっている──のであれば、凡人の考えることはみな同じ。「明日からやろう」である。

その解決策として提供されているのが、本書の随所にある「自由記入欄」だ。質問に対する答えを、自分で書き込んでいくスペースが準備されている。感想や疑問を書き込むことによって、自分の現状がより具体的かつ客観的に把握できる。これは行動を喚起するためのきっかけ作りとして役立つだろう。私自身は「本に直接書き込む」ことには少々抵抗を覚える人間だが、書き込みながら本の内容を咀嚼していくのも、ひとつの読書法に違いない。1冊の本をぼろぼろになるまで使い込むのも、大きな快感だ。

であれば、いっそのこと解説の部分にもアンダーラインを引いたり、クエスチョンマークをつけたり、自分の気持ちをどんどん加筆していこうではないか。そうすることによって内容がさらに自分の血となり肉となり、この本がパーソナルな蔵書として手放せないものになっていくだろう。そうした観点からは、この『実践ノート』の方が前著『演奏者勝利学』よりも、メンタルトレーニングのキーワードとなる事象が、さらにすっきり整理されていてありがたい。

さまざまな条件や環境から、辻みずからが指導する講座を実際に受講できる人は限られているだろう。私は幸いその機会に恵まれてきたが、その私にとっての本書は「受講してきた講座内容の総集編」として価値あるものだ。講義のたびにメモしてきたポイントが、整然とまとめられている。この『実践ノート』を熟読し、自由に書き込むことによっても、受講したと同等、あるいはそれ以上の効用を得られそうだ。巻末に掲載されている私のインタビュー記事も、参考になれば幸いである。

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2010年12月21日

『倍音』中村明一(春秋社)

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「音・ことば・身体の文化誌」

2006年7月のブログで紹介した『「密息」で身体が変わる』の著者、中村明一が新著『倍音』を上梓した。人間同士のコミュニケーション手段として欠かすことのできない「音」の倍音構成をもとに考察された文化論が展開されている…──と紹介すると、堅苦しい印象になってしまうが、そうではない。本書は日本と西欧の文化の違いを「倍音」というユニークな視点からとらえた、とても新鮮で読みやすい本である。著者は国際的に活躍中の尺八奏者だが、尺八という純日本的な楽器に習熟しているからこそ感づいたことに違いない。それを単なる感覚・感想として放置せず、誰もが納得できるような論理的検証を伴った形でまとめあげたのだ。

倍音とは自然界に存在するほとんどすべての音に含まれている成分だ。高周波の、平たく言えば「高い音」である。倍音の発生源となる音は「基音」と呼ばれる。機械を使えば基音のみの音を作るのは簡単だが、情緒のかけらもない無粋な響きで、いわゆる「コンピューターで合成した音」そのものだ。基音を軸にして発生する倍音の中には、あまりに高くて人間の聴覚では聞きとれないものも多々あるが、最近の研究では「たとえ耳では聞こえなくても肌で感じている」という。CDをはじめ音がデジタル処理されるようになってから、この「聞こえない倍音」は人為的にカットされるようになったが、その影響は思ったより大きいのかも知れない。

倍音の高さ、配分、強さなどによって「音色」が劇的に変化する。そしてまた「人の心に訴える力」も変わるのだ。この倍音には「整次数倍音」と「非整次数倍音」があり、中でも「非整次数倍音」の多寡が人の感覚に大きな影響を及ぼしているのだそうだ。一般的には「さしすせそ系」の、たとえばシャーシャーとかシューシューなどといった音に、より多くの非整次数倍音が含まれている。これこそが日本の文化には欠かせない“きも”なのだ。風の音や小川のせせらぎ、虫の鳴き声などに独特の風情を感じとってきた日本人の感性は、同じ要素を楽器に、そして音楽にも求めてきた。他方、西洋音楽の響きは整次数倍音が中心となっているのだそうだ。本来の日本人の琴線には触れにくい、なじみの薄いものだったのだ。

どちらが良い、悪い、あるいは優れている、劣っている、という比較をするのではない。倍音が人の感覚や感情にどのような影響を及ぼすか、どんな印象となるかが、楽器のみならず森進一や美空ひばりなどの声も引き合いにわかりやすく説明されている。響きにくく、反射の少ない日本の音響環境、そしてそこに育った日本の音楽と、教会の中のように残響の多さが特徴の西欧の音響環境とそこに育った音楽とは、根本的に方向が違うものだったのだ。そこに気がつくことによって、今までないがしろにされてきた日本の伝統音楽にもっと興味を持つ人が増えるのであれば、何よりも喜ばしい。

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2010年10月23日

『音楽用語ものしり事典』久保田慶一(アルテスパブリッシング)

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前回にひきつづき、音楽界で使われる言葉に関する書籍をもう1冊紹介したい。関の『ひと目で納得! 音楽用語事典』が演奏者や指導者をターゲットにしぼり、自身の表現をより豊かに、きめ細かく構成するために役立つ参考書なのに対し、久保田の著書はひと味違ったアプローチでまとめられている。確かに楽語の解説書ではあるのだが、まっとうな音楽事典では到底お目にかかれない知識が得られる、「雑学の宝庫」としてもおおいに価値のある本だ。

本書第1ページ「はじめに」でまず遭遇するのが、「長調」と「アルミニウム」と「ジュラルミン」の相互関係だ。説明されてみれば納得するが、そう簡単に思いつける視点ではない。久保田流の真骨頂だろう。

誰でも知っている「ドレミファソラシド」の由来も48ページ以降に述べられているが、「ほお、そうだったのか」というさわやかな新鮮さを感じる。

ソプラノ、アルト、テノール、バスというと歌手の声や楽器の音域の違いによってつけられる名称だが、「どのような経緯でそうした名前が生まれるに至ったか」という由来に関する記述には、私もこの本ではじめて巡り会った(p.110〜)。

コンチェルトconcertoとコンサートconcertは、単語のスペルとしては末尾にoがつくかつかないかの差でしかないが、それらの用法は大きく異なる。しかし言語のルーツにおける共通性に気がつかされてみると、「なるほど」と思うのだった(p.95-6/158-9)。

現在音源として一般的なメディアであるCDがコンパクト・ディスクの略称であることはあらためて指摘するまでもないが、映像が簡単に楽しめるDVDがデジタル・ビデオ・ディスク「ではない」ことはご存じだっただろうか。これに関する正解、またCD以前に一世を風靡したSPやLPの詳細に関しては、本書162〜163ページを参照すればすぐわかる。

このような雑学を知っているのと知らないのでは、音楽の楽しみ方に大きな差が出てくるだろう。大学の学生たちは、久保田の授業をさぞ楽しみにしているに違いない。

「どうでも良いこと」を甘く見てはいけない。知っているだけで、音楽に関する会話が豊かになる。他人のまだ知らない話題をストックしていることは、社交術のかなめである。この本によってプロの専門家はもとより、専門家以上にくわしい“おたく”音楽ファンの人も知らない話題をたくさん仕込むことができそうなのが嬉しい。ただ、「事典」としての体裁を整える必要から「関連用語をそれなりに列記する」という作業を避けることができず、いきおい「とっておきの話題」がとびとびになってしまったのが惜しまれる。それでも一読の価値ありのユニークな内容の本としてお薦めしたい。

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2010年09月30日

『ひと目で納得! 音楽用語事典』関孝弘 ラーゴ・マリアンジェラ(全音楽譜出版社)

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音楽書籍の中では常に売れ筋上位にランキングされている『これで納得!よくわかる音楽用語のはなし』(2006年9月の書評で紹介)の姉妹版が登場した。「これで納得!」が「ひと目で納得!」になったところからも想像できるように、新著では見開き2ページで大切な音楽用語をチェックできるように工夫されている。左側にはキムラみのるによるかわいいイラストがページいっぱいに配置され、楽しい絵本のような装丁だ。右ページには用語解説とはひと味違った、軽妙なエピソードを交えた「お話」が掲載されており、これを読んであげればイラストとの相乗効果で、小さな子供でも言葉のイメージを楽しめるに違いない。項目はぜんぶで73。複数の用語がセットになっている項目もあるので、実際に触れることができる単語の数はもう少し多い。アルファベット順に並べられ、ページ端には辞書でおなじみのインデックスもつけられているので、捜したい単語もすぐに見つかる。いずれにせよ、ふだんのレッスンで使われる用語はほぼカバーされているといって良いだろう。

日本人には、こと外国語となると「きちんと対訳しないとなかなか頭に入らない」という傾向がある。フィーリングで記憶するのが苦手で、それぞれの単語に対応する概念が具体的でないと気分がすっきり落ちつかないのだ。それはそれで必ずしも悪いことではないのだが、いつまでたっても外国語が苦手な人が多いのは、そのためだろう。

外国語にはそのまま日本語に一発変換できない概念がたくさんある。たとえば英語のtakeもそのひとつだ。日常会話でしょっちゅう使われる単語だが、さまざまなニュアンスに変化する。“Take care!”と声をかけられると“Thanks!”という言葉が出てくる前に「careをtakeするとはどういうことか」と一瞬考えてしまうからだめなのだ。基礎単語の使い回しが悲しいほどへたなのが一般の日本人。度胸さえあれば中学1年生の英語の教科書に出てくる語彙だけでも実にたくさんのことを表現できるのに、もったいない。

音楽はまさに「フィーリング命」の世界だ。四拍子と三拍子の違いを理解しているからピアノが上手なのではない。そこにビートを感じられるか、ワルツのリズムで心がウキウキしてくるか、というところが原点なのだ。そのフィーリングをさらにきめこまかく伝えてくれるのが、作曲家が書いたさまざまな指示だ。これらの楽語の「訳語を知っている」のではなく「ニュアンスを感じられる」ことが魅力的な演奏への入口だ。「フォルテだから大きく」「スタッカートだから短く」で満足してしまうのではなく「どんなフォルテ?」「どんなスタッカート?」という疑問が自動的に思い浮かぶ思考回路を開発しよう。大きいだけ、短いだけなら猿でもできる。その先の一歩を踏み込むことによって、音楽の世界がとつぜんフルカラーで感じられるようになるはずだ。そこへの具体的アプローチが本書のページ右下の「演奏アドバイス」でもある。こういうアドバイスがごく当たり前に感じられるようになった時には、音楽を自分の言葉として自由自在にあやつれているに違いない。

音楽用語の基本はイタリア語。イタリアンレストランの食べ物を思い浮かべてみよう。あの彩り、あの味付け。どんな調味料を使ってどう料理するとこんなにおいしくなるかが知りたくなる。単に「塩と油を入れます」だけであの絶妙な風味は生まれない。ポイントは「いつ、何を、どのぐらい?」なのだ。音楽の風味がわかるようになるための用語事典。音楽の勉強中ならぜひ手許に置いておきたい一冊である。

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2010年07月21日

『ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール』吉原真里(アルテスパブリッシング)

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「市民が育む芸術イヴェント」

毎年世界各地で若いピアニストの登竜門となる、大小さまざまなピアノコンクールが開催されている。しかし数の多さが災いし、たとえ上位入賞しても、それがプロのピアニストとしてのスタートに必要な「ピアニストとしての知名度」につながるケースは思ったより少ない。そのため「プロとしてのデビューに直結するコンクール」が求められるようになった。「プロとして通用する」ということは、本人の実力もさることながら、メディアを介して広く一般の人々に自分の名と評価を知ってもらう、ということでもある。「世界に向かってアピールさせる」のであれば、そのための仕掛けは緻密かつ大規模な、経費もかかる一大イベントとならざるを得ない。日本人が優秀な成績をおさめた場合にNHKの全国放送でも報道される海外の音楽コンクールと言えば、ワルシャワで開催されるショパンコンクールやモスクワを舞台に行われるチャイコフスキーコンクールあたりだろうか。

そんな状況の中、2009年5月から6月にかけてテキサス州のフォート・ワースで第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールが開催された。このコンクールは4年に1回のサイクルで開催されるが、「プロデビューが約束される」コンクールの中でもトップレベルのもののひとつで、要求される技量も生半可ではない。今まで日本で報道されてこなかったのは、日本人が上位入賞しなかったからに過ぎない。ここで今回、見事一位の栄冠を勝ち取ったのが弱冠20歳(当時)の辻井伸行だ。日本人が優勝したのも初めてだったし、視力にハンディキャップがあるにもかかわらずの快挙ということで(辻井は全盲である)、日本でも大きく報道された。余談になるが、このビッグニュースが報道されてから半年経過した今年2月に行われた全国の音楽大学の受験者数は、ほぼすべての大学で前年比減だったのに対して、唯一辻井の在籍している某大学だけは前年比増だったという。

「ピアノコンクールの現場とはどのようなものか、どんな判断基準で評価され、それらにはどのような意味があるのか」などといったことは、業界関係者をはじめ、将来は演奏家たらんとして日夜切磋琢磨しているアーティスト志望の若者以外にはわかりづらいだろう。日本には日本の風土に合った「お勉強の役に立つコンクール」とでも言うべきジャンルのイベントがある。夏休みを利用して行われるもの、また四季折々さまざまなタイミングで開催される単発のオーディションや「持ち曲1曲だけでも参加できるコンクール」など、その形態やレベルは千差万別だが、これらをトップレベルの国際コンクールと同列に論じることはできない。

すでに述べた通り、ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールはプロのソリストとしてデビューするためのコンクールだ。1位にならずとも、40名中6名のファイナリストとして選ばれただけでマネージャーとの契約が約束され、コンクール終了直後からピアニストとしての人生をスタートさせることになる。このコンクールのファイナリストたちが得る賞金も1〜3位は2万ドル、4〜6位は1万ドルと、これまたクラシック音楽のコンクールの中では群を抜いて高額だが、それよりもその後3年間に提供される数多くのコンサートの方に価値がある。しかし入賞者の新進ピアニストとしての賞味期限は、さし当たっては次回の優勝者が出るまでだ。その後も生き残れるかどうかは、本人の運と実力とに託されている。

コンクールの歴史、音楽ビジネスでは何が求められているのか、何がどのように運営されているのか、そして実際のコンクールにおけるさまざまなシーンに加え、出場者や審査員、またボランティアも含めた主催者側のスタッフたちへのインタビューその他さまざまな視点から構成された本書は、成功を夢みる若者たちが直面している現実を垣間見せてくれる。一握りのスターが誕生する裏に、どれほどのエネルギーが渦巻いているかをのぞくことは、音楽関係者に限らず、誰にとっても新鮮な体験となろう。特異な世界のことをきめ細かく、かつわかりやすく構築した吉原の生き生きとした執筆力は賞賛に値する。

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2010年05月29日

『ピアノ大陸ヨーロッパ』西原稔(アルテスパブリッシング)

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すでにこのブログで紹介した『クラシックでわかる世界史』『新編 音楽家の社会史』の著者である西原稔による新刊『ピアノ大陸ヨーロッパ』がおもしろい。西原は18、19世紀を対象とする音楽社会史や音楽思想史の専門家だ。本書も19世紀におけるピアノ音楽の状況が柱になっている。ベートーヴェン以降の「ロマン派」としてくくられる時代のお話だ。

バッハやモーツァルトたちが活躍したバロックから古典派の時代、人前で演奏される作品は常に最先端の前衛音楽だった。今ではクラシックの名曲として愛されるベートーヴェンの月光ソナタにしても、その当時は斬新な試み満載の最新作だったのだ。タイトルとして明記された「幻想曲風ソナタ」というジャンルも初物ならば、ソナタの冒頭にソナタ形式以外の楽章を置くのも極めて珍しいことだったし、現代ピアノに標準装備されているペダルの前身である“膝レバー”を押し上げることによって得られる“ペダル効果”を活用する「混沌とまざり合った音響で弾くべし」という指定も、ベートーヴェンならではだ。そしてこうした最新鋭の音楽を享受できるのも、王侯貴族といった人々に限られていた。

ベートーヴェンが亡くなったのは1827年だ。19世紀初頭である。その後のいわゆる「ロマン派の時代」には、音楽の環境も大きく変化した。たとえばこの時代になってはじめて、今日われわれが言うところの「クラシック音楽を楽しむ」習慣が芽生えたことがあげられよう。創作されたばかりの最新作ではなく、昔の名曲が掘り起こされ、再演されるようになったのだ。忘れかけられていたバッハのリバイバルも、こうして起きた。

そしてもうひとつ、音楽を享受する人々の層がぐっと広がったのだ。支配者層だけではなく、裕福な市民の楽しみとして、音楽は広く浸透していった。聴くばかりでなく、弾く楽しみも一般的になる。そこで大きな役割を果たしたのが、ピアノの存在だ。大量生産を通じて値段もさがり、爆発的に売れたのだ。儲けたのはピアノメーカーばかりでない。出版社、作曲家、ピアノ教師などさまざまな職種の人々が相乗効果によって勢いを得た。こうして音楽の世界はいっきに活性化されたのだ。

しかしあまりに急激な変化だったため、今から当時をふり返ろうとしても把握しきれない闇の部分が生じてしまった。18世紀よりも19世紀の方が時期的に私たちの時代に近いにもかかわらず、その研究はより困難となっている。どんな作品が好まれ、誰が何を出版したかに関しても「新作が生まれ、もてはやされ、やがて忘却の彼方へ葬られる」という、現代の流行歌の盛衰にも似た激しい新陳代謝にはばまれて、失われてしまった資料が多いのだ。

そんな19世紀の波瀾万丈に光を当てたのが本書である。良く整理されており、この時代をターゲットとして考えている研究家志望の若者にも貴重な一冊だ。たくさんの作曲家が登場するが、初めて出会う名前も多いだろう。本書を通じて、まだまだあるに違いない“埋もれた名曲”に巡り会えうことができれば幸いだ。

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2010年03月25日

『ピアノ教室パワーアップ大作戦』(ヤマハムックシリーズ41)
『生徒を伸ばす! ピアノレッスン大研究 』(ヤマハムックシリーズ44)

ピアノ教室パワーアップ大作戦
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生徒を伸ばす! ピアノレッスン大研究
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「自分のピアノ教室をレベルアップしたい先生へ」

子供のお稽古事のひとつとして、ピアノのレッスンは常に人気が高い。聴覚の発達を意識した早期教育として、保育園の年頃からレッスンを開始するのも決して珍しいことではない。ピアノ教室通いは中学生以降、受験勉強や部活の忙しさが加わるなどして挫折し勝ちだが、音楽大学をめざすなど、専門のコースに進む場合もあるだろう。また、カラオケで熱唱するのに飽きたらず、「何か楽器が弾けたら」と夢みる大人も多い。そんな時、ピアノは選択肢として必ず頭に浮かぶ楽器のひとつだろう。

このようにさまざまな目的とレベルのレッスン生を指導しなければならないのが、街のピアノの先生だ。ふつうは音大のピアノ科の卒業生が自宅で教室を開いたり、あるいは楽器店が経営するピアノ教室の講師になって経験を積んでいく。この段になって初めて「先生としての苦労」を身にしみて感じ、「ああ、学生の時もっとまじめに勉強しておくのだった〜」と悔やんでも時すでに遅し。あとは試行錯誤を通じて自助努力するしかない。ほとんどの場合は自分の来た道をふり返り、今まで師事してきた先生の真似をしていくことになる。しかし、今まで師事した先生の顔を思い出してみれば、ピアノレッスンに関しては数人、あるいはたったひとり、という場合もあろう。ケーススタディをしようにも、サンプル数が少なすぎるのだ。かといって、どこかの教室を見学させてもらうのも簡単ではない。

昭和の頃は子供も多かったし、ピアノ教室は、開けば何とかなったものである。たとえピアノ科を出ていなくても、音大卒でさえあれば自分の専門が歌であろうとフルートであろうとピアノの生徒が集まってきた、という嘘のような時代もあった。サッカーのコーチにゴルフを教わりに行くようなものだ。しかし平成となった今、少子化の影響で若い生徒の数は減っている。他方、趣味で始める大人の生徒は増えているが、目的意識がはっきりした生徒たちの要求レベルは高く、それにきっちり対応するには、それなりの勉強と経験が必要になってくる。

「どんなレッスンをしたらいいのだろう」「他の先生たちはどのように教えているのかな」「教室の経営に必要なものは何か」「発表会を企画する時の注意点は?」「保護者への対応はどうするの?」「教材の著作権?」「確定申告??」といった疑問が浮かんだときに、まず読んでみてはどうだろう。実は全日本ピアノ指導者協会(通称ピティナ)という団体から2年ほど前に『ピアノ指導者のための教室運営ガイド』というユニークなガイドブックが発行されていた。そろそろ完売のようで入手困難になりつつあるが、これに代わるガイドとして紹介したい。マニュアルとしても使えるが、それよりもまずは目を通してみてたくさんのキーワードに触れ、「そんな方法もあったのか」と前向きに成長していくためのカンフル剤となれば、と思う。この本で紹介されているトップレベルの先生たちもみな「第一歩」から始めたのだ。恐れるものは何もない。

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2010年02月25日

『挑戦するピアニスト──独学の流儀』金子一朗(春秋社)

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「どう練習したら上達するのか悩んでいるピアノ学習者のために」

著者の金子はピアニストとして活躍中だ。デビューは2005年、彼が40代になってからで、年齢的にはかなり遅かった。しかしデビュー後の演奏は多くの人を魅了し続け、ファンの数も半端ではない。中でもドビュッシーは金子のレパートリーの核となるもので、CDもリリースされている。

ところで金子の本職は、驚くなかれ、数学の教諭なのだ。中高一貫の某超有名普通校で教鞭を執っている。出身も早稲田大学理工学部数学科で、音楽大学ではない。海外留学経験もない。この経歴と、彼が数学の先生としての多忙な現職を放棄することなくコンサートピアニストという二足目の草鞋を履き、現に大活躍中であるという事実には、大きな戸惑いを覚えてしまう。

数学でメシを食っている金子が余暇の趣味としてピアノを楽しんでいる、というならば、どこにでもある話だ。世間では「アマチュアなのに、プロはだしの腕前なんだよ」というケースも珍しくないだろう。しかし「プロはだしの腕前」と「プロとして通用する腕前」の間にはとてつもなく大きな差がある。金子はそれをどのようにクリアしたのか──その秘密がこの本に書かれているのだ。「少年時代はピアノとどんなかかわりを持って育ち、それがいかなるきっかけでプロデビューに至ったか」という物語も、自身の言葉で綴られている。

小中学生を多く教えているピアノの先生方と話していると「算数ができない子はピアノもぱっとしない」あるいは「ピアノが上手な子は学校の成績も優秀であることが多い」としばしば耳にする。もちろん例外もたくさんあるだろうが「ある程度の分析力がないと、ピアノのように複雑な動作を要求され、音楽自体も入り組んだ構造になっているものを扱うのに苦労することがある」という論理には、それなりの説得力がある。音楽は決して直感だけに依存して作られるものではなく、その構造をきちんと理解し、把握することなくしては、説得力のある演奏はできない。

「右脳と左脳」という概念がしばしば話題にされる。人間の脳はその部位によってさまざまな役割をこなしていくが、右脳はどちらかというと直感と結びつく機能を分担し、左脳は分析をベースにした作業に長けている、というものだ。その観点からとらえれば、金子が日常行っている音楽へのアプローチや練習方法は、左脳を中心にしたシステムとして構築されているように見受けられる。まさに数学の専門家ならではだ。その方法論は、多くのピアノ学習者にさまざまな刺激とヒントを与えてくれるだろう。「何が問題かを的確に把握した上で、それを順序立てて解決すれば、制約された時間の中でもここまで効果的に練習できるんだ」という驚きも覚えるに違いない。さて、あなたの左脳の性能は?

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2010年01月25日

『正しい楽譜の読み方 バッハからシューベルトまで』大島富士子(現代ギター社)

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「ウィーン音楽大学インゴマー・ライナー教授の講義ノート」

日本で楽譜と言えば、まず五線譜が思い浮かぶだろう。「オタマジャクシは苦手でして…」と敬遠する人も少なくない。慣れないうちはとまどうものの、親しんでみれば実に良くできた便利なシステムだ。しかし半音以下に細分される音程や微妙なリズムのニュアンスなどは表示できないので、日本古来の音楽の採譜には適さない。謡曲や雅楽などは、何とか五線の楽譜に変換してもその繊細さが伝わってこないのだ。

慣れれば便利な五線譜だが、数世紀にわたる時の流れの中、常にその表記ルールが不変だったわけではない。線の数がもっと多かった時代もあったし、音符の種類もさまざまだった。18世紀以降に思いを馳せれば、西洋音楽自体のスタイルがバロックから古典、そしてロマン派へと変化したのと並行して、楽譜が楽譜として担うべき情報の量や質も変わっていった。見た目は同じでも、そこに書かれていることの意味が違うことがあるのだ。おしなべて古いものの方がわかりづらい。同じ日本語でも万葉集と俵万智の短歌では、読者のアプローチが違うのと同じである。

創作当時は当たり前だったいろいろな約束事も、それに関する情報が失われてしまえばお手上げだ。「完成された楽譜があるのだから、その通りに演奏すれば解決するはずだ」というほど単純ではない。たとえばその曲の速さ。19世紀以降の楽譜にはメトロノームという装置で計測した客観的な数値も必要に応じて記載されるようになったが、それ以前の時代ではごくおおざっぱな表情指示しか行われなかった。もう少し前の時代になると、それすらも書かれていない。

それでもその速さを読み取ることができるのだ。古い時代の楽譜には手がかりが残されている。それがどこにどういう形で残されており、どう考えれば良いかを本書は解き明かしてくれる。専門的な分野だし、現在クラシック音楽の専門家として活躍している人の中でも、こうしたことを知っている人はほんの一握りだろう。一般の音楽大学の授業では扱いにくく、指導できる人はほとんどおらず、いきおい教わる機会もないままで終わってしまう。本当はとても大切なことなのに──そんな状況への福音となる本かもしれない。

著者の大島はウィーンでピアノと歌を学んだが、古楽といわれる分野の作品演奏を通じてこうした知識の必要性を痛感し、自ら研究するようになった。その際の師となったウィーン音楽大学のライナー教授の講義をわかりやすくまとめたものが本書である。学術書にありがちな「である調」の紋切り型ではなく、親切な家庭教師が一対一で語りかけてくれるような暖かい日本語が心地よい。ただし、一回読んだだけではおそらく「?」となるだろう。めげずに何回も読み直してほしい。本文は70ページ弱だ。読み返すたびに少しずつ霧が晴れてくるタイプの「読書を通じて知る喜び」も体験できるに違いない。「バロックはどう扱って良いかわからない。古典派も難解だ」と思い込んでいる演奏家にとって、その悩みから抜け出すひとつのきっかけになれば、と願っている。

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2009年10月25日

『石を聞く肖像』木之下晃(飛鳥新社)

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おもしろい本に出会った。写真集だ。世界的に活躍している200人の音楽家のポートレートである。撮影は木之下晃。音楽家の撮影においては誰もが一目を置く写真家だ。1984年から85年にかけて小学館より出版された『世界の音楽家』という全3巻のシリーズは大評判となり、“音楽家を撮る”木之下の名前を不動のものにした。といっても近寄りがたいような雰囲気はまったく見せず、とても気さくで飄々とした人柄だ。(『世界の音楽家』は現在『『マエストロ 世界の音楽家─木之下晃作品集』全1巻として小学館より出版されている。)

今回の写真集では、すべてのシーンに同じ石が登場する。白く、鶏卵よりは大きいが手のひらで包めるし、口にもくわえられるサイズだ。上から見ると78mm×44mmあり、重さは160g。この石は木之下が1974年5月3日に相模川上流の水無川で家族とバーベキューを楽しんでいる時に、河原で偶然見つけたものだそうだ。写真家に拾われたことがこの石の運命を変えた。とりあえずは17年あまりの長きにわたって木之下の机上に置かれかたままだったが、1991年に初めて写真撮影の小道具として木之下の作品に登場することになった。その後、撮りたい、と思ったアーティストに「この石を見て感じたことをカメラの前で表現して下さい」とアプローチしつづけて18年。折に触れて撮りためられた写真が、このたび写真集としてまとまったのである。

巻末のインタビュー(p.423)で木之下は語る。「この石はほんとに不思議な石ですね。やっぱり私は天から降ってきたのだと思っています。丸くて、ただの普通の石なのですよ。でも見る人によって卵に見えたり、いろんなものに見えるわけで、だから食べちゃう人もいるわけ。もうちょっと違う石だったら、こういうことはできなかったと思います。」対談相手であり、本書の編集に携わった大原哲夫が「この“石”はもう世界中、どこにもない石ですね。世界のマエストロたちにこれだけ、さわられ、頬ずりされ、囓られ、投げあげられた石はほかにはありません。天然記念物にしてもいいような石ですね(笑)」と受けるが、木之下も「この“石”を多くのマエストロたちが直接持ったことで、まちがいなく石がエネルギーを持ったと思います。世界の一流の芸術家が、これだけ次々とかかわったことで不思議なパワーが石に入り込んだんですね」と応じる。

写真はすべてアナログのモノクロ写真だ。グレーの階調にえもいわれぬ柔らかさがある。それぞれのアーティストがその石を好きなように扱い、そのシーンが撮影されていく。何気ない仕草のショットでも、その人の深い内面があらわされているように感じる。手に持つ人、口を使う人、頭に乗せる人、足で挟む人…、その行動は千差万別だ。見開きページの右側に写真が掲載されているが、左側には写真のイメージの糸口ともなる見出しの一行とともに、アーティストの簡単な略歴、および木之下による撮影時の思い出が書かれている。たった数行の思い出だが、実に印象深い。

1ページずつゆったりと繰り、アーティストの声や人となりを想像し、木之下のコメントを楽しむ。休暇の日の昼下がり、革張りのソファにゆったりと身を委ね、かぐわしいコーヒーの香りとともにゆっくり流れる時間を楽しむ──そんなシーンに似合いそうな一冊だ。

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2009年09月26日

『演奏者勝利学』辻秀一(ヤマハミュージックメディア)

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「演奏家のためのメンタル・トレーニング」

同じ著者が執筆した『新「根性」論』という新書を今年6月のブログで紹介したばかりだが、読者ターゲットを音楽家に絞り込んだ、読みやすく楽しい本が出版されたので、重ねてご紹介したい。題して『演奏者勝利学』。本来芸術の世界に“勝ち負け”は似合わないが、こと音楽に関して最近はコンクールの話題も目にすることが多くなった。今年5月から6月にかけてテキサスで行われた第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンペティションという世界的にも高い難易度を誇るコンクールで見事優勝を果たした盲目のピアニスト辻井伸行君のことなどは、まだ記憶に新しい。

著者の辻は『スラムダンク勝利学』を皮切りに『風の大地 人生勝利学』『親と子の受験勝利学』など「勝利学シリーズ」となる本を複数上梓しており、その流れで本書にも同じ名前がつけられたようだ。しかしこれは音楽で人に勝つための指導書ではない。自分に負けない、つまりストレスに屈することなく自己のベストパフォーマンスを披露できるようになるために役立つ数多くの秘策がに触れることができる“虎の巻”なのだ。

ステージ上の演奏家の心理やストレスは、試合におけるアスリートが直面するさまざまな重圧や不安とほぼ同じだろう。衆目の集まる中たったひとりで演奏しなければならにピアニストの心理は、フィギュアスケート選手のそれと、おそらく限りなく似ているのではないかと思える。スポーツの場合はタイムや得点によって「目に見える結果」が開示されるため、「何をどうしたらどのような結果になったか」という因果応報がわかりやすい。音楽の場合もコンクールや試験では結果が数値化されて順位が決められるものの、誰にでもわかるような優劣はともかく、トップレベルの競争になると評価の基準はきわめて曖昧だ。ほとんど「好き嫌いで判断される世界」と言って差し支えない。実情は料理の批評とそう変わらないのである。

さまざまな試行錯誤と、それによって導かれた明白な結果をもとにした研究が積み上げられたスポーツ心理学の成果は、応用スポーツ心理学として音楽の世界でもたいへんに役に立つ。そればかりかスポーツで通用し、音楽にも通用することは、人間の実生活そのものにも通用するのだ。これが「ライフスキル」といわれるものである。

本書を読破すると、音楽家のライフスキルに関する知識が増え、大きな充足感を味わうことができる。しかし本当の問題はそこからだ。そうして得た知識をいかに実践していくか、というところである。6月のブログでも触れたが、これがほんとうにむずかしい…。しかし知識がなければ何も始まらない事も、また真理である。まずは読むこと。たとえ読むだけで終わったとしても、決して後悔しない内容の本である。

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2009年07月27日

『新編 音楽家の社会史』西原稔(音楽之友社)

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数十年前に出版された『音楽家の社会史』がこのたび「新編」として再版されることになった。大歓迎だ。歴史の本にありがちな古色蒼然とした内容とは一線を画し、現代の世相につながる接点がたくさん含まれている。今回あらためて読みなおしても、とても新鮮に感じられた。

本書では18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで活躍していた音楽家たちの実生活が紹介されている。具体的にはモーツァルトからシューマン、ショパン、リストあたりまでの世相と思えばよいだろう。作曲家にとっての著作権や作曲料に関する実情、あるいは演奏家として生計を立てる際に直面せざるを得ない数々の経済的なハードルなどに関する話題が、生き生きと描かれている。

その昔、音楽家は王侯貴族の庇護のもとで活動していた。おかかえ音楽家として雇用者の満足のために作曲し、演奏することによって生活が保障されたのだ。報酬は現金とは限らず、食料品などの現物支給も一般的だった。音楽好きな領主に恵まれれば優れた楽士たちはそれなりの寵愛を受け、人々からの尊敬を得ることもできた。しかし、世間一般の常識では音楽家の地位など料理人のそれと同等だった。モーツァルトもベートーヴェンも演奏家として招待された邸宅でそのような待遇を受け、プライドをいたく傷つけられた経験を持っている。

コンサートの形態にしても、当時と今日のものとでは大きな差があった。詳細は本書にくわしく述べられているので割愛するが「いつの世でも音楽家の苦労はつきないなあ」というのが実感だ。演奏者の収入源は聴衆が支払う入場料だが、ここからさまざまな経費、とりわけ照明にかかる費用(シャンデリアにともす蝋燭代──大きなホールではこれがかなりの額となってデビューしたての演奏者を困惑させた)は、演奏活動の根幹を揺るがしかねないほど大きな負担になったという。それやこれやで収入よりも支出の方が上まわってしまうことも今日同様、日常茶飯事だったようだ。

音楽家と批評家との問題もとりあげられている。音楽ジャーナリズムの台頭により、社会的に影響力をもつ評論家が幅を利かすようになった。見当外れで身勝手な評論を発表する評論家とそれに憤る演奏家という構図は、今に始まったことではなかったのだ(これに関してはスロニムスキーの『名曲悪口事典』もおもしろい)。

当時の音楽家の収入額などが随所に具体的に書かれているのも興味深い。ヨーロッパの通貨にはさまざまな単位があり、その換算法も10進法とは限らない。何らかの基準を定めて今日の金銭感覚と対比可能なレベルに整理するのは、現実問題として不可能に近いだろう。それでも本書を読んでいて「これぐらいかも知れないなあ」という感覚を得られるのは、なかなか貴重である。

音楽だけでは御殿が建ちそうにないことは、今も昔も変わらないようだ。それでも音楽は継承される。今日までの音楽家たちの労苦と努力とに敬意を表したい。

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2009年04月30日

『アウシュヴィッツの音楽隊』シモン・ラックス/ルネ・クーディー(大久保喬樹訳、音楽之友社)

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第二次世界大戦が終結してから65年。戦闘員としての体験を自分の声で語れる人も少なくなりつつある。敗戦国となった大日本帝国とともに、ナチス・ドイツの行為を記した書籍は数多い。そうした中で、フランクルの『夜と霧』(筆者の2007年6月のブログを参照)は、ユダヤ人強制収容所に関する有名な一冊だ。

ヒトラーは政策のプロパガンダに音楽をうまく利用した。報道番組のテーマ音楽として利用された作品(たとえばフランツ・リストの交響詩《レ・プレリュード》)は、その強烈な印象からその後ほとんど演奏される機会を失ってしまった。旋律を聞いただけで、当時の記憶が戻ってしまうのだ。こうしたヒトラーのゆがんだ音楽利用に加担したとして、戦後苦境に立たされた演奏家も数多い。

同じ音楽家でもユダヤ系の人々は、ユダヤ系であるというだけで社会から排斥され、家畜同然の扱いで強制収容所に搬送された。しかし非人道的きわまりない強制収容所においても、音楽の存在は欠かせなかったと見られる。囚人の中から楽器を弾けるものが募られて楽団が構成され、囚人たちが毎日の肉体労働に出発する時と、そこから疲れ果てて戻ってくる時はもちろん、高級将校の誕生日パーティなどでも演奏したのである。慰安目的のコンサートも数多く行われた。同じ囚人でありながら、楽団員はかなり優遇されたという。もちろん「優遇」とは言っても一般の囚人と比較してのことであり、生命の保証もない劣悪な状況に変わりはない。

「百年に一度の経済危機!」などと目先の現実ばかりに目を奪われて過去の記憶が次第に薄れつつある今、本書が復刊されたことは、風化しかけていた戦争の痛みを再認識するきっかけとなろう。30年以上前に出版された『アウシュヴィッツの奇跡〜死の国の音楽隊』の新装版だ。タイトルは刷新されたものの、内容に関してはほとんど以前のままだという。

意外にも、読後の印象はそれほど重苦しいものではない。極限の状況の中で死と隣り合わせに生活していたにせよ、音楽隊の隊員として抜擢された幸運から、他の囚人とは異なる境遇に巡り合わせた者の報告だ。だからといって理不尽な暴力から隔離されていたわけではない。暴力による人の痛みをこのなく愛するサディストたちもうようよしている収容所だ。理由なき暴行、過剰な暴力行為は日常茶飯事だった。しかし音楽を通じてさまざまな苦境が少しでも緩和されたのだとしたら、これも音楽の持つ力なのだろうか。

アウシュヴィッツの音楽隊の演奏がどのようなレベルだったかはわからない。朝夕に演奏する行進曲は定番としても、その他はおそらくお祭り、ビアホールやキャバレーなどで演奏される庶民的なナンバー、つまり「洗練された」という形容詞とはほど遠いものが多かったのではないだろうか。お祭りで酔っぱらったドイツ人の浮かれようが目に浮かぶ。

2002年にヒットした「戦場のピアニスト」も、ナチとユダヤ系民族の排斥、そして音楽を軸にした映画だった。日本でも軍歌が愛唱されていた。戦争と音楽。本書の行間から何を感じ、何を想像できるか──史実を知るとともに、想像力を強く刺激してくれるノンフィクションである。

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2009年03月24日

『もし大作曲家と友だちになれたなら…』スティーブン・イッサーリス(板倉克子訳、音楽之友社)

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小学校高学年から大人まで誰でも気楽に読める、楽しく魅力的な本である。一般的な“偉人伝”とは違った味わいの、さまざまなエピソードが提供されている。本書を読めば、登場する主人公を単なる偉人として尊敬するだけでなく、愛すべき隣人としても親しめるようになるに違いない。『続・もし大作曲家と友だちになれたなら…』とのセットを読破すると、計11名の大作曲家たちと友だちになれる。難しそうな漢字にはふりがなも振られ、若い読者への配慮がほどこされている1冊目を通じて得られる友人はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ストラヴィンスキーの6名だ。続編(こちらはふりがななし)ではヘンデル、ハイドン、シューベルト、ドボルザークとフォーレの5名が紹介されている。

音楽に限らず美術や文学でも、芸術作品にはすべて絶妙な味わいがある。そうした作品が創作された時の作家の環境や心情に関する情報が語られることは少なくない。しかしこうした“解説”がもたらしてくれる情報は、単なる知識として死蔵されてはいないだろうか。

美術や文学とは違い、音楽は「鑑賞者として享受する」だけではなく、「自分の手で楽器を扱って再現できる」ことが大きなポイントだ。他の芸術ジャンルでは味わえない、大きな喜びである。音楽する喜びは、奏者の技量に左右されるものではない。下手は下手なりに十分楽しめる。「いかに心をこめて演奏できるか」が課題なのだ。そのために作曲家がどんな性格の人で、何が好きで何が嫌いだったのか、という「人間くささ」を知ることは、大きなメリットとなるだろう。

意中の人からもらったラブレターを読む時は誰でもドキドキするだろう。何回も読み直し、句読点の打ち方といった細部までためつすがめつして、発信者の呼吸や心の動きを追体験しようとするに違いない。音楽も、単に音符を眺めているだけでは、その感動に限界がある。作曲家の人となりを知ってこそ、作品の個性を自分なりに組み立てることができるのだ。

「そんなことは当然だろう」と思いたいが、そうでもないようだ。私が普段接している音大生たちも例外ではない。何も肩ひじはって身構えなくても良い。「へえ〜」といった豆知識が役立つ日が必ず訪れるだろう。そのためにはまず「気楽に読める本」「語り口のリズムが心地よい本」の存在が嬉しい。嘘で固めた暴露本は困るが、この本なら大丈夫だ。演奏を楽しむ人ばかりでなく、リスナーの方々にもお薦めしたい。あるいは子供へのプレゼントとしても使えるだろう。

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2009年01月14日

『バレンボイム音楽論─対話と共存のフーガ』ダニエル・バレンボイム 蓑田洋子訳(アルテスパブリッシング)

バレンボイム音楽論─対話と共存のフーガ →bookwebで購入

バレンボイムは実に多才な音楽家だ。演奏にはたぐいまれな安定感がある。若い時から、「危うさ」を感じさせない演奏がバレンボイムの魅力だったように思う。そして彼のレパートリーの広さと量も並大抵ではない。天才、なのだろうか? ずばぬけて頭脳明晰な人物であることは間違いない。若い頃は主にピアニストとして活躍していたが、現在は指揮者としての仕事が中心になっているようだ。

今年(2009年)の正月にはウィーンフィル、ニューイヤーコンサートの指揮者として指名され、世界70カ国以上のテレビでその姿が放映された。そのコンサートステージから「2009年が世界に平和、中東に人類の正義が訪れる年になることを望む」と呼びかけたバレンボイムは、ブエノスアイレス(アルゼンチン)生まれのロシア系ユダヤ人である。現在の国籍はイスラエルだ。

イスラエルとパレスチナの抗争は今も続いているが、この人種問題に関してもバレンボイムはさまざまなメッセージを発信している。昨年末にはパレスチナ自治区ガザの情勢について「極めて憂慮している」との声明を発表し、双方の武力による暴力を批判、共存を呼びかけた。

バレンボイムはこのように紛糾した社会状況の中で音楽家として何ができるかを常に考え、行動に移している。イスラエル人、それにパレスチナ人をはじめとするアラブ諸国の音楽家が所属する混成オーケストラを結成したこともそのひとつだ。このオーケストラではイスラエル人とパレスチナ人が隣り同士に座って同じメロディーを弾く。力を合わせ、より完成された演奏のために努力するのだ。音楽に向かって集中することによって得られる一体感を通じ、何か人の心に変化が生じるのではないか、という試みである。

本書に掲載されている内容は、もちろん音楽に関することだ。しかしサブタイトルに「対話と共存のフーガ」とあるように、中東の人種問題に関する話題にも多く触れられている。常に複雑で流動的な状況に直面し、自分のオリジンとアイデンティティについて考え続ける音楽家の感覚には、何か他の人とは違うものが宿るのではないだろうか。そしてその思考の緻密さにも驚かずにいられない。このように高性能な思考回路をもった人間が音楽から感じることの片鱗に触れてみるのもまた一興だろう。

バレンボイムは今年9月にミラノ・スカラ座とともに来日する。その演奏が素晴らしいものであろうことは想像に難くない。しかし音楽は人の心に直接作用する。彼が普段考えていることを少しでも知っていれば、コンサートホールで彼の音楽に身を委ねながらも、また一肌違った感興も得られよう。音楽に不可欠なもののひとつに「直感」があることは間違いない。しかし直感だけで構築するには、クラシック音楽の作品は大きく複雑になり過ぎてしまった。必要なのは「知性」──これがバレンボイムのキーワードだろうか?

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2008年10月23日

『ベートーヴェンの音符たち』池辺晋一郎(音楽之友社)

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餅は餅屋。「芸は道によって賢し」や「海のことは漁師に問え」というのも同義の格言だ。本書ではまさにその神髄を味わうことができるだろう。伝統ある不動のクラシック音楽月刊誌『音楽の友』に連載された、多忙な(=人気絶大の)作曲家池辺晋一郎のエッセイをまとめたものだ。シリーズは『バッハの音符たち』でスタートしたが、その後『モーツァルトの音符たち』『ブラームスの音符たち』『シューベルトの音符たち』へと発展をとげ、ベートーヴェンに関する内容の本書が最新版となる。

同じ音楽家の中でも作曲家の感性と視点は、他人に真似のできない独特なところがある。私も演奏家そして音楽教育家の端くれとして、作品の構造やアイデアに関する考察にはそれなりの関心を持っている。それでも池辺のような着想はなかなか得られるものではない。「作曲家のアタマの中はいったいどういう構造になっているのだ?」と驚くばかりだ。

「わかりやすく、おもしろく」が命題とは言え、かなり専門的な領域まで踏み込まれた本書を読んでの感想は、私と一般の“熱心な音楽愛好家”の間で大きく違ったものになるだろう。音楽を職業としている私でも目からウロコの刺激を受けるのだ、ただただクラシック音楽が大好きなだけの音楽ファンへの新鮮な衝撃は、私の数倍、いや数十倍になるかも知れない。何しろ池辺は作曲家としての絶大な解析力に加えて、「シロートを喜ばせるツボ」をも熟知している。彼は映画やNHK大河ドラマの音楽なども数多く手がけてきたが、あの響きを聴いていれば池辺がいかに老獪な語り手であるかは容易に想像できようというものだ。

池辺の文章は、そのリズムも独特だ。おもしろい。読む、というよりは、直接語りかけられているような錯覚に陥る。しかし本書の内容を隅から隅までしゃぶりつくすには、いくつかのハードルがある。まずは最低限「話題にされている作品を聴いたことがある」ことだ。本書が「初めて聴く人のために作品の聴き所をあらかじめ紹介しておく」ガイドブックではなく、「ある程度聴きこんだ曲を、別の視点からアタックしてみよう」というものだからだ。そのためには掲載されている譜例をじっくり検証する必要がある。これがふたつめのハードルだ。オタマジャクシが苦手の場合には、かなり手間取ることになろう。可能ならば手持ちの楽器で音をなぞってみることも、より深い理解への助けになるに違いない。読者の健闘を祈りつつ、心からの賞賛とともに紹介させていただく次第である。

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2008年07月21日

『藤田晴子音楽評論選 ピアノとピアノ音楽』藤田晴子(音楽之友社)

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前回は「とんでもない評論家」の迷文を集めた本を紹介させていただいたが、今回は「すばらしい評論家」の紹介だ。藤田晴子である。2003年秋に惜しくも故人となった藤田は、日本の音楽界にあってピアニストとしての視点から書かれた評論を数多く発表し、啓蒙という観点からも大きな役割を果たした、貴重な存在だった。

評論の柱のひとつは演奏会の批評だ。どんな演奏も短絡的に批判・糾弾することなく、演奏家が内包しているプラスの面を誰にもわかりやすく紹介してくれた。藤田の落ち着いた、慈愛に満ちた評論にほっと安堵し、力づけられたことのある演奏家は私だけではないだろう。 そうした多くの評論の中から厳選されたものが一冊の書籍として上梓された。収録されているものは演奏会評ばかりではなく、恩師レオ・シロタの回想など多岐にわたった興味深い内容のものばかりだ。目を通してあらためて実感するのは、藤田の文章の自然さと明解さだ。誰もが日常生活で使う平易な語彙を駆使しながら、音楽の核心と陰影を明確に際だたせていく。

コンサート会場で見かける藤田は、いつも柔和な雰囲気をたたえた「敬愛すべきおばさま」だった。すれ違えばもちろんご挨拶申し上げるが、それ以上の会話を交わしたことはなかった。しかし本書を読んで、この一見物静かなおばさまが実はとてつもない才媛であられたことに驚愕した。幼少の頃はライプツィヒで暮らし、帰国後はピアニストとして頭角をあらわしたあと東京大学法学部に女子一期生として入学する。卒業後は法学部助手、そして国立国会図書館の主事、政治行政局課長、政治行政局主事、その後は調査立法考査局に専門調査員(事務次官級のポストとのこと)として在籍し、八千代国際大学教授として憲法学を担当するなど、男中心の社会環境の中に彗星の如く現れた、雲の上のエリートだったのだ。藤田の音楽評論が、国家公務員としての本業の余暇にこなされた副業だったとは、ついぞ考えつかなかった。

「能ある鷹は爪を隠す」とはこのことだろう。国家の機関内で飛び交っていただろう難解な表現とはまったく無縁の論調で、音楽の論評を単純明快に組み立てていく。評論の内容を吟味すれば今日のとらえ方と多少異なるところはあるものの、血の通ったコミュニケーションの手段として音楽を慈しむ愛情には、ほのぼのとしたものが感じられる。演奏家の性格がその演奏に反映されるように、藤田の人柄は、その文筆ににじみでている。その暖かさが懐かしい。

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2008年06月21日

『名曲悪口事典』ニコラス・スロニムスキー編(音楽之友社)

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「ベートーヴェン以降の名曲悪評集」

批評家、という職種がある。個人的につきあえば立派な人格の方々だが、一般的にはあまり歓迎されない場合が多い。そうした大先生のご意見を拝聴、拝読させていただくのは興味深いものの、自分自身が批評される側に立たされるのは、なかなかしんどい。

ほめて戴いた場合は「この先生はなかなか洞察力するどく、優れた審美眼をお持ちだ」と感じるが、けなされた日には「人のあらを探すことに喜びを感じる心の狭い人物に違いない」とでも思わないことには、気持ちの持って行きようがない。ほめる場合でも単にほめっぱなしではなく、どこかに「他の人は知らないが、ボクは君が犯した凡ミスに気づかなかったわけではないのだよ」という気持ちがにじんだ一文がまじったものであることが多い。

批評家にとって欠かせないのは“発表の場”だろう。なるべく多くの人の目にとまり、社会的な影響力までもが生じるようならば、批評家として幸せな気分になるに違いない。しかしそこには同時に大きな責任も生じる。デビューしたての新進アーティストの場合では、その後の人生が左右されることさえあるだろう。

芸術といえども究極的には「好きか嫌いか」の世界だ。犬が嫌いな人に「あなたの感性は正しくない」と批判しても無駄だ。「焼き鳥は塩で食べなければ本物とは言えない」と叫んだところで、どうなると言うのか。しかしこれが印刷され、衆目を集めるようになると、それが一般常識かのようになりかねない。マスメディアの恐ろしいところだ。

あきれるほど辛辣な批評家の罵詈雑言を馬耳東風のごとく聞き流し、自分の芸術を高めていった巨匠は多い。だから巨匠なのだ、という論法も成り立つだろう。他人の意見に左右されず、自分を信じる力に恵まれていたに違いない。ベートーヴェン以降の音楽家に対する酷評を集めた『名曲悪口事典』を読むと、良識ある?批評家として、よくここまで書けるものだ、と感心してしまう。私たちの価値観では当時の評価が妥当とは思えないが、書いた本人は「こと音楽に関しては私の方がよくわかっている」と信じて発表したに違いない。

しかし「何をどうけなしているか」というところから、当時の人々の好みや困惑が感じられる、なかなか興味深いデータだ。訳も簡潔で読みやすい。外国語の批評はまわりくどく、難解な形容詞がこれでもかとばかりに羅列されているものが少なくない。いくら熟読しても、結局何が言いたいのかわからない批評にもしばしば巡り会う。しかし「これも文化の一端なのだろう」と思えるようになった今日この頃である。

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2008年04月20日

『決定版 ショパンの生涯』バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著、関口時正訳(音楽之友社)

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小学生でもその名を知っているショパン。プロからアマチュアまですべての音楽ファンのアイドルだ。

これほどショパンの音楽が日本人に愛される背景には、いくつかの理由が考えられる。まず、あまり幸せではなかったように見えるその人生だ。ショパンの故郷はポーランドだが、20歳の時に親元を離れて西欧への旅路に赴いた直後、ワルシャワで武装蜂起が起きた。その後政治的な理由からショパンは二度と故郷の土を踏むことはなく、心中はいつも祖国への郷愁で満たされていた。愛人と離別して数年、孤独のうちに40歳にならず病死したことも同情を誘う。そんな「影」を背負ったショパンの姿が日本人の琴線に触れるのだ。どんなに楽しい時間を過ごしていても、心の片隅には悲しみが宿っている──「もののあわれ」の心情である。

いきおい、ショパンに関する書籍も多い。楽器店の書籍コーナーには必ずショパンの伝記や評論などが並んでいる。しかしこれら日本語の書籍には共通した問題がある。

ショパンはポーランド人だ。父はフランス人だったし、ショパン自身20年近くフランスに住んでいたからフランス語には何の不自由もなかったが、家族への手紙などはもちろんポーランド語で書かれている。ショパンがまだ故郷で暮らしていた頃の情報も、そのほとんどがポーランド語だ。

ポーランド語がわからないのは不便である。海外で出版された英語その他の文献を訳す場合でも、そこに引用されているポーランド語の原資料が正しく訳されているかがチェックできない。訳文の再訳は、しばしば重大な誤訳の原因となる。

そんなショパン評伝だらけだった中、本書は「ポーランド語の本が直接日本語に訳された」という、今までなかった画期的なものなのだ。訳者の関口は東大大学院で仏文学と比較文化を専攻した後、現在はポーランド文化とポーランド語の研究家として第一線で活躍している。ポーランド語とフランス語でなりたっているショパンの身辺を語るに当たって、これ以上の適役は考えられない。

本書はその期待を裏切らず、文章がじつに生き生きとしている。ショパンのユーモアや、そのおどけた文体までもが、今まで考えられなかった新鮮さで綴られている。原著者ジェリンスカ夫人の研究内容も興味深く、「ポーランド人ショパン」というスタンスに立ってまとめられた、お薦めの一冊だ。内容が濃いのにいとも気軽に読める、何とも嬉しい本である。

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2008年03月17日

『バッハ 演奏法と解釈-ピアニストのためのバッハ』パウル・バドゥーラ=スコダ(全音楽譜出版社)

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「もっと自由なバッハへ──21世紀のバッハ解釈」

今回はあつかましく自らが関わった書籍を紹介することをお許し頂きたい。

バッハの演奏法に関するドイツ語の大著を数年かけて邦訳した。いつ終わるともわからぬ翻訳と編集は長いトンネルの如しで、なかなか先が見えなかった。多くの部分は後輩の研究者たちに下訳してもらったのだが、内容を再確認し、監修者として日本語の体裁を統一しなければならない。歩みは牛歩のようでも1行、1段落、1ページずつ先へ進まないことには終わりも来ない。忍耐──課題はこれだった。

本書のような“学術書”は得てして難解になりやすい。その上、バッハの演奏法は一筋縄ではいかない題材だ。しかし原著者であり、80歳とはいえまだ現役の恩師バドゥーラ=スコダの暖かい口調を思いだしながら、できるだけ親しみやすい語り口を心がけたつもりである。

20世紀になって、バッハの解釈には大きな変革がもたらされた。現代もっともポピュラーな楽器のひとつであるピアノがバッハ時代に存在しなかったことから、「ピアノで演奏されるバッハにはオーセンティックな音楽芸術としての価値がない」と疎外されたのだ。バッハは鍵盤楽器の作品を多数創作したが、「これらはオリジナル楽器であるチェンバロかパイプオルガンで弾かれてこそ、バッハの精神がよみがえる」と主張され、多くの評論家が追随した。今になって冷静に考えれば、こうした極論の論者たちが所有していた楽器(チェンバロ)は、バロック時代のものとは大差があるロマン派時代のモデルばかりで、ピアノをあざける論議はまさに「目くそ鼻くそを笑う」を地でいくものでしかなかったのだ。

こうした狭量な解釈から脱却し、バッハ自身が現代楽器ピアノに出会ったらどんな評価を下したかを想像しながら、その作品をより自然に、活力に満ちたものとして再現し、本来の魅力を追求するのが本書の目的だ。規則でがんじがらめに縛られ、無味乾燥な音楽になりかけていたバッハの鍵盤作品を、素直な感激と共に演奏する方法を自分で考えられるようになるための手引きである。今までは正しい、と思われていた規則や常識のうち複数のものが、実はまったく根拠のないものだったという驚きは、この本を読んでみないと得られない。

バッハの音楽は、もっと自由なのだ。バッハ自身もそれを心から望んでいた。ピアニストにチェンバロやパイプオルガンのまねをさせるのではなく、バッハの音楽を自然な音楽として愛し、わくわくとした感動をもって演奏する喜びを本書がもたらしてくれることを願ってやまない。

目次紹介

【第1部】演奏に関する諸問題
《第1章》18世紀の演奏を伝承するC.F.コルトの手まわしオルガン《第2章》リズムの研究《第3章》バッハの正しいテンポを求めて《第4章》バッハのアーティキュレーション《第5章》強弱法《第6章》響きの問題《第7章》チェンバロとピアノのテクニックおよび表情豊かな演奏について《第8章》原典版楽譜の諸問題《第9章》作品の構造と演奏のまとめ方《第10章》平均律クラヴィーア曲集第1巻のプレリュードとフーガ第8番

【第2部】装飾音の研究
《第11章》はじめに《第12章》17〜18世紀における装飾法の発展《第13章》J.S.バッハの装飾概説《第14章》プラルトリラー《第15章》アポッジャトゥーラ《第16章》長いトリル《第17章》モルデント《第18章》アルペッジョ《第19章》記譜されていない装飾音の適用《第20章》バッハの鍵盤作品における自由な装飾

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2008年02月06日

『クラシックでわかる世界史』西原稔(アルテスパブリッシング)

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「時代を生きた作曲家 歴史を変えた名曲」

本書のタイトルは「クラシック音楽を利用して世界史を勉強しよう」と読めるが、そうではない。「世界史と対応させることによってクラシック音楽をより深く味わうための本」なのだ。音楽の歴史を俯瞰することは確かにクラシック音楽の理解に役立つが、いかんせん、楽しく読める音楽史の本に出会ったことがない。楽しく学べない知識はなかなか身についてくれないものだがこの本はそうではなく、「もっと知りたい!」と読む者をわくわくさせてくれる。

音楽に限らずさまざまな名作を鑑賞するときは、その作品を創作した作家の心情に思いを馳せるだろう。こと音楽では「ああ、このメロディがこれほど悲痛に響く裏には、そんなに悲しい出来事があったのか」と涙し、共感を深めるわけだ。

しかし創作活動の原動力となるのは作家の個人的・内面的な欲求だけではなく、社会的な事件や背景が大きなきっかけとなることが少なくない。バッハはなぜあのような音楽を書いたのか? 音楽家モーツァルトにフリーメイソンはどのような影響を与えたのか? そしてベートーヴェンやシューベルトの音楽をフランス革命、ナポレオンとその後メッテルニヒによる弾圧・検閲の世相を考慮せず理解することは不可能だ。今日“芸術”として鑑賞される作品の中で少なからぬものは個人的心情の訴えにとどまらず、社会体勢への共感や協力、あるいは果敢な挑戦として創作されたのだ。

貴族や宮廷の中で楽しまれていた音楽が庶民の生活に浸透していった状況も、音楽史としてとらえるだけでは不十分だ。一般市民が台頭していく過程は社会全般の変化として理解すべきもので、音楽はそのごく一部に過ぎない。

世界史(ヨーロッパ史)と音楽史をつきあわせることによって、「そうだったのか!」と納得できることは多い。作曲家とは自分の好きなことに没頭しているだけの“趣味の人”ではなく、実はどれほど雄弁な英雄だったかは、それぞれの時代の社会背景を知って初めて納得できるのだ。一般的な歴史の知識は音楽をより深く理解するために欠かせないどころか、音楽をもっと楽しむためのカンフル剤となろう。

今まで音楽史の本はたくさんあったし、世界史の本もそれ以上に出版されてきた。しかしそれを同列につむいだ本はあっただろうか。音楽史を「ルターの宗教改革から第一次世界大戦終結まで」という波瀾万丈なヨーロッパ史と合体させたこの本は、今まで不足していたユニークな視点を音楽ファンにもたらしてくれるに違いない。

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2007年10月25日

『音楽でウェルネスを手に入れる』市江雅芳(音楽之友社)

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演奏家として活動するためには、日々の練習が欠かせない。器楽奏者の練習時間は日々数時間というところだろうか。身体そのものが楽器である歌手は、器楽奏者よりもっと短時間で終えるのが一般的だ。私の専門はピアノだが、「何時間も続けてピアノを弾くなんて、ずいぶん体力を消耗するでしょう」と同情してもらえることもある。しかし現実は悲しい。ダイエットになるぐらいカロリー消費できるならば練習にも励みがつくというものだが、こっそり自分の腹回りをつまんでみれば、そうでないことは一目瞭然だ。「仕事として楽器を演奏する」とは「なるべく体力を消耗せず、無駄な動きや力みは極力排除して効率よく身体を使うことに習熟する」ことなのだ。練習で疲れてしまうような弾き方では身体が持たない。

最近「音楽療法」という分野が注目されるようになった。「療法」というからには「心身の不具合を改善する」という要素が含まれるが、そうした対症療法的なものに限らず、病の予防にも音楽を役立てよう、というのである。多くの人が興味を持つのは「ボケの防止」だろう。

以前から「モーツァルトの音楽を聴くと心が落ち着き、痛みもやわらぐ」と指摘されてきたが、「聴く」ことによって受動的に音楽を受け入れるのではなく、楽器を手にとって能動的に音楽をやろう、そして元気になろう、というのがこの本のモットーである。カラオケにもそれなりのメリットはあるものの、それよりも「管楽器をやってみませんか」というのが、東北大学で教鞭を執り、同大学病院の音楽療法室長でもある著者市江の提案だ。

「今まで楽器なんてさわったこともないし、楽譜も読めない」と尻込みする方もおられるだろう。そういう人こそ、楽器演奏にトライする価値がある。ド素人であればあるほどボケ防止の効果が高まることを、この本は教えてくれる。またどの楽器にはどんなメリット・デメリットがあるか、ということもわかる。

楽譜を解読し、指を動かすことによる脳への刺激、腹式呼吸の活性化を通じて得られる健康、そして音楽自体がもたらしてくれる喜び、また少し上達すると楽しめるアンサンブルの醍醐味…。「年寄りの冷や水」などといわず、何か楽器を習ってみようではないか。楽器の値段は千差万別だが、リコーダー(縦笛)のように誰でも買ったその日から音が出せて、それほど財布の負担にならないものもある。

楽器を習い始めるからには独習ビデオなどを利用せず、ちゃんとした先生に指導してもらうのが一番だが、こうして「老後の趣味」として初めて楽器を習おうとする初心者を指導するトレーナーが注意すべきポイントにまで触れられているという、今までのものとはひと味違った一冊である。

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2007年05月12日

『キリスト教と音楽』金澤正剛(音楽之友社)

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ヨーロッパの音楽が発展する過程において、キリスト教の存在は欠かすことができない要素である。古くは教会における礼拝の音楽として使用され、こうした日常のミサで歌われるような讃美歌も、捨てがたい味わいを持っている。一方この教えを題材として、バッハの受難曲や、その後の作曲家たちが創作したレクイエムといったように、大規模な作品も創作されるようになった。

ヨーロッパに暮らしてみると、1年365日がキリスト教を軸として過ぎていくことを痛感する。節目は祝祭日だ。日本では「祝祭日=仕事や学校がお休みで遊べる日」だが、あちらではまだその本来の意味が尊重され、神に思いを馳せる気持ちが強い。クリスマスは商店街のためのお祭りではなく、その日はお店を休みにしてキリストの誕生を祝うのだ(そこに至るまでの日々を利用して一大商戦が繰り広げられるのは何処も同じだが…)。「いつクリスマスツリーを飾るか」「いつそれを片付けるか」などにも規定があり、いまだにこれを守っている家庭も少なくない。子供のいる家庭においてツリーの飾りつけは大人の仕事で、その間子供たちは家の外に追いやられる。

本書を読んでよくわかるのが「欧米の祝祭日の順序とその意味」だ。なるほど、と納得できる。海外駐在でキリスト教圏内に暮らす人、また留学などで長期滞在する人はここをぜひ把握しておくと良い。「キリスト教」と十把一絡げにしてしまうが、実はその本流とそこからさまざまな流派が分化していった歴史は血なまぐさく、複雑なのである。そのあたりを知ることによって、宗教が絡んだヨーロッパの複雑な民族問題も、また別の視点から見ることができるようになろう。

音楽鑑賞の際に助かるのは、あまたある宗教音楽の構成が整理されていることだ。たとえばミサ曲にもさまざまなものがあるが、その典礼の順序がはっきりとし、どのような内容が歌われているのかがわかるようになって、気持ちがすっきりする。「読んでおもしろい」というよりは、何となく知っているつもりでも曖昧だったことがきちんと整理され、知らなかったことを知る喜びを与えてくれる本である。特に音楽家にとっては必携の書といっても良いだろう。あなたがクリスチャンでないならば、なおさらだ。

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2007年02月04日

『ピアノの巨匠たちとともに(増補版)』フランツ・モア 中村菊子訳(音楽之友社)

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「人間と信仰」

モアはドイツ人だ。祖国の敗戦をきっかけにアメリカに渡り、ニューヨークのスタインウェイ社に入社、その後多くのピアニストに信頼される調律師となった。スタインウェイ社のピアノを使って世界的に活躍するトップアーティストには、その人だけに合わせた特別のサポートが提供される。あのホロヴィッツが来日した時にアメリカから持参したピアノに同行していたのが、このモアだった(ピアノを持ち歩いて演奏旅行できるピアニストは世界でも数えるほどしかいない)。

モアはホロヴィッツばかりでなくルービンシュタイン、ギレリス、クライバーンやグールドなどと仕事をした。こうした「雲の上のピアニストたち」のプライベートな姿に触れられるだけでも貴重な本である。とくにホロヴィッツに関してはさまざまなシーンが語られている。また別の章にまとめられているピアノのことや調律師の仕事の内容も、わかりやすい。

しかし印象深かったのは音楽のことよりも、「信仰」に由来するさまざまな行為のことだった。神に全幅の信頼をおく──一般的な日本人には縁遠い世界だ。私自身も「正月は神社に行き、クリスマスはそれなりに楽しみ、納骨されるのはどこかの寺だろう」という典型的な無信仰人間だが、科学では説明できない何かがこの世に存在することは感じる。信仰によるコンバージョンという現象も否定しない。そればかりかベートーヴェンにもこうした体験があったに違いないと思う。史実としては何も残されていないが、これなしでベートーヴェンのあの精神力は納得しがたい。

モアは多感な17歳の時にドイツで敗戦を迎え、すべてを失った。両親は辛くも生き延びたが、兄は戦死している。モアはイエスに背を向け、神の存在を完全に否定する。そして人生の可能性を求めてアメリカへの移住を決心した。その過程で何が起き、どうしてまた信仰の世界に戻り、以前にも増して神と共に生きる道を実践するようになったかが静かに語られる。

クリスチャンではない読者としては「う〜む…」という気持ちももつだろう。しかし読んでいるうちにふと「心の平安とは何だろう」と考えてしまう。伝説のピアニストたちのことを知りたくて手にした本だったが、心に残った印象はまったく別のものとなった。「読み終わった」という気持ちの切り替えがうまくできずに、何となく複雑な心境である。

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2007年01月20日

『日本音楽の再発見』小泉文夫・團伊玖磨(平凡社ライブラリー)

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「欧米の後を追いすぎる日本」

1983年に急逝した小泉は「伝統音楽」に造詣が深い音楽学者だった。日本はもちろんアジアやアラブ諸国の音楽を詳細に研究し、それまで常識だったクラシック音楽崇拝の風潮に大きな波紋を投げかけた。小泉の理論に影響された音楽家も数多く、坂本龍一もそのひとりである。

團も2001年に鬼籍に入ってしまったが、童謡《ぞうさん》を作曲したのはこの人である。もちろん「ぞーさん、ぞーさん、おーはながながいのねー」はあくまでも團の“それ以外の作品”として紹介されるべきもので、オペラ《夕鶴》をはじめとした日本の題材を軸とした魅力的な作品を多数創作したばかりか、『パイプのけむり』という随筆集の作家としてもよく知られている。

このふたりが明治維新このかた“西洋かぶれ”の状態にある日本の音楽界の状況を憂い、嘆き、日本音楽の未来を語る対談集である。対談が行われたのはおそらく70年代後半だろう。お二方とも50歳前後で人生最盛期の頃のものと想像される。私自身は西洋音楽ででメシを食っている身ながら、「そう言われてみればもっともな話だ」と考えさせられる話題が豊富に提供されている。そしてほぼ30年前に指摘された状況は、21世紀になっても大して変化していない。

曰く「日本語の歌詞に西洋風の音楽をつけるとする。1番は「海」で始まり、2番は「山」で始まる。言葉の抑揚は逆なのに同じ旋律で良いのだろうか?」 曰く「ピアノを習う生徒は先生宅の玄関で靴を脱いで、畳の上に敷物をひいた部屋にあるピアノでレッスンを受け、ピアノの上にはガラス箱に入った博多人形が飾ってある。これで真面目なんだな。」

ヨーロッパの伝統芸術では個性が最も重視される。それを、個性的であることを本質的に嫌う日本人(サラリーマンのスーツ姿、中高生の制服姿、「出る釘は打たれる」などの格言を思い出してほしい)に国是として強要して良かったのだろうか。ヨーロッパの音楽が自国を含めたどの文化圏のものより優れている、と信じてきたのは正しかったのだろうか。

團は幼い頃ピアノの前に座って「ドとミの鍵盤を一緒に押した時に、なぜレの音が鳴らないのか」と考えたという。発想の柔軟性とは何と魅力的だろう。発想の転換も脳をリフレッシュする。そのために適度の刺激を与えてくれる一冊である。

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2006年12月06日

『海峡を渡るバイオリン』陳昌鉉(鬼塚忠・岡山徹聞き書き)(河出書房新社)

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フジテレビ開局45周年記念企画として草彅剛の主演で2004年にテレビドラマ化されたので、それをご覧になった方も多いだろう。原著を構成した鬼塚と岡山の語り口は秀逸で、読み始めたらそのまま最後のページまで一気に読ませてしまう勢いがある。

物語は、貧しい環境で育った陳昌鉉が幼い頃に祖国韓国で体験したシーンから始まる。そして日本に行き、明治大学在学中にめぐり会ったストラディヴァリウスというヴァイオリン最高峰の楽器に関する講演をきっかけに、その後の人生をこの楽器製作のために捧げることになった経緯が語られるのだ。

「夢をかなえる」と口にするのは簡単だ。しかし日々の生活に押しつぶされることなく夢を持ち続けるのは、誰にでもできることではない。戦前戦後を通じて存在する韓国人と日本人との不公平な関係を考えれば、なおさらである。在日コリアン陳の人生は“波瀾万丈”の一語に尽き、これが映像化されたのも「さもありなん」とうなづける。しか本を読みながら覚える「はらはら、ドキドキ、すごいなあ」という興奮とは別に、ふと考えさせられたこともある。「充実した人生とは、どこにあるのだろう?」という漠然とした疑問だ。

「あなたが本当に好きなことは何ですか」と聞かれて即座に答えられる人は、果たしてどれだけいるだろうか。陳の場合はヴァイオリンの音であり、製作である。自分の手を動かして何か作り出すことが何よりも楽しいに違いない。「寝食を忘れて」という言葉があるが、本当に好きなことだからこそ、没頭できるのだろう。

私の場合は「文明の利器をコントロールして、五体だけでは不可能な体験を満喫すること」だろうか。車の運転も好きだし、スキューバダイビングも然り。ジョギングやウォーキングは不得手だが、マシントレーニングは嫌いではない。ただ泳ぐよりは、フィンスイミングの方が楽しい。本職であるピアノの演奏も「表現力の拡張」という意味で、同じ線上にあるものだ。

これから団塊世代が大挙して隠退生活に突入するという。これからの人生が充実するかどうかは「自分が心底からやりたかったこと」を、自覚しているかどうかにもかかっているはずだ(もっともそれが「飲む、打つ、買う」のいずれかだった場合はどうしたものか…。家族に迷惑をかけるのはルール違反である)。自分に「三度のメシより好きなこと」があるかどうか、考えてみたことはありますか?

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2006年11月09日

『感じて動く』佐渡裕 聞き手:辻秀一(ポプラ社)

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クラシック音楽界で押しも押されぬスターとなった佐渡裕。その佐渡は修業時代に「バーンスタインに会うためにアメリカに行ったのに、そこからウィーンに飛ばされて放りっぱなしにされてしまったのです。世の中からつまみ上げられて、ボーンと捨てられたみたいな感じでした(本書145ページより)」と語る。まさにその時のウィーンに私は住んでいた。

ウィーン時代の佐渡には「身体は大きいよなあ。ノーテンキな所もあるけれど、いいヤツや。ほんとに有名になってくれるのかなあ…。そのうち偉くなったら仕事ちょうだいねっ」みたいな気持ちを抱いたものだ。一緒に食事をしたり、遠足を楽しめたのは幸いだった。周知の通り佐渡のキャリアは時を置かずして見事に開花し、一気にスターダムに登りつめていくことになる。

バイタリティーの塊のような佐渡が音楽の本質をどうとらえ、設定した目標にどのように肉薄していくかは、誰もが知りたいところだろう。それが佐渡自身の言葉で次から次へと繰り広げられる。佐渡の聞き手として登場する辻秀一は私が尊敬するスポーツドクターであり、私にとってはライフスキルに関する貴重なアドバイザーでもある。(このブログで昨年12月に紹介した『ほんとうの社会力』は、辻の数多い著作のひとつである)。

辻は「人間、大人になると物事を“損得”で判断するようになり、自分は本当は何が好きなのかを見失ってしまいやすい」という。私自身「今井さん、あなたは本当に音楽が好きですか」という辻の問いから自己を見つめ直し、さまざまな発見があった。佐渡の人生はまさに「損得勘定抜き」なのである。「好きなこと、やりたいことを見すえ、その実現を心から信じて行動する」という、できそうでできない生き方なのだ。

ライフスキルのひとつに「楽しむ力」という概念がある。これに関してたぐいまれな資質を持っているのが佐渡である。野球を楽しめるからこそ、あそこまで到達できたイチローと同じだ。サッカーの中田も、マラソンの高橋も、ゴルフの宮里も。楽しいからこそ一所懸命になれるのだ。

佐渡はその充実感をまわりの人と共有する事にも大きな喜びを感じている。こんな素敵な人間がいることに微笑み、あこがれ、思わずエールを送りたくなる──そういった「自分の心のエネルギーが増加する本」としてもお薦めしたい。

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2006年09月05日

『これで納得! よくわかる音楽用語のはなし』関孝弘/ラーゴ・マリアンジェラ(全音楽譜出版社)

これで納得! よくわかる音楽用語のはなし →bookwebで購入

「やっと出たか…」と、思わずため息がでてしまう。それほど役に立つし、楽しい内容の本である。読んで楽しくて、しかも勉強になるという本は、クラシック音楽のジャンルでは圧倒的に少数派だ。書店の本棚を眺めると、役には立つものの、読んでいてそれほど興奮できない本、あるいは「へええ〜」と感心はするものの、いわゆる雑学の羅列でしかない本が氾濫しているように思えてならない。

私が長らく暮らしていたウィーンは「音楽の都」として有名だ。日常会話にはドイツ語が使われるウィーンでも、イタリアだけは別格である。ちょっと古い話になるが、映画「アマデウス」の主人公モーツァルトとともに大いに気を吐いていたのが宮廷楽長のサリエリだったことは、覚えておられるだろうか。サリエリはイタリア人だ。終生ドイツ語はあまり上手にしゃべれなかったらしい。その当時のウィーンの宮廷の公用語はイタリア語だった、と言えたほどらしいから、楽長サリエリは自分の母国語ですべて事足らしてしまったのだろう。

こと音楽となると、イタリア語と無縁でいるのは不可能だ。音の大きさをあらわす「フォルテ」「ピアノ」から始まって、ほとんどの指示や記号はイタリア語で表現される。日本人にとっては外国生まれのカタカナ楽語である。だからこそ「楽語辞典」などという便利なものがあり、それですべてが解決される──と思うのが、今まで見過ごされ勝ちだった、とても大きな間違いなのだ。

これらの楽語は、そのほとんどがイタリアの日常生活に密着している単語である。どんな状況で使われる言葉なのかを知り、その肌触りを感じなければ、演奏の際に求められる繊細な表現につなげることができない。本書では「アンダンテとは、歩く速さのことではない」「1位の走者が2位を大きくスタッカートしています!」「髪をゴムでレガートする」「食べ過ぎてズボンがストレットになったから、ベルトをレントにする」などなど、おもしろい話題が次から次へと提供される。

音楽家なら必ず一回は読んでみるべき本だ。ついでに教科書的ではない生きた日常イタリア語の用法もちょこっと覚えられる。音楽家にとって「買って損のない本」とは、まさにこのような本のことを言うのだろう。

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2006年05月25日

『バッハとの対話─バッハ研究の最前線』小林義武(小学館)

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前回にひきつづき、もう一冊バッハに関する書籍を紹介したい。生涯における逸話など「バッハの話題」が中心だった礒山の著書とは少し趣を変え、本書は多岐にわたるバッハ研究そのものを中心に紹介したものだ。「バッハに関する話題を考証する手続き」と言いかえると、わかりやすいかも知れない。

「研究」と一言で片付けてしまうのは簡単だが、その対象と内容、手順、そこから得られる知見にどのような意味があるのか、といった舞台裏をのぞけるばかりか、門外漢にもわかるように解説してもらえるチャンスは、そうないだろう。音楽に関する研究は地味なものが多いだけに、研究の成果よりも「どのようにするとそのような結果に至るのか」という裏話の方が興味深いかも知れない。犯罪に使われた凶器と犯人の特定に至るまでのさまざまな分析や、法医学の手順の話にわくわくするのと同じである。

著者の小林は四半世紀ものあいだ欧州に滞在し、そのうちかなりの期間をゲッティンゲン(ドイツ)にあるバッハ研究所の学術研究員として過ごした。“バッハ研究の世界最先端”とも言うべき環境で切磋琢磨された考察力と長年の経験をもとに、生き生きとしたシーンが次から次へと語られる。五線紙として使用される紙の研究、筆跡鑑定、楽譜や楽曲そのものへの考察など、いわば「音楽の考古学」といった世界が繰り広げられるのだ。

ここ数年、バッハの演奏に対するアプローチが大きく変わりつつある。従来のように「規則にがんじがらめにされた音楽」ではなく、もっと自由な発想を大切にするようになったのだ。バッハ当時の古楽器を使用した演奏も、そのひとつのあらわれだろう。当初はなかば実験として開始された演奏形態だったが、「未発達な楽器では不完全な表現しかできないだろう」との予想をくつがえし、今までとは違った美しさが新鮮な驚きと感動をもって受け入れられるようになった。歴史の流れの中で楽器が「発達」したのではなく「変化」してきた、とのとらえ方が一般的になりつつあるのだ。音楽も同じである。

こうした変化を陰から支える大きな力が、小林をはじめとする音楽学者たちの地道な研究の積み重ねなのである。

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2006年04月13日

『J.S.バッハ』礒山 雅(講談社現代新書1025)

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クラシック音楽における「三大B」と呼ばれる作曲家がいる。バッハ、ベートーヴェン、ブラームスという、いずれも名字がBで始まるドイツ音楽の正統派たちだ。重厚にして堅実な作風は、まさに日本人好みと言えるだろう。

三大Bのトップを飾るバッハは18世紀前半の北ドイツで活躍した巨匠だが、その音楽は現代にも通じる新鮮さと柔軟性を持ち合わせ、音楽史上の大きなモニュメントとなっている。心に深く共鳴する敬虔で感動的な宗教音楽とともに“血湧き肉躍る”音楽もたくさん創作した。だが悲しいかな、無味乾燥で生気のない演奏の何と多いことか! 中でもバッハの魅力を一番わかっていない(わかろうとしない?)のが、クラシック音楽教育のプロである音楽の先生や、その教え子たちのような気がするのは、はたして私だけだろうか…。

こうした偉人の評伝は「格調高い」といえば聞こえがいいものの、どこかあか抜けない文体で書かれていることが多い。もともと外国語で書かれた著作を邦訳したものが多いという事情もあるにせよ、リズム感に乏しい日本語で主人公の人生が祖父母の代あたりから順に書き起こされるのを読み進むには、かなりの忍耐力が必要だ。

日本でも有数のバッハ研究家である礒山雅(ただし)が新書として編纂した『J.S.バッハ』には、こうしたまどろっこしさがない。言葉にも内容にもリズムがある。新書とは一般の人を対象にした入門書だが、だからといって礒山の展開するバッハ論には何の手抜きもなく、だれが読んでも楽しめるハイレベルな情報が満載されている。数や図形に託された象徴の話題も、音楽の授業の中では見過ごされてしまい勝ちながら知っておいて損はなく、酒席の話題としても使えるだろう。

この本で開眼し、『バッハ 魂のエヴァンゲリスト』(礒山雅著、東京書籍)で知識の再確認と補強を行えば、その日から正真正銘のバッハ通として胸をはれるだろう。そして何より大切なのは「その暁にはきっとバッハの音楽が大好きになっているだろう」ということである。

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2006年03月11日

『菩提樹はさざめく』三宅幸夫(春秋社)

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クラシック音楽には「歌曲」というジャンルがある。シューベルトの《冬の旅》という連作歌曲のタイトルは、ご存じの方も多いだろう。たとえ《冬の旅》は「?」でも、《菩提樹》となると「!」だろうか。《菩提樹》は、実は《冬の旅》に含まれる歌曲の一曲なのだ。

日本人はおしなべて外国語が不得意だ。何がダメかというと、ヒヤリング。外国旅行の道すがら、勇気を出して現地の人に質問するまでは良いが、返ってくる答えがチンプンカンプンでわからない、というこの悲哀…。

シューベルトの歌曲は格調高くドイツ語で歌われる。もともと外国語のヒアリングが得意でないところにドイツ語となると、ますますわけがわからない。いきおい曲名とメロディーの雰囲気でその内容を推測し、鑑賞することになる。

この方式で《菩提樹》を味わってみると、幸せそうな歌に聞こえる。菩提樹…憩い…緑…そよ風…幸せ…といった連想だ。ところが、真実はまったく別の所にある。雪の舞う真冬の深夜、黒いシルエットになった菩提樹が、葉の落ちた裸の枝をさざめかせて旅人に語る言葉とは何か?

ドイツ語の詩を解き明かし、さまざまな言葉に託された隠喩や背景、それらを通じて詩人が伝えんとしていることは何か、そしてそれを音楽で彩っていくシューベルトの手腕は…? それをこの本は語ってくれる。

この本を読むにあたって音楽とドイツ語に関するある程度の基礎知識があるに越したことはないが、必須ではない。詩人がいかに言葉を扱い、作曲家がそれをどのように感じ、音で表現していくのか、という驚異の創造行為とその緻密さをかいま見るだけでも、こうした歌曲を見る目(聞く耳?)が変わるだろう。昨今ちょっと波に乗ってマスコミにもてはやされるソングライターなどくそくらえだ。奥行きがまったく違う。藝術とはこういうものなのか、と実感できるだろう。

なお《冬の旅》に関しては、笠原潔が編纂した放送大学教材『西洋音楽の歴史』にある記述も示唆に富んでおり、興味深い名文である。あわせてお奨めしたい。

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2006年01月16日

『いい音ってなんだろう』村上輝久(ショパン)

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「ピアノ調律師」という職業をご存じだろうか。平たく言えば「ピアノの音を合わせてくれる専門家」なのだが、この技術者なしでは世のピアニストは生きていけない。

ピアノは、楽器としてはとても複雑で大がかりな構造にできている。ふつうのピアノの鍵盤数は88だが、ひとつの鍵盤(音)に対して複数の弦が張られており、その総数は約230本、そして心臓部である打弦アクションは4,700〜5,000個もの部品で構成されているのだ。これらがなめらかに動くようバランス良く調整し、演奏家が心を込めて弾けるように整えるのは、生半可な仕事ではない。本来は聴覚が頼りの職業だが、手先の器用さはもちろん、音響学をはじめとする物理一般に対する知識も欠かせない。

ピアニストと調律師の関係は、車のドライバーと整備士の関係に似ている。車は運転できても、整備や修理は別問題だ。F1レースに登場するようなトップレベルのドライバーには、やはりトップレベルの技術者が必要となるのである。

本書の著者村上は、F1ドライバー級のピアニストを常に満足させてきたスーパー調律師だ。しかし村上ほどの達人の域に達するまでには、人知れぬ試練と誠実な努力の積み重ねがあり、その軌跡はNHKの看板番組「プロジェクトX」でも紹介されたほどだ。日本製のピアノが世界を舞台に活躍しはじめた歴史と同時進行する逸話の数々には「負けないぞ」という、昭和の日本の意気込みが感じられ、懐かしさを感じてしまう。

話のおもしろさは言うまでもない。語り口のリズムもいい。さすが音楽にたずさわる人の文章だと感服する。そればかりか掲載されているたくさんの写真も貴重なものばかりだ。ふだんは目にできない著名な演奏家の飾らない普段着姿や、コンサート会場の舞台裏などが存分に楽しめる。緊張せずに読める一冊だ。

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2005年11月17日

『Aをください』練木繁夫(春秋社)

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Aは「エー」ではなく、「アー」と読む。ドイツ語だ。先日この書評ブログに彗星のごとく登場した、世界を股にかけて活躍中のピアニスト、練木繁夫が初めて書き下ろした本である。練木がいかに文才に長けているかは、書評空間にある投稿文を読むだけで一目瞭然だろう。

“A”というと、事と次第によってはかなりアブナイことを指す場合もあるが、音楽家である練木のAは「ラ」の音のことである。ポ、ポ、ポ、ポ〜ンという時報の時に聞こえる、あの音だ。これは、複数の演奏家が合奏する際、事前にお互いの楽器のピッチを合わせるために使われる。一説によると、赤ちゃんがこの世に生まれた時に発する「おぎゃー」という泣き声のピッチは世界共通で、時報の音と同じだという。「本当?」とも思うが、あながち嘘ではないらしい。

サブタイトル「ピアニストと室内楽の幸福な関係」からも推察できるように、ここには室内楽ピアニストとしての練木の、さまざまな経験や飽くことのない探求心に裏打ちされたメッセージの数々が熱く語られている。その内容は多岐にわたり、彼の博学には感嘆させられるばかりである。練木は指導者としても常に第一線で活躍しているが、そうした視点からのアドバイスも貴重だ。同業者としては、たくさんの仲間、とりわけ若い人たちに読んでもらいたい。ピアノを勉強している学生にとっては必読の書と言えよう。

ところで、練木の私人・公人としての生きざまは、私があこがれるもののひとつである。以前は彼を「雲の上の大先輩」として見上げるしかなかった私も、年を経るに従って年齢だけは「彼が少し先輩」の域まで追いついた。しかしこれが限界で、今後並ぶことも、追い越すこともできないだろう。それほど大きな存在なのだ。私の拙文ごときで「ネリキ」などと呼び捨てにしてはいけないのはわかっている。しかし書評の中、尊敬をこめた表現ということで、お許しあれ。

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2005年11月04日

『ベートーヴェン研究』児島新(春秋社)

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“学者の研究”と聞くと、敷居が高そうに感じるものだ。専門用語が並び、難解な言い回しが続く。「今日は日曜日です」ですむものを「さまざまな考察と明治以降の近代日本における歴史的習慣をふまえた上で、本日が日曜日である、という事実を認定するのに特段の支障はないものと思われる」と書かれたのではたまらない。

未知のことを解明するのはスリリングな作業である。殺人事件の犯人捜しと同じだ。研究は疑問からスタートする。「なぜ?」という知識欲だ。それに対して「真相はこうではないか」という仮説をたてる。

実はこの仮説がくせ者であることは、犯罪の見込み捜査失敗談などからも想像がつくだろう。しかし、何はともあれ「なぜ?」に対する答えをみつけ、そこに至った理由をつまびらかにし、それが自分だけの思いこみではないことを他の専門家たちに検証してもらえる形にして発表するのが論文だ。書きようによっては小説仕立てにもできるが、それは行き過ぎ。冷静さと客観性を欠かしてはならない。

音楽の分野では「なぜ?」に対する答えが常に明確な形で得られるとは限らない。論文執筆の準備は資料集めから始まるが、そもそも“音の響き”として味わってなんぼの音楽の根本であるべき音響資料は、ちょっと時代が古くなれば皆無に等しい状況となる。「A夫人がB嬢より遅めに演奏したところ、作曲家が“これぞ理想のテンポである”と叫んだ」ことは史実として確認できても、それが具体的にどんな速さなのかは「神のみぞ知る」である。

児島新はボンのベートーヴェンアルヒーフの研究員として活躍した、日本の誇る研究家だ。惜しいことに今から20年以上前にまだ50代の若さで亡くなってしまったが、その業績は素晴らしい。本書は児島の論文集だが、何より「読んでわかりやすい」のが嬉しい。専門的な題材ではあるが、「音楽学者が追求していること」の具体像を得るには格好の書籍ではないだろうか。

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2005年09月13日

『モーツァルト 演奏法と解釈』(音楽之友社)

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モーツァルトのピアノ作品をモーツァルトらしく弾けるようになるための指南書だ。読んでおもしろい、という本ではないが、奥が深い。難解な学術書とは違って実践のためのアドヴァイスがたくさん掲載されている。ここから得られる知識は他ジャンルや作曲家の作品にも応用できる。いわば実用書なのだ。日本語の初版が出版されたのは1963年。以来40年以上も版を重ねた、音楽専門書としてはまれにみるロングセラーだったが、この貴重な書籍もとうとう絶版となった。このコーナーで一般向けの書籍として紹介するにはどうか、と迷ったが、まだ書店や楽譜ショップには在庫が残っているところもあるようなので《購入ラストチャンス!》の緊急アピールとしてご理解願いたい。

著者バドゥーラ=スコダ夫妻は私の恩師である。ご主人パウルは「ウィーンの三羽がらす」としてならした世界的なピアニストだ。モーツァルトはお手の物。もうすぐ80歳になるが健在で、演奏活動もあいかわらず活発だ。しかし「第二次世界大戦からの復興期に彗星のごとくあらわれたピアノ界のスーパースター」だったため、日本ではオールドファンは多いものの、現代の聴衆の間での知名度が今ひとつなのが口惜しい。生粋のピアニストとしてのノウハウに音楽学者エファ夫人の学術検証をミックスしてまとめられたこの本は、正統派のモーツァルトを演奏したいと思うピアニストにとっては欠かすことのできない参考書だし、これからもその価値は変わらないだろう。

絶版にはなってしまったものの、モーツァルト生誕250年にあたる2006年には英語の改訂版が上梓される。数年後には改訂版の邦訳が入手できるのでは、と淡い期待を抱いているのだが、果たして??

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2005年09月01日

『現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン、モーツァルト』(東京書籍)

現代医学のみた大作曲家の生と死 ハイドン、モーツァルト →bookwebで購入

「死に様」の話題は人の注目を集めやすい。殺人事件の顛末を憂い、闘病記のたぐいに心を痛める裏には、死に関する興味がひそんでいる。それもそのはず、誰もが避けて通れないのが死である。自分にどんな死が準備されているかは、その時になるまでわからない。

過去の偉人がどんな苦労をし、いかなる限界に挑戦し、挫折から立ち直り、そして栄光に至ったかが書かれた“偉人伝”は誰でも読んだことがあるだろう。実はこのような話には事実無根の脚色が含まれていることが多い。たとえ主人公と直接交流があった同時代人の書いた伝記でも、額面通り信じてはいけないのだ。特に病気や死因に関しては、まだ医学が未発達な時代の見解をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。

本来は作曲家の音楽活動の実態を解明するための資料から健康に関する記述と史実を綿密に洗い出し、それを現代医学の知識によって再検討した結果がこの本にまとめられている。本書はハイドンとモーツァルトのみの内容となっているが、原著は全3巻の大著で、ハイドンからマーラーまで14名の作曲家に関する病跡研究が収録されている。まず作曲家の人生を追い、その後に疾病と死病に関する見解がわかりやすく語られる。今まで信じられていた通説が否定されることもある。モーツァルトの死因はその一例だ。

著者のノイマイヤーはウィーンで著名な内科医だが、ザルツブルク音大のピアノ科も卒業し、在職中も定年後もウィーンフィルのメンバーたちとアンサンブルのコンサートを公開の場で行うほどの腕の持ち主だ。私も実際その演奏を聞いたことがあるが、プロとしても遜色ない。医者にして音楽家──作曲家に関する病跡学の分野でこれ以上の適材は考えられないだろう。

ところで、残り12名に関する内容が日本語で読めるようになる日は訪れるのだろうか…?

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2005年08月15日

『古楽とは何か』(音楽之友社)

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音楽芸術は変化する。聴衆の好みも、演奏家が訴えようとすることも、時代とともに変わる。その中で尺度となるのが「作曲家はどう感じていたのだろう」「創作当時の音楽環境はどうだったのか」という、オーセンティシティーに関する考察である。今世紀はこれがより重視されるようになった時代といえよう。

たとえば一世を風靡したカラヤン。あるいはリヒターとミュンヘン・バッハ。当時(といってもそれほど昔のことではない!)人々はこれらが最高の音楽表現だともてはやし、多くの人がその真正性をなかば盲目的に信じ、崇拝したものだ。しかし今となってあのスタイルで演奏しようとする指揮者はいない。

バロックや古典派の時代の演奏がどのようなものだったかを知るのは困難だ。音源資料がほぼ皆無なのがその原因である。「音にしてなんぼ」の音楽であるにもかかわらず、一番肝心なものが欠落しているのだ。

本書はそうした「大昔のこと」に関する情報とともに、現在の古楽研究や、それに基づいた演奏法の実践がどのレベルまで進んでいるかを教えてくれる。厳選された興味深いテーマが、アーノンクールの言葉で語られる。鑑賞の際の理解を深めるというよりは、演奏者への刺激となり得る一冊だ。

ピアノのことしか知ろうとしないピアニストが少なくない。何もピアノに限ったことではないようだ。演奏家は自分の楽器をとりまく世界に安住してしまう傾向がある。より広い視野を得れば、もっと音楽を楽しめるのに…。これを機会に専門以外の本をひもとくのも一興ではないだろうか。

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2005年07月12日

『本当は聞こえていたベートーヴェンの耳』(NTT出版)

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地方のうらぶれたレッスンスタジオの本棚に並んでいたのを拾い読みしていたところ、やめられなくなってしまった。こっそり鞄に入れて持ち帰ってしまおうかとも考えたが、かろうじて踏みとどまった。自宅に帰ってネットで検索してみたが、これが何とすでに絶版…。1999年の本だから何とかなるだろうと思ったのが間違いだった。ようやく古本として入手して以来、私の大切な一冊となっている。

江時は音楽家でも医者でもない。しかしベートーヴェンと同じタイプの聴覚障害を持つ人である。だからこそ実感できるさまざまな悩みや苦労が紹介され、他の誰に創作も体験もできない、当事者のみが語れる現実が繰り広げられるのだ。

江時は、ベートーヴェンの難聴は20代後半からではなく(ベートーヴェン自身はそう告白している)、もっと若いとき、それもボン時代から始まっていたのだろうと推察する。また、ベートーヴェンの聴力は晩年に至るまでかなり残っていたはずだ、とも述べている。江時によって、ベートーヴェンの伝記にあるさまざまな事象から、健常者が気づかない側面が掘り起こされいくさまには思わず引き込まれてしまう。

ベートーヴェンに興味がある人にはぜひ読んでいただきたい一冊である。ベートーヴェンの気むずかしさが理解できるようになり、畏敬の念を越えて、親近感さえ持てるようになるかも知れない。

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2005年06月29日

『双子座ピアニストは二重人格?』(音楽之友社)

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いつもながら、青柳の文章を読むとスカッとする。状況に応じた単語の選択と表現のセンスが秀逸なのだ。言わんとすることの雰囲気がストレートに感じられる。文章のリズム感も絶妙だ。この本にはこうした爽快さが満載されている上に、多岐にわたる音楽シーンを堪能できる、というのがたまらなく嬉しい。

そもそも音楽を言葉で説明するのは難しい。言葉にできないからこそ、音に託すと伝わる、というのも真だろう。音楽教師の能力は、この曖昧模糊としたものをいかに言葉によって明快に説明できるか、ということによっても評価できよう。

音楽について書かれた文章は、およそ名曲解説のように無表情で難解な文脈によって、音楽を理解しようと努力する人々を音楽嫌いにしたり、褒めたいのかけなしたいのかわからないのらりくらりとした批評家の“迷文”がいたずらに演奏家の不安感をあおったり、まっとうでないものが少なくない。そんな時に青柳の文章に接すると、「あ〜今日は、酒も、メシも、実にうまいッ」と高揚した気分になれるのだ。

文章の切れ味だけではない。その内容も貴重である。修士論文のテーマを捜している音楽専攻の大学院生に青柳のエッセイを読ませると「ああ、こういう切り口もあったのか」と示唆されることが多い。

ところで青柳の本業は文筆家ではなくピアニストである。それともその逆??

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2005年05月19日

『モーツァルト』(新書館)

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久々にずっしりとした感触の本を手にした。

偉人や天才の伝記というと、おおよそ両親のルーツから始まり、その後時間軸を中心に話が展開されていく。この本も例外ではないのだが、それだけではない。“現代人の目から見たモーツァルト”という切り口が新鮮なのだ。たとえば「親離れ・子離れ」だ。

モーツァルトがどうしてコンスタンツェと結婚しなければならなかったのか、また父親はなぜそれにあれほど反対したのか。頑固な父レオポルトと、その心をときほぐそうと努力を惜しまない孝行息子ヴォルフガングの人間模様はこれまでも語られてきた。しかしこれを現代社会(特に日本)で問題になっている親離れ・子離れの視点から注目してみると、とてもわかりやすくて納得できるのだ。

稼ぎに稼いだにもかかわらず浪費がたたり、貧乏になって世を去った、といわれているモーツァルトの収入が現実にはどのぐらいあったのか、という詳細な研究も貴重だ。グルデン、ドゥカーテン、ギニー、クロイツァーといった当時の複雑な貨幣単位に関しては、ある程度訳注として説明されているものの今ひとつわかりにくいのが難点だが、これは他の本をひもといても同じである。

この本を楽しめたのは、石井宏による自然な訳に負うところが大きい。こうした学術書にあり勝ちな読みにくさをまったく感じさせず、読み物としても大いに満足できた。

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2005年04月27日

『大作曲家 シューベルト』(音楽之友社)

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引っ込み思案で女性にもてず、人づき合いが下手で友人のサークルの中でしか音楽活動をできなかった“偉大なるアマチュア”という先入観がもたれ勝ちなシューベルトだが、これは大いなる誤解である。シューベルトは同時代を生きた楽聖ベートーヴェンに勝るとも劣らない有名人だったという。

シューベルト研究は地味な研究だ。成果が上がりにくい。原因は資料の少なさにある。モーツァルトやベートーヴェンなら資料の量にも恵まれ、研究のしがいがある。シューベルトの場合は「こうだったのではないか」という仮説は立てられても、それを証明できるだけの資料が得られないのだ。仮説は単なる推測に終わり、学問として前に進めない。

そのようなシューベルト研究の現状の中で、もっとも先端の情報を確かな論拠とともに提供してくれるのがこの本である。原著はロロロ叢書という新書版の本だが、それだけに読者の対象は学者だけに限られず、一般の音楽ファンにもわかりやすい内容になっている。他のシューベルトの本には掲載されていない図表も多く、それだけでも手もとに置いておくと楽しいコンパクトな本である。

それまでの音楽の集大成を成就したベートーヴェン(1827年没)と、その後の音楽表現への一歩を踏み出したシューベルト(1828年没)が同じ街に住んでいた、というのは感慨深いめぐり合わせではないだろうか。

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2005年04月13日

『ベートーヴェン“不滅の恋人”の謎を解く』
(講談社現代新書1538)

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ベートーヴェンというと「苦悩の英雄」というレッテルとともに、眉間にしわがよった、あの顔が思い浮かぶ。確かに“音楽家なのに耳が聞こえなかった”というのは苦悩に違いないが、毎日が苦悩だけで満たされていたはずはない。

ベートーヴェンは女性にもてたのだ。相手は自分より上の階級、つまり貴族の女性ばかりである。特筆すべきはこれらの女性側から「実は私はベートーヴェンとつき合っていたことがあるの」という暴露話がただひとつとして漏れ聞こえてこないことだ。男冥利につきる話である。つきあい方(というか、別れ方?)にコツがあったのだろうか。

そんな数多い女性の中で誰が本命だったのかを解き明かそうとしたのが本著である。筆者の青木やよひは音楽学者ではないが、ジャーナリストとしての視点と緻密さをもって、当時の状況をひもといていく。推理小説を読むようなスリリングな展開があり、読者を飽きさせない。

ベートーヴェンの不滅の恋人が誰であるか、ということに関しては諸説あり、いまだに最終的な回答が出たわけではない。青木が構築する論理には思わずうなずいてしまいそうになるが、これに対する反論も存在する。それでも読んでいておもしろい。新書版という手頃なサイズでもあり、気軽に読める一冊だろう。

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